折内恵斗.4

 影は階段の前に積まれた置き配の段ボールと、空っぽの植木鉢にもたれかかるように座っていた。


 近づいても男か女かもわからない。黒い上着を着てフードを目深に被っているのかもしれない。

 まだ夜は浅いが泥酔しているのか、それとも、具合が悪くて休んでいるのか。


 おれは歩み寄り、不安にさせないよう努めて明るい声を出した。

「すいません、大丈夫っすか」

 真っ黒な人物は答えない。肩が泣いているように微かに揺れているのがわかった。

「具合が悪いなら救急車呼びましょうか?」

 膝を抱える両手の隙間から啜り上げる声が漏れている。泣いているのを見られたくないのかもしれない。一瞬迷ったが、おれは屈んで彼か彼女かを覗き込んだ。助けられたかもしれないひとを見過ごすのはもう御免だ。


「ここ寒いんで、よかったらおれの家で休みませんか。薬か飲み物なら買ってきますから」

 固く組まれていた手が少し緩み、隙間から顔が覗く。

 安堵した瞬間、得体の知れない不安が胸を過った。

 こんなに近いのに顔が見えない。真っ黒な腕の間からくっくっと喉を鳴らす嗚咽が響き、肩の震えが大きくなる。泣いてるんじゃなく、笑ってるんだ。


 思わず後退ると、黒づくめのひとが急に身を起こした。切れかけの蛍光灯が明滅する。

 フードをかぶっていたんじゃない。全身が煤を塗ったように黒い。閉じた目蓋の下は眼球などないように落ち窪み、鼻は小さなふたつの穴が空いているだけだ。人間じゃない。


 真っ黒な影が裂け目のような口を開く。大柄な身体からは想像できない、甲高い赤ん坊の泣き声が響き渡った。鋭い音が鼓膜を射抜き、頭痛が蘇る。

 黒い影は両手と両足を地面につけ、途端に這うようにこちらへ向かってきた。


 おれは踵を返し、全力で走る。

 何かはわからない。でも、捕まったらまずいことだけはわかった。すぐ後ろでざかざかとアスファルトを削る音がする。おれは足を速めた。


「何なんだよ……!」

 赤ん坊の泣き声が住宅街にこだまする。

 木々が揺れるほどの大声だ。なのに、誰もアパートから出てこない。

 眩む視界に、背後にチラつく影が映る。這いずりながらこんなに速さで追って来られるはずがない。


 道路に飛び出すと、目の前を乗用車が掠めた。

 走行音が後を引き、突風が押し寄せる。明確な死を意識して全身が凍りついた。

 横断歩道は赤い信号が灯っている。金属を擦り合わせるような泣き声が徐々に近づいてきた。

 おれは信号が変わる前に駆け出した。


 向かいの通りの雑踏に飛び込む。学生が驚いた顔でおれを避け、サラリーマンが怒鳴りつける。

 肩がぶつかる硬質な感触。おれはしどもろどろで謝って走り続けた。おれがぶつかったひとがまだ背中を睨みつけているのを感じた。


 駅前のバスロータリーに辿り着き、おれは停留所のベンチに崩れ落ちる。黒い影は追ってきていない。頭痛も、耳鳴りも、赤ん坊の声もない。

 おれは乱れた呼吸を整え、ベンチに横たわった。全身の汗が乾いて体温を奪う。冷静になるほど先程見たものが紛れもない真実だとわかった。


「くそ、何だよあれ……」

 絶対に生きた人間じゃない。じゃあ、幽霊か化け物か。そんなはずない。世の中に存在するはずがない。

 怖い話なんて不幸な奴の慰めだ。ベンチの銀の手すりに反射するおれは汗まみれで悲惨な顔をしていた。まるでホラー映画に出てくる犠牲者だ。

 酸欠で頭が回らず、無意識に笑い声が漏れた。どこからどう見ても今のおれは不幸でおかしな奴だった。


 赤ん坊の泣き声をうるさいと思ったことなんてないのに、今は思い出すだけで精神が波立つ。

 ふと、あの声をどこかで聞いたことがあると思った。健に電話をかけたとき、向こうから聞こえてきた声だ。

 健は家にいると言っていて、おれは嘘だと思った。でも、本当だったら? 健は霊媒師としての美鳥に頼っていたらしい。もし、おれが今見たものと同じものに悩まされていたんだとしたら。


 血で変色した御守りがベンチの隅に転がった。

「気づけなくて、ごめんな……」

 自分の顔から滴るものが汗か涙かわからなかった。



 当てもなくロータリーを彷徨きながら、これからどうしようかと思う。

 あれがまだいたらと思うと、家に帰る気はしない。今でも泊めてくれる友だちは何人か浮かんだ。でも、あれが人間じゃないなら他人の家にいても追ってくるかもしれない。誰かを巻き込む訳にはいかない。


 おれは足を引き摺りながら、駅前のネットカフェを訪れた。

 気怠い音楽とブースから聞こえるいびきが気持ちを落ち着かせた。ここなら深夜でも店員がいるし、すぐ逃げ出せる。

 ドリンクバーで紙コップにコーヒーを注ぎ、フラットシートに横たわった瞬間、おれは眠りに落ちた。


 耳元で微かな声がした。

 混濁した意識の中、懐かしさを感じた。囁くような柔らかい声だった。

「籠原……?」

 重い目蓋を開く。緩慢な音楽が流れ、安いビニールのシートが細長い電灯の光を歪めて映していた。


 おれの隣に誰かが横たわっている。長い髪がシートに広がり、おれの指先に触れそうだった。

 隣の人物が上体を起こした。カーテンのように垂れた髪がおれの鼻先をくすぐる。物が焼け焦げる匂いがした。


 飛び起きると、狭いブースにはおれ以外誰もいなかった。ただ、隣に真っ黒な人型の煤が張り付いていた。喉から呻きが漏れる。今さっきまで、あれがここにいたんだ。

 おれはリュックサックと上着を掴み、ブースから飛び出した。


 時刻は午前九時半だった。朝日が目に痛く、開店準備を始めた商店街の店々から様々な音が響き出していた。日付が変わったのが信じられない。

 シャワーも浴びていないまま気絶するように寝ていたらしい。


 駅のトイレに駆け込んで顔を洗う間も、鏡に何か写らないか気が気じゃなかった。ひび割れて煙草の痕がついた洗面台がゴポゴポと水を零す。

 大量のビニール袋を抱えた、汚れた肌の老人がトイレに入ってきた。老人はおれに構わず上半身裸になると、備え付けのハンドソープで身体を洗い出した。

 灰色の泡が飛んできて、おれは逃げるようにトイレを出た。



 コンビニでサンドイッチとお茶を買い、電車の中で食べる間に、気づけば大学の最寄駅を通り過ぎていた。次の駅で降りて乗り換えれば午後の授業には間に合うが、腰が針金で固定されたように、席から降りられなかった。


 ネットカフェにいてもあれが来たんだ。

 大学まで追ってこないとも限らない。いつの間にか隣に真っ黒な影が座っているのを想像して身震いする。

 無断欠席を繰り返していた健も、今のおれと同じ気持ちで過ごしていたんだろうか。


 寝不足と頭痛で吐き気と眩暈がした。

 泣き言が出そうになるのを堪える。

 あの黒い影が何なのかはわからないが、みんなの死や怪我には常に篠目という男が関わっているなら、奴を追求しないことには終わらないのだろう。


 篠目は美鳥が搬送された病院にいた。脳内に電撃が走る。奴は殺し損ねたふたりを追ってきたんじゃないのか。美鳥が危ない。



 昼間の総合病院は光に溢れ、植え込みの木々や花壇のヴィランまで輝いていた。

 一昨日の夜はあの白壁が闇を吸収して、巨大な黒い箱のように見えたのに。鼻にチューブをつけたパジャマ姿の子どもや、車椅子の老人が見舞いに来た家族と談笑している。笑い声が木々のざわめきに混じって幾重にも増幅した。


 明るい景色がかえって不安を掻き立てる。

 タクシーの群れを抜け、自動ドアを潜ろうとしたとき、ガラスに黒い人影が映った。

 おれは飛び退る。逃げようと思ったが、帷のような黒髪から覗いているのが人間の顔だとわかった。


 長い髪と色の濃いブレザーが溶け合って、影が自立したように見える。細身の少女だった。おれはこの子を知っている。

「籠原の……」

 朝香はおれを見留めて小さく会釈した。

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