穴水健.10
「大鹿さんが、亡くなった? どうして……嘘ですよね?」
刑事が嘘をつくはずがないことくらいわかっているが、信じられなかった。女性は僅かに眉を顰めた。
「神田川で発見された遺体の身元が判明したと昨夜のニュースで報道されましたが、ご覧になりませんでしたか」
「見てません。昨日はずっと出かけていて……」
足元から崩れ落ちそうになった僕を切間が支える。
「大丈夫ですか」
全身が震え、手足から熱が奪われていく。胃の奥まで痙攣して吐きそうだった。僕は刑事の腕にぶら下がるようにしてへたり込む。彼は厳格そうな顔に同情の色を見せた。
「胸中お察しします。無理にとは言いません。少しだけお話を伺えますか」
僕は必死で頷いた。
「大鹿さんの死亡推定時刻は先週の土曜日、二十一時から二十三時の間です」
傍の女性が口を挟んだ。
「彼女の所持品から当日の十八時から九十分間上映された映画の半券が発見されました。スマートフォンの履歴を調べた結果、貴方が同席していました」
「
切間が嗜めるように視線を送ると、彼女は気まずくそうに俯いた。
僕がケガレに乗っ取られていた最中、大鹿と映画に行く予定を取り付けていた。スマートフォンのメッセージの履歴が脳裏に蘇る。
大鹿はノートを貸したときや古本市に行った後、必ず律儀にお礼の言葉を送ってくれた。履歴に残っていたのは、待ち合わせの確認が最後だった。彼女はあれから家に帰っていないんだ。
僕が、大鹿を殺した。
「大鹿さんとお会いした後はどうなさったか覚えていますか」
僕がやった。そう言おうと思った瞬間、脳内で勝ち誇ったような赤ん坊の泣き声が響いた。
僕の身体がひとりでに立ち上がる。ふたりの刑事が僕を慎重に眺めた。
「穴水さん?」
「……あの日は一緒に夕食を取った後、急に体調が悪くなって、先に帰ったんです」
僕の喉から勝手に言葉が出る。こんなことを言おうとしているんじゃないのに。
「証明できる方はいますか?」
「ふたりきりの帰り道のことでしたから難しいと思います。ただ、翌日のボランティアも体調不良で早退したことなら友人が証明してくれると思います」
「そうですか……」
「僕がちゃんと見送っていればこんなことにはならなかったのに」
「ご自分を責めないでください」
切間が眉を下げて答える。僕は口元を押さえてかぶりを振った。手の平の下の唇は、笑っていた。
「必ず犯人を見つけてください。このままじゃ大鹿さんが可哀想だ。何も悪いことなんてしてないのに……」
僕の言葉にふたりの刑事が頷く。
「捜査に尽力します。お気づきのことがあればご連絡を」
彼らが一礼して去った。
待ってくれ。行かないでくれ。伸ばした僕の手には黒い煤が纏わりついていた。
叫び声も出なかった。ケガレは碓氷が祓ってくれたんじゃなかったのか。甲高い笑い声が頭を揺らす。視界の隅に現れた黒い塵が僕目がけて集まってくる。
祓えていなかったんだ。ケガレは消えたふりをして、狡猾に僕の中に潜んでいたんだ。
僕の右手が勝手にスマートフォンを持ち上げた。左手で押さえたが、物凄い力で跳ね除けられる。ゴミ袋を持った老人が角部屋から現れ、ひとりで格闘する僕を怪訝な目で見て去った。
右手は僕に見せつけるようにスマートフォンの液晶を傾ける。僕はぶるぶる震えながら満面の笑みを浮かべていた。
指先が意思に反してロックを外し、トークアプリを開く。暁山美鳥の文字が目の前に現れた。
何をする気だ。僕は通話ボタンを押し、スマートフォンを耳に押し当てる。冷たい液晶が頰を打った。
美鳥が張り詰めた声で電話に出た。
「穴水くん、どうかした?」
「碓氷さんのお陰でケガレはいなくなりました。もう大丈夫です」
僕は明るい声で答える。僕じゃない、今喋ってるのはケガレなんだ。どうか気づいてくれ。
僕の祈りに反して、美鳥は安堵の溜息をついた。
「よかった。本当によかったよ。今朝京都から帰ってきたところでね。結局日出さんに断られちゃったから、これで祓えなかったらどうしようかと思ってたんだ」
「心配おかけしました。美鳥さんには感謝してもしきれないくらいです」
「堅苦しいこと言わないでよ。困ったときはお互い様でしょ」
電話の向こうの美鳥が鼻を啜る。絶望が耳朶を伝って脳内を満たした。
僕の唇が言葉を紡ぎ出す。
「前に言った通り、改めて呑みに誘わせてくれませんか。勝機祝いということで」
やめろと叫んだはずの喉から声は出なかった。
「いいね。いつ空いてる?」
「今からじゃ駄目ですか」
「今? まだ朝っぱらだよ。私はいいけど……」
「お店が開くまで僕の家でも構いませんから。話したいことがたくさんあるんです」
美鳥はくすりと笑った。
「本当に行っちゃうよ? お酒もおつまみも持って行くからね?」
「僕も用意しておきます。じゃあ、待ってますね」
電話が切れた。
僕の身体は一仕事終えたように伸びをした。僕は両手を見下ろし、動作を確認するように指先を動かす。最悪の事態を想像した。
僕は踵を返し、自分の部屋に戻って扉を閉める。足はキッチンに向かい、冷蔵庫や流し台の下の収納スペースの扉を開け、中身を確かめる。
このままじゃ駄目だ。心音が身体の中で反響する。考えろ。ケガレを追い出す方法を。奴らは痛みに弱い。
僕は必死の思いで身を捻り、足先を冷蔵庫の角にぶつけた。ぎゃんと赤ん坊の悲鳴が響く。
身体が思い通りに動いた。全身から汗が噴き出す。どうすればいい。
もうすぐ美鳥が来る。直接見たら僕が乗っ取られたことに気づいてくれるかもしれない。でも、碓氷は、ケガレに完全に乗っ取られた人間はハガシでも見分けられないと言っていた。
考えろ。今僕に何ができる。
僕は痺れる手でスマートフォンを握った。美鳥に改めて電話しようと思った瞬間、脳を齧られたような鈍痛が走った。
僕は呻いてフローリングに倒れ込む。がじがじと乳歯で頭に噛みつかれるような痛みが染み渡った。
指先が美鳥の真下にあったトーク履歴に触れる。コール音が床を振動させた。
「健?」
折内の声だった。僕はのたうち回りながらスマートフォンに這い寄る。
「もしもーし、俺だけど。間違い電話?」
僕は痛みを堪えながら声を振り絞った。
「美鳥さんを、来させちゃ駄目だ!」
「何? 美鳥さんがどうしたって?」
僕は勝手に暴れる足を思い切り床に打ち付ける。机からポットが転げ落ちて僕の前で跳ねた。
「美鳥さんが危ない。警視庁の、捜査一課の、切間さんに連絡して。頼むから、このままじゃ……」
僕の腕がポットを掴み、スマートフォンに叩きつけた。液晶のガラスが砕け散り、破片が散らばった。
意識が遠のきかけたとき、チャイムの音が鳴った。
僕は「はい」と返事して起き上がった。
身体が勝手に動く。指一本も思い通りにならない。
僕は流し台の下の扉を開けた。百円ショップで買った、殆ど使っていない包丁の柄が目に入った。
やめろ。やめてくれ。僕はケガレに懇願する。僕の身体を奪ってもいい。他のひとを殺すのだけはもうやめてくれ。
ケガレは嘲笑うように包丁を抜き取り、刃に映る僕の笑顔を見せつけた。
僕は包丁を握りしめ、大股で廊下を進む。チャイムの音が響いている。
僕は扉を開けると同時に包丁を突き出した。
柔らかい肉の感触と、刃先を阻む硬い骨の感触が同時に伝わる。少し遅れて、生温かい指が僕の手を包むように、血がプラスティックの柄を濡らした。
毛玉のついたトレーナーの腹に赤い染みが広がる。僕が包丁を抜くと、美鳥は頭から廊下に倒れた。
声にならない叫びが僕の喉の奥でこだました。
「ちくしょう、やっぱり……」
美鳥が歯を食いしばって呻く。白い歯の間から赤い血が滴り落ちた。
赤ん坊が刃物を擦り合わせるような声で笑う。意識が黒く塗り潰される。
霞む視界の中で、美鳥は腹を押さえて言った。
「穴水くん、大、丈夫……大丈夫だからね……早まらないで……私、の従兄弟に……ゆき……」
美鳥がくぐもった咳をして、粉のような血を吐いた。弱々しく上下する胸まで赤い染みが広がっている。
僕が刺したのに、人殺しなのに、自分が死にかけてまで僕を案じてくれるのか。
遠くからサイレンの音が響いた。アパートの駐車場からこちらへ駆けてくる人影が見える。茶色く染めた髪を汗で張りつかせ、息を切らせて走っている。折内だ。
僕の身体は彼の方を向き、包丁を握りしめる。もうこれ以上繰り返さない。
折内が僕に気づいて顔を上げる。彼が僕の名前を呼んだ。
僕は全身の力を込めて右手を捻り、自分の太腿を突き刺した。焼けた鉄をねじ込まれたような熱と共に視界が晴れる。
身体が自由になる時間はほんの一瞬だ。
僕は包丁を投げ捨て、鉄棒に乗るように廊下の手すりに足をかける。
背後で美鳥の声が聞こえた。
「駄目だよ……穴水くん……」
優しい響きに涙が込み上げた。僕がこうなったことを知ったら母はどう思うだろう。折内や、巽も、きっと傷つく。
僕は首を振った。大鹿にも同じように大事なひとがいた。美鳥だってそうだ。それを奪ったのは僕だ。
僕は自分で無理やり笑みを作り、美鳥に振り返る。
「ごめんなさい」
真下の折内が僕を見上げて何か叫ぶ。また彼に辛い思いをさせてしまうことが気掛かりだった。
僕は手すりから身を乗り出し、そのまま足を宙に投げ出した。
頭の中の黒い赤ん坊が嫌がるように身を捩った。いやいやと駄々を捏ねるように泣く。
お前だけは何としてでも道連れにしてやる。
重力が僕の身体を包み、落下に合わせて上下の景色が激しく切り替わった。赤ん坊が吠えた。
ざまあみろと思った。
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