折内恵斗.3
「巽さん、何言ってるんですか……」
質の悪い冗談かと思ったが、表情は真剣そのもので、自らの言葉に対する恥まで見て取れた。
「自分でも馬鹿げた話だとは思います」
巽は顔の前で両手の指を組んだ。
「彼、篠目さんは去年からここの清掃員をします。初めは美鳥さんの誘いもあって、読み聞かせの準備も携わっていたのですが……彼がよく声をかけていた子が急に来なくなりました。後から聞くと、その子の兄弟が亡くなられたそうです」
「それだけですか?」
「まだあります。
おれは息を呑む。ことりの家に来ていた、籠原の妹だ。昔あったときは籠原に目元がよく似ていて、でも、籠原より活発そうだった。
ここで見たときはあまりに印象が違って、初めは気づかなかった。荒れ放題の髪で顔を隠した、亡霊のような姿が浮かぶ。
巽は眉間に皺を寄せ、組んだ手に顎を乗せた。
「彼女のお姉さんが自殺する直前も、近辺で篠目さんを見かけたそうです。自宅の前で待ち伏せしていたり、深夜に部屋を覗かれたこともあったとか」
おれの手からペットボトルが滑り落ちた。緩いキャップが外れて茶の雫が足首を濡らす。おれは巽に詰め寄った。
「じゃあ、何ですか。あいつストーカーってことですか。籠原はあいつに付き纏われてたんですか」
「折内さん、落ち着いてください」
巽に宥められても冷静になれなかった。籠原が死んだのはあいつのせいじゃないか。あの男のせいでおかしくなってあんなことになったんじゃないか。
生前の籠原は一言もそんな話をしてくれなかった。知ってたら何かできたかも知れないのに。
巽はハンカチで溢れた茶を拭ってから、拾ったペットボトルの蓋を閉めておれに差し出した。
「申し訳ありません。こんなときに話す内容ではありませんでしたね」
「おれこそ熱くなってすいませんでした……」
おれは拳ひとつ分距離を空けて座り直す。
「今の話、本当なんですか」
「美鳥さんが朝香さんから聞いたそうです。他にも彼の周りでは……」
巽は言葉を区切り、濡れたハンカチを握りしめた。グレーのタータンチェックの布地から埃を吸って薄黒くなった茶の汁が滴り落ちた。
巽が顔を上げる。
「折内さん、更に不快な思いをさせたら申し訳ありません」
「急に何の話ですか」
「貴方は小学五年生の頃を覚えていますか」
喉元を締めつけられたように呼吸が止まり、頭の芯が揺らいだ。何で今、そんな話をするんだ。おれは必死で息を吸いながら答える。
「……おれ、実は子どもの頃の記憶がないんです。ちょうど小五のあたりから」
「そうでしたか。何かきっかけが?」
「わかりません。その後すぐ引っ越して、親父やお袋に聞いても教えてくれなくて、前の学校の奴らとも話すなって言われてて。思い出したら危ないからって」
巽の両目に映るおれの顔は蒼白だった。
「何で、そんなこと聞くんですか?」
「忘れてください。思い出さない方がいいのかもしれません」
「教えてください。籠原や健に起こったことと関係あるんですよね。だから、言ったんですよね?」
おれは巽の腕を掴んで揺する。巽の深く溜息を吐き、水滴が蛍光灯を反射する床を睨んだ。
「初めに折内さんの名前を見たときに気づきました。貴方は私の弟の同級生だったんです」
「巽さんの……?」
最初の打ち上げのとき、巽の弟は自殺したと聞いていた。
「弟は人付き合いが苦手で孤立しがちでして、友人と呼べるのは貴方しかいませんでした。よく折内さんの話をしていましたよ」
巽は悲しげに笑い、唇の下を指した。
「タッちゃんと呼んでいたんですよね。覚えていませんか。口元に黒子があった」
古びた電線がショートするように、記憶の中の光景が鮮烈に光った。
真夏の夕暮れが垂れ込める校庭と、温くなった鉄棒。砂まみれの水道場から落ちる水滴の音。色白な少年が微笑む。顔はぼやけて思い出せなかったが、口元の黒子が上下したのは覚えていた。
「少しだけ覚えてます……」
おれは水槽から出された金魚のように喘ぐ。タッちゃんと、確かにそう呼んでいた。何故忘れていたのだろう。掠れた記憶の光景は、九月の教室に変わる。悲鳴と血の匂い。
見透かしたように巽が言った。
「弟は小学五年生の夏休み明け、同級生に刺されました。命に別状はなかったのですが、それ以来、弟は何にでも怯えるようになり、最後は自ら命を絶ちました」
思考が千切れて言葉が出なかった。おれは覚えている。幼い手から零れ落ちるナイフと、ニスが剥げた教室の床に広がる血を。
「私の弟を刺したのは、篠目、あの男です」
頭痛が脳を突き抜けて全身を突き刺すようだった。意識が身体から剥がれ落ちる。倒れかけたおれを巽が支えた。
「どうして、タッちゃんが刺されなきゃならなかったんですか」
「理由はわかりません。篠目さんは未成年でしたし、保護観察ということで罪には問われませんでした」
「おかしいでしょう! ひとを殺そうとしたんですよ!」
「弟のために怒ってくださってありがとうございます」
巽は全てを諦めたように微笑んだ。
「折内さん、どうか気をつけて。彼には近づかないでください」
挿花教室の老女たちに混じって会館を出てからも、鐘を打つような頭痛が治らなかった。電車の揺れが痛みを増幅させる。
座席に沈み込むように座り、車窓を流れる夕暮れの東京を眺めた。
おれは何も知らなかった。タッちゃんも、籠原も、健もあんなに近くにいたのに、抱えていたものをおれは何も見ようとしなかった。
自分が情けなかった。籠原が相談してくれなかったのは、きっとおれには頼れないと思ったからだ。
おれに何ができるだろう。全ての事件の渦中にいたのは篠目という男だ。奴がいて、みんなが不幸になった。
怒りで頭の中が洗濯機のように回転する。嘘か本当かはわからないが、あの男に怒り続けていなければ、握った拳を自分に打ち付けるしかなかった。
奴のことを探ろう。もしかしたら、健が凶行に走った理由もわかるかもしれない。おれはポケットの中の御守りを握りしめた。
電車を降りると、駅前の商店街はほとんどシャッターが降り、代わりに飲み屋街の明かりが灯り始めていた。
すずらん型の街灯の下で、ネオンか酔いか、頰を赤く染めたサラリーマンが屯している。上着を羽織っていても寒いのに、居酒屋から半袖で出てきた店員が、ビールケースを抱えて去っていった。
籠原が死んだ日、同じくらいの時間、似たような場所で朝香と会った。上着も羽織らず、靴を履かずに、顔に血をつけて歩いていた。
あのとき、ちゃんと事情を聞いていれば惨劇も防げたかもしれない。おれはカーディガン一枚貸しただけで満足してしまった。
終わらない思考を断ち切るために、おれはスマートフォンを開いた。メッセージアプリの通知がパンクしそうなほど溜まっていた。ゼミの飲み会や、冬の合宿の誘いや、塾講師のアルバイトのシフト表がずらりと並んでいる。
おれの日常は何も変わっていないはずなのに、見える景色が全く変わってしまった。
トイレットペーパーの安売りを喧伝するドラッグストアや、違法駐輪だらけの学習酒を抜け、アパートに向かう。
臙脂色の見慣れた建物が目に入ったとき、焦げくさい匂いが漂った。学生用の安アパートだ。誰かが長時間シャワーを浴びていると、そんな匂いがすることもある。
気にしないように踏み出すと、階段の前に影があった。真っ黒な人影が。
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