第25話
マリーの部屋に駆けつけると、入口で警護に当たるメイドがうんざり顔を晒していた。視線の先には、開け放しにされたままの戸口。その表情に、とりあえず大事はなかったと俺はほっとし、一応はエチケットのつもりでそっと、伺うように中を覗く。
マリーは、部屋の中央でぺたんと腰を落としていた。
見開いた二つの目玉の先には、カーペットの上を我が物顔で歩く一匹のでっかいクモ。……って、クモ? いや、確かに苦手な人間は多いけれども、庶民、それも、おそらく教会で質素な暮らしを強いられるだろうマリーが、いちいちクモごときでビビるか?
ところが事実、マリーは青い顔のままひいいいいとへたりこんでいる。
「しょうがねぇなぁ……」
俺はひとつ溜息をつくと、部屋に進み入り、足元のクモをぴょいと摘まみ上げる。そのまま窓に向かい、夜の庭へとリリース。ははっ、幼少期から姉貴の従僕として部屋に湧いたハエやらゴキブリを始末してきた俺には朝飯前の芸当よ。
「え? ででで、殿下ああぁ……!?」
今更我に返ったらしいマリーが、なおもへたり込んだまま俺をじいいっと見上げている。おっ、ここは異世界転生恒例あのセリフの出番かね。――あれ? 俺なんかやっちゃいました?
っと……冗談はさておいて、王子たる俺には恐怖に惑う民心を慰める義務がある。ので、マリーの前に片膝をつき、問う。
「大丈夫かい?」
「えっ? え、ええ……ええ」
こくこくと頷くマリーは、とりあえず怪我の類は負ってはいないようだ。
「ひょっとして、クモは苦手?」
「えっ? え、ええと……はい。ほかの……ヘビやトカゲ、ネズミはいっこうに構わないのですが、クモだけは……その、昔、森で迷子になったときに、うっかりクモの巣に突っ込んでしまって……それ以来、クモだけは駄目なんです……」
そして、しおしおと「申し訳ありません」と詫びるマリーが、俺は何だか気の毒になる。誰しもそれなりに長く生きれば、トラウマの一つや二つは抱えてしまうものだ。俺だって同じ経験をすれば、やっぱりクモは苦手になるだろう。
「気にしないで。俺も昔、ゴキブリが顔に飛んできたことがあって、それ以来、ゴキブリだけはどーしても駄目なんだよね。ははっ」
それでも、姉貴には容赦なくゴキブリ討伐を命じられたけどな。
一方、マリーはちょっとだけ笑みを見せてくれて、俺は正直ほっとする。俺都合で妙なことに巻き込んでしまった手前、あまり悲しい顔はさせたくないのだ。
「……けど、だとすると部屋を変えた方がいいかもだな。ここ、窓のすぐ外は雑木林だし、しかも一階だから結構虫とか入ってくるだろ?」
「えっ? ええと、まぁ……はい」
「だったら、そうだな。虫のこない二階に部屋を移そう。完全とは言えないかもだけど、ここよりは被害も減るんじゃないかな。――つーわけで、悪いけどお願いしていい?」
と、傍に控えるメイドのサビーナに話を振る。するとサビーナは「かしこまりました」と上品に一揖し、足早に廊下の奥へと駆けていった。
「立てる?」
促し、マリーに手を差し伸べる。ところが、いざ立ち上がらせようとするも、なぜかマリーは立ってくれない。
「どうしたの?」
「す、すみません。ビックリし過ぎてその、腰が……」
「……ああ」
なるほど抜けちゃったか。うーん、さすがは物語世界に宿命づけられたトラブルメーカー……と冗談はさておいて、こりゃしばらく動けないな。
じゃあここは紳士として、俺がスマートに彼女を抱きかかえて……いや待て。俺の、というかアルカディアの貧相な体躯じゃ無理だろそんなの。途中で力尽きて彼女ごと崩れ落ちるのが関の山だ。うーんどうしよ。
そんな俺の隣から、ずいっと進み出るデカい人影。見ると、そこには何故かウェリナの姿が。いやお前、食堂でのんびり飯食ってたんじゃねぇのかよ。マリーの悲鳴なんざお構いなしに。
そのウェリナは、さっきまでの無関心さが嘘のようにマリーの前に片膝をつくと、それはもう見事な紳士ぶりで優しく問う。
「よろしければ、私がお運びしましょうか」
「えっ、ええと……」
ところが、マリーが答えを惑う間にウェリナは一方的にマリーの肩に腕を回すと、もう一方の腕を膝の下に突っ込み、ひょい、と抱えあげる。――そう、〝ひょい〟がぴったりの挙動だった。ブレのない体軸。力みのない腕。まるで綿布団でも抱えるかのようなその挙動に俺は素直に感動する。いや、全体のシルエットから随分と鍛えているなとは思っちゃいたが……
そこへサビーナが、部屋が用意できたといって戻ってくる。そんな彼女にウェリナは短く案内を命じると、ふと思い出したように俺の方を振り返る。そのエメラルドの瞳は、しかし、さっきまでの紳士然としたそれとは打って変わって鋭い。
「これで満足か」
吐き捨てると、今度こそウェリナはサビーナに続いて部屋を出る。
その、遠ざかる逆三角の背中を見送りながら、改めて俺は、面倒臭い奴だなとうんざりする。要するにこれは、あてつけなのだ。マリーとくっつけばいいと願った俺に対する。
けどなぁウェリナよ。
そいつは、俺からお前に向けられる矢印が存在する場合にのみ有効な手段なのだよ。さもなければ単なる独り相撲であってだな……
そう、奴の独り相撲なのだ、これは。そのはずだ。
けど……何だろうな、あいつがマリーに優しく声をかけた瞬間、ちょっとだけ、胃の底のあたりがモヤッときたのも事実なのだ。
なんだったんだろうな、あれ。……いや、これ以上は何も考えないでおこう。繰り返しになるが、バカの考え休むに似たりだ。
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