折内恵斗.2

 救急車の赤いライトが反射するガラス戸を押して、病院を出ると、外は真っ暗だった。

 街路樹も、花壇のレンガも、駐車場に並ぶ車も、真新しい墨を塗ったように黒く沈んでいる。


 白い息を吐いて踏み出すと、人影が見えた。

 マスクをして腕をギプスで吊っていたから外出していた入院患者かと思った。暗がりに目が慣れると、マスクの端から覗く爛れた火傷痕が見えた。読み聞かせボランティア・ことりの家にいた男だ。


 ガラス窓に張りつくように子どもたちを睨んでいた彼の視線が蘇る。あのとき、率先して健が問いただしてくれたことを思い出し、胸の底をスプーンで抉られたような痛みが走った。


 男は闇から滲み出すようにこちらに近づいてきた。

 濃いクマが刻まれた目がおれを睨みつける。視線は手と太腿の血痕に注がれていた。おれは咄嗟に作り笑いを浮かべる。

「偶然すね。どうかしたんですか、こんな遅くに……」

「怪我人が病院に来ちゃ悪いのか。保険料も収めてる」

 鉄を弾いたような冷たく硬い声だった。男はおれの傍を擦り抜けて、緊急外来の扉の向こうに消えていった。



 友だちがひとを刺して飛び降りても、日常は続く。

 大学の最寄駅はいつも通りひとがごった返し、十一月の澄んだ陽光がプラットフォームを輝かせていた。大学の前をパトカーが包囲する光景を想像していたが、道のりは何も変わらず、眠そうな顔の学生が歩いているだけだった。

 洗っても、洗っても、爪の間に入り込んだ血が取れない。


 一日ぶりにスマートフォンを開くと、休講の知らせが届いていた。

 講堂と部室棟の間に隠すように設置されたフェンスを潜り、喫煙所に向かう。洗いざらしのジーンズに似たベンチに腰掛け、煙草の箱を逆さにしながら、どうしようかと思った。

 ゼミやサークルの仲間にはもう事件のことが伝わっているだろうか。聞かれたらまともに答えられる自信がない。


 まだ一限も始まっていないのに、喫煙所はやけに黒く汚れていた。何の気なしに手をついたベンチも煤まみれだ。手で払うと、意志を持ったように指先に纏わりついてくる。

 シャツで拭おうとしたとき、背後から声が降りかかった。

「何やってんの?」

 小島こじまがまじまじとおれを見つめていた。

「いや、煤がやばくて……」

「何もないけど」

 改めてベンチを見ると、黒い汚れは消え去り、誰かが貼りつけたガムがへばりついているだけだった。


 小島はおれの隣に腰を下ろす。

「恵斗、顔死んでるよ」

「あんま寝てなくって……」

 おれは顔を擦る。指の間から差し込む日差しが目を射抜いて痛んだ。


 小島は咥え煙草でフェイクファーがついた上着の のポケットを探った。

「穴水の話、聞いた? やばいよな。知り合いがニュース出たの初めてだよ。教授のところにも警察来たって」

 おれが曖昧に頷くと、小島は嘲るように鼻を鳴らした。

「でも、正直いつかやると思ってましたってやつだよな」

「何が?」

「穴水って一年の頃わかりやすく陰キャだったんだよ。それが最近急にキャラ変わってさ。無理しすぎっていうか、やばい薬でもやってたんじゃないの? だって……」


 気づいたときにはもう、小島の上着の胸倉を掴んでいた。

「健はそんな奴じゃねえよ!」

 怒鳴りつけてから、喫煙所に反響する自分の声に驚く。小島の瞳は石を投げ入れた水面のように震えて、おれの顔が歪んで映っていた。

 ジャケットのフードについたファーが手の甲を柔らかく撫でる。おれは慌てて手を離した。


「悪い……」

 小島は平静を装いながら引き攣った笑みを浮かべた。

「俺もごめんな。恵斗が穴水と仲良かったの忘れてた」

「いや、マジでごめん。ちょっとおれ今おかしくなってて」

「何かあった?」

 おれは唾液で湿った煙草のフィルターを噛む。健の様子がおかしいのは気づいていた。実際体調が悪くてしばらく休学していたくらいだ。否定しようとすればするほど、小島の言葉が真実らしく響いてくる。


 スマートフォンの通知音が響いた。

 巽からだ。昨日、美鳥に告げられた従兄弟の所在を尋ねたのを忘れていた。おれは腰を上げる。

「……用事できたから今日サボるわ。本当ごめんな」

 小島は気遣ってくれたが、顔には動揺がありありと浮かんでいた。瞳に映ったおれは、読み聞かせボランティアから逃げ出したときの健とよく似た表情をしていた。



 電車を乗り継ぎ、ことりの家に向かった。

 会館の内部は仄暗く、静寂が満ちている。廊下のホワイトボードに記された部屋の貸し出し記録には、挿花教室の文字があった。

 冷え切った廊下の隅から老女たちの声が断片的に聞こえる。子どもたちの賑やかさとは大違いだ。


 健や美鳥があんなことになった今、読み聞かせの会はどうなるのだろう。

 あそこは傷ついた子どもたちの居場所だ。事件のニュースを聞いてトラウマが蘇った子もいるかもしれない。

 そう思ったとき、突き刺すような頭痛が走った。赤黒い泉のような血痕。教室にこだまする悲鳴。

 胃の底から何かが這い上がってくるような痛みで息が詰まる。記憶の蓋が徐々にずれて中から黒いものが滲み出す。


 おれは柱に縋り、浅い呼吸を繰り返して何とか息を整えた。上着を貫通する冷たい風が、吹き出した汗を冷やして体温を奪った。



 遠のきかける意識を繋ぎ止め、一歩踏み出したとき、巽の姿が見えた。

 巽は廊下の長椅子に腰掛け、隣に座るよう促した。腿に張り付くビニール皮の感触に、昨夜の病院を思い出した。

 差し出されたペットボトルの茶を礼を言って受け取ると、巽は暗い声で切り出した。


「美鳥さんの従兄弟はまだ見つかっていません。お力になれず申し訳ない。」

「全然、おれの方こそ急にすみません」


 巽は沈鬱に首を振る。

「穴水くんと美鳥さんのこと、何と言ったらいいか……」

「おれもまだ信じられないです」

「どうか思い詰めないように。折内くんのせいではありませんから」

 おれは頷き、緩い茶を喉に流し込む。上着にペットボトルを押し込もうとして、ポケットの中の御守りが転げ落ちた。


「それは?」

「健が落としたんです。咄嗟に拾っちゃって……」

 縮緬に染み込んだ血は渋茶色に変色していた。巽は御守りをじっと眺めてから目を伏せた。

「折内くんが持っていてください。穴水くんが目覚めたときに渡してあげられるように」


 脳裏に形見という言葉が浮かび、必死で打ち消した。健はまだ助かるはずだ。でも、目覚めたらおれはどうすればいいんだろう。ふたりも殺したかもしれない人間と向き合うことができるだろうか。


 おれは御守りを握りしめた。

「巽さん、健と美鳥さんに何があったか知ってますか」

 巽は言いづらそうに口を動かす。

「信じてもらえるかはわかりませんが、美鳥さんが霊媒師のようなことをしているのはご存知ですか?」

「冗談じゃないんですか」

「言葉の綾です。人間、カウンセリングや医療ではどうにもならない問題がありますから」

「じゃあ、健は幽霊か何かに取り憑かれて悩んでたってことですか」


 巽は何も言わなかった。

 挿花教室から品のいい老女の声が漏れてくる。四季の花の解説が、騒音で断ち切られた。

 廊下の隅から銀色のゴミ箱の蓋が転げて壁にぶつかる。銅鑼を叩いたような音が反響した。


 駆け寄ろうと腰を浮かして、思わず怯んだ。

 廊下の角から現れたのは、腕を三角巾で吊ったマスクの男だった。

 男は転がる蓋を踏みつけて動きを止めると、煩わしげに片手でゴミ箱を引き摺っていった。


「折内くん?」

 巽がおれを見上げている。おれはかぶりを振った。

「あのひと、昨日病院でも会ったんですよ。深夜の救急外来で……」

「そうでしたか」

 巽が見たこともないような険しい顔つきをした。鋭い目は男が消えた廊下の角を睨んでいる。


篠目しのめさんはここの清掃員ですが、子どもたちを怖がらせたり、少々問題がある方でして」

 巽は言葉を区切り、低い声で言った。

「彼が現れると、ひとが死ぬんです」


 頭上の蛍光灯がぶんと唸った。

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