第20話
「寝てるのか、アル」
「ね、寝てるっ!」
ドア越しにそう答えてしまってから、いやアホかと自分にツッコむ。今日日ガキでもこんなボケじゃ笑ってくれねぇぞ? などと頭の中でわあわあやるうちにドアが開き、何となくばつが悪そうなウェリナの顔が覗く。
「な……何の用だよ」
布団を掻き寄せ、ベッドの上で身構えつつ問う。するとウェリナは何が可笑しいのか、ふふっと肩を竦めながらベッドに歩み寄ってくる。イケメンはこんな鼻持ちならない仕草でもサマになるから羨ましいもんだ。
いや、そんなことは今はどうでもよくて。
マジでこいつ、何しに来た?
ところが次の瞬間、俺はその軽率な問いを悔やむことになる。世の中には、あえて伏せておいた方がいい事実があるのだと今更ながら俺は痛感する。
「何って、決まってるだろ。だって俺たちは……恋人同士なんだから」
そりゃそうですよね、という納得。それから、やっぱ聞くんじゃなかったという後悔が同時にドドドッと胸に押し寄せる。うん……そっか、そうだよね、恋人同士だもんね。じゃあヤることは一つだ。
って、なるかアホ!
「あ、ええと……その件なんだけどさ、見てのとおり、僕ってほら、まだ昔のこと、よく思い出せなくて……今の状態のまま昔の関係を強要されてもさ、その……」
「わかるよ。怖いんだろ」
「は? いや、わかってんなら――」
ところがそんな俺の反応はどこ吹く風で、ウェリナはベッドに腰を下ろす。上体を捻るように俺に向き直ると、ずいっと身を乗り出し、無遠慮に俺の顔を覗き込んできた。
「俺も、怖い」
そしてウェリナは俺の頬にそろりと手を伸ばすと、指先でそっと輪郭を辿る。その手つきは何やら高価な壊れ物でも撫でるかのようで、ただ、俺はその感触に、どこか不慣れなぎこちなさを感じる。あるいはそう、剥がしてはいけないカサブタの表面をもどかしく擦るような。
「怖いよ」
暗闇の中でもそれとわかる緑色の澄んだ瞳。ただ、その目もやはり怯えの色を濃く宿していて、この男の秘める感情が余計に見えなくなる。
これは、単に俺の不興を買うことへの恐怖か? それとも、何か別の……
「へ?」
不意にその視線が外れたと思ったその時、今度は何かが俺の身体をぎゅっと包み込む。それが背中に回されたウェリナの腕であり、ドドドと忙しなく響くこれがウェリナの胸板から届く鼓動だと気付いて、俺は、さっきまでの疑問が急にどうでもよくなってしまう。
あっはっはこいつ、恋人相手にめちゃくちゃドキドキしてんよ。
そんなウェリナの身体はやけにあったかくて、何となく俺は、ガキの頃、借家時代に飼っていたデカいゴールデンレトリバーを思い出す。俺によく懐いていて、金色のもふっとした背中を枕によく昼寝をしたっけ。
そんな遠くも懐かしい記憶をぼんやり思い出していると、あれほど縁遠かった眠気がよっ待たせたなって感じで瞼に下りてくる。うーん、むにゃむにゃ。このまま寝入ったらいろいろマズいんだろうなぁ。こんな夜更けに来るってことはウェリナもそういうつもりなんだろうし、まぁでも寝てる間だったら好きにしてくれというか、そもそも俺の身体じゃねぇしなぁ―ーというあたりで俺の意識は落ちる。
で。
次に気付いた時にはもう部屋は明るくなっていて、ああよく寝たなって感じで身を起こすと、着衣にも、それに布団にも特に乱れた様子はない。そのことに一瞬あれ? と違和感を覚え、その違和感をトリガーに昨晩の出来事を思い出した俺は反射的にあの部分――要はおしりの穴を確認したが、こちらも特におかしな様子はない。
あれ? ひょっとしてあいつ……何もせずに出て行った?
うん、まぁ、それはそれでありがたい。ありがたいんだが……いや、「が」って何よ「が」って。むしろ良かったじゃねぇか。そもそも俺はアルカディアじゃねぇし、ウェリナとしても、だから浮気をせずに済んだわけだ。見知らぬ異世界人こと俺相手にな。うん、そう、だから……
――怖いよ。
「はぁ」
ベッドを下り、さっそく着替えにかかる。シルクのパジャマを脱ぎ捨てながら、 何なんだろうな、と俺は思う。よかった。間違いを犯さずに済んだ。なのに頭のどこかでは、本当によかったのかな、とうっすら後悔している。
後悔?
いやちょっと違うな。何というかその……やめよう。何となく、これ以上この話を掘り下げるのはまずい気がする。
だが俺は、掘り下げたその指先にわずかに触れた感情の正体に実は気付いていたのだ。そしてそれは、目を背ければ背けるほど俺の意識にしつこく浮かんできて、ついには認めざるをえなくなる。
知りたい、と。
奴の中にある恐怖の正体を知りたい。なぁウェリナ、お前、何にそう怯えていたんだ?
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