折内恵斗.5
受付は昼休憩らしく、病院のロビーは無人だった。
照明も明度を下げ、青白い光が深海の底のように見えた。
おれは朝香と並んで隅のソファに腰を下ろした。
朝香は強張った顔を髪で隠し、視線を避けているように見えた。おれは正面を向いたまま話しかける。
「……朝香ちゃん、だよな? 久しぶり」
「お久しぶりです……」
蚊が鳴くような声だった。近くで聞こうとして、昨日身体を洗っていないのを思い出し、慌てて身を引いた。朝香が小さく震える。
「ごめんなさい。私、何か……」
「違う、朝香ちゃんのせいじゃなくておれ。昨日忙しくて風呂入ってなくてさ」
朝香はやっと微笑んだ。呆れたような柔らかい笑顔は姉妹でそっくりだった。
「今日はどうかしたの?」
「美鳥さんのお見舞いに……でも、まだ会えないって」
「そっか。まだ意識戻らないんだ」
「穴水さんとの何があったんでしょう……ニュースで見ましたけど、いきなりこんな……」
髪の間から微かに噛み締めた唇が見えた。
「まだわかんないけど、何か理由があると思う。健はあんなことする奴じゃない……って、今言うことじゃないよな。ごめん」
朝香は首を曲げて俯いた。
「美鳥さんのお仕事と関係あるのかもしれません」
「仕事って、霊媒師?」
「私も姉さんのことで相談に乗ってもらってて……」
「籠原のことで?」
「詳しくは聞けなかったんですけど、偶に姉さんみたいになっちゃうひとがいて、美鳥さんはそれを助けようって……」
朝香がひっと喉を鳴らして蹲った。白い肌から更に血の気が失せ、喘ぐように息をしている。おれは朝香の背中を摩った。
「無理に話さなくていいから」
恐竜の化石のように浮き出した背骨の感触が痛々しい。呼吸が整うのを待ちながら、おれは巽の話を思い出す。籠原の死の影にもあの男、篠目がいた。繋がりがあるなら聞き出したいが、今の朝香には酷だ。
朝香は何度も謝りながら口の端の唾液を拭った。
「……これから、美鳥さんの従兄弟と会うので何か聞けるかもしれません」
「朝香ちゃん、そのひとを知ってるの?」
思わず大きくなったおれの声がロビーに響いた。朝香は驚きながら頷く。
「昔姉さんのこと助けようとしてくれたので……」
「おれも美鳥さんに言われてから探してたんだけど見つからなかったんだよ。今日朝香ちゃんと会えてよかった」
朝香は小さく口角を上げた。面影がまた籠原と重なって胸が痛んだ。
そのとき、頭上の蛍光灯が細い悲鳴を上げ、急に照明が落ちた。ロビーが写真のネガのように暗転する。
朝香が身を強張らせる。おれは不安を気取られないように笑顔を作った。
「ブレーカーが落ちたか、誰かが間違えて消したのかも。見てくるね」
おれが立ち上がると、朝香も後をついてきた。
歩調を合わせながら廊下へと進む。古びた壁は所々黒く汚れ、焼けて溶けた蝋燭を思わせた。
廊下の隅でパジャマ姿の子どもたちが輪になって遊んでいた。手を繋いで歌いながら足を踏み鳴らしている。かごめかごめをやっているんだろうか。
子どもたちが口ずさむ曲は聞いたことがない旋律で、歌というより読経のようだった。
朝香がおれの服の裾を握る。
幼い声に不似合いな重々しい旋律が、這うように流れてきた。
「よみからおはりや、かくあばせたまえ」
子どもたちは一段と高い声で歌い跳ね回る。木綿のズボンの間から黒い影が覗いた。輪の中に膝を抱えて蹲っている。
背後から朝香の震える声が聞こえた。
「折内さん、あれ見えますか……」
脳が混乱で埋め尽くされ、頷くのも忘れる。全身が冷え、握った拳の中だけが熱く汗ばんだ。
「おりおりて、かたりかたりましませ」
歌が終わった。子どもたちは互いの手を離し、輪を解く。真っ黒な影がありありと浮かび上がった。
焼死体のような人型は子どもたちの足を舐めるように低く這うと、一気におれの方へ駆け出した。
朝香の悲鳴が廊下にこだました。
おれは咄嗟に朝香の腕を掴んでロビーへと走り出す。蛍光灯の光が筋を描くリノリウムの床が足元を飛ぶように流れる。朝香の叫びを、赤ん坊の泣き声が掻き消した。
おれの家の前にいた奴と同じだ。おれを追ってきたんだ。美鳥を助けないと、なんて思い上がりだ。結局朝香まで巻き込んだ。
散り散りになる思考で、おれは必死に言葉を吐き出す。
「ごめん、朝香ちゃん。おれのせいだ」
「折内さんのせいって……」
「おれ、昨日からあいつを見かけた。巻き込んで本当にごめん。絶対何とかするから」
何をどうするっていうんだと理性が怒鳴る。知らねえよと叫びたかった。毛髪が焼けるような焦げくさい匂いが真後ろまで迫っていた。
朝香が足をもつれさせる。おれは朝香を抱きかかえるようにして走った。
短いはずの廊下がひどく長い。耳元で泣き声が聞こえる。
廊下の角から飛び出した瞬間、ロビーにひとが立っているのが見えた。薄暗がりに溶け込む色褪せたジャケットを羽織った、長い黒髪の男だった。腕を吊るギプス、マスクの下の火傷痕。あの男だ。
「くそっ……」
何で篠目がここにいるんだ。やっぱり美鳥を殺しに来たのか。よりによってこんなときに。
おれは立ち止まり、朝香を抱える腕に力を込める。前には篠目が、後ろにはあの化け物がいる。
朝香が真っ青な顔で唇を震わせた。この子だけは逃がさないと。
おれは正面から篠目を見据えた。
「何しに来たんだよ……」
篠目はクマに覆われて落ち窪んだ目を見開いた。傷ついたような顔だった。
おれが面食らっていると、篠目はすぐ表情を打ち消し、心底呆れ果てた声で言った。
「やっぱりここにいたか」
「やっぱりって何だよ」
「お前じゃねえよ」
篠目は迷わずこちらへ向かってくる。朝香がおれの腕を強く握った。恐怖が怒りに変わった。籠原の妹までこんな目に遭わせやがって。
おれは朝香を下ろして身構えた。
「逃げて、おれが止めるから」
「……違います」
朝香が掠れた声を振り絞る。
「違うって?」
「あのひとは……」
篠目が眼前まで迫っていた。背後から爆発するような赤ん坊の泣き声が響き渡る。
向かってくるかと思った篠目が、おれの傍を無言ですり抜けた。
「え……?」
篠目は鬱陶しげに右腕を吊る白布を払い、左手の袖を噛んで捲り上げた。切り傷や火傷だらけの痩せこけた手が露わになる。
振り返った瞬間、地を這っていた黒い影が獣のように飛び上がるのが視界に映った。篠目は躊躇いなく左手を伸ばし、影に叩き込んだ。
五本の指が黒い頭部を貫通する。篠目は歯を食い縛り、硬いものを握りつぶすように拳を固めた。
耳を劈くような絶叫が響き渡り、影が塵となって霧散した。
電灯が点灯し、ロビーに明かりが戻る。黒い人影は跡形もなく消えていた。おれは呆然と立ち尽くしていた。
篠目は踵を返して戻ってくると、陰鬱な視線でおれたちを睥睨した。朝香が頭を下げる。
「すみません、ありがとうございます」
篠目は煩わしそうに肩を竦めた。状況が呑み込めない。
おれは朝香と篠目を見比べ、何とか言葉を吐いた。
「今の、何だよ……それより籠原はこいつに付き纏われてたんじゃ……」
黙り込む篠目に代わって朝香が言った。
「違うんです。篠目さんは姉さんを助けようとしてくれてたんです」
「嘘だろ……でも、何で今ここに?」
「見舞いに来ちゃ悪いのか」
篠目が苛立ち混じりに声を荒げた。おれは馬鹿みたいに口を開けるしかなかった。
「見舞い?」
「名字が違うからわからなかったのか。篠目
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