№26 名前
それ以来、ジョンは廃人のような状態になった。誰もこの女があのジョン・ドゥーだとわからないほどに落ちぶれてしまった。
時折街に降りてはわけのわからないことをわめき散らし、石を投げられ、猿のように叫ぶ。すっかり汚れたジョンは異臭を放ち、周囲にはいつもコバエが飛んでいた。
琥珀の瞳は完全に狂気に染まっており、誰もが目を逸らす。残飯を漁り、嘲るように小銭をぶつけられ、子供たちに追い回され。
かつて『最強狩り』としてその名をとどろかせていたジョンの姿は、もうどこにもなかった。見る影もないとはこのことだ。
懸賞金目当ての追手はたまに来たが、完全に発狂してしまったジョンの姿を見て、当人だとわからずに去っていった。『最強』など、来たためしがない。
かつて絶大なちからを誇ったジョン・ドゥーは、もうどこにもいなかった。
いるのは、ただの狂った浮浪者である。
頭の中では、絶えず神の声が聞こえていた。
戦え、戦え戦え戦え! あなたはなんと無価値な存在でしょう! 今すぐ死になさい! 皆が臭がっているのがわからないのですか!? この汚物! けがらわしい畜生! 死ね! 死ね! 死ね!!
「……うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい……!」
髪を振り乱してきいきいと猿のようにわめくジョン。道行く人間はちらりと一瞥して、なにもなかったかのように視線を逸らす。その割には、ジョンの前にはひとっこひとりいなかった。自然と皆が道を開けているのだ。
さっきの男が睨んできた。
あの女は自分を臭いと思っている。
きっとあの少年は神が遣わした刺客だ、自分を殺そうとしている。
すべてが疑わしく、すべてが敵意だと感じられた。この世の中には味方などいない、自分以外の人間は自分を迫害するためにここにいるのだ。そう思えてならなかった。
次第にジョンの声は、あー、だとか、うー、だとか、意味のないうめき声のようになっていった。精神の病が確実に脳をむしばみ、ジョンを絶望の淵へと追いやっていく。こころの病気はここまで人間を様変わりさせてしまうのだ。
半分死人のように小さな町を歩いていると、ふとなにかがぶつかってきた。
なんだろう、ナイフを持った刺客だろうか? その割には痛みがない。
「ああ、ごめんなさい!」
慌てた様子で謝るのは、まだ幼い少女の声だった。見下ろすと、山積みになったオレンジが少女の持っていたかごから零れ落ち、辺りに洪水のようにまき散らされている。
着ているボロといい、首輪といい、かつてのジョンと同じ奴隷のようだ。
……が、そのかんばせは、太陽の光を集めて作られた妖精のように美しかった。金の長い髪に青い瞳。人形めいていながらそう感じさせないのは、少女からにじみ出る活力のおかげだろうか。ふっくらとしたくちびると頬には薄く血の色が差していて、たしかに生きていると感じさせる。
ジョンは、その美しさに打ちのめされた。
そして、その衝撃で我に返った。
こういうとき、どうすればいい?
そうだ、零れ落ちた果物を拾ってやらないと……
「……あ……これ……」
長らくひとの言葉をしゃべっていなかったおかげで、断片的な単語しか出てこなかった。が、これで伝わるはずだ。
しかし少女は、果物を抱えたジョンの腕を強く引くと、間近で顔を覗き込んできた。相当に臭うだろうに、顔をしかめもせず。
「あなた、きれいね。なのに、とってもひどい顔をしてる。いったいどうしたの?」
まっすぐな視線に貫かれて、ジョンはだんだんと自分が人間であることを思い出してきた。
「……あの、その……」
「せっかくきれいなのに、もったいない。きっとつらい目に遭ってきたのね。でも、大丈夫。生きてさえいれば、きっと今日よりいい日が来るはずだもの」
自分も奴隷の身であるにもかかわらず、少女は他人であるジョンの心配をして、励ましてくれた
なんて尊い精神なんだろう!
その見た目にふさわしい高潔な精神にこころを打たれたジョンは、急に自分が恥ずかしくなってきた。頭がおかしくて、臭くて、うるさい存在。
ようやくそう自覚したジョンは、とっさに近くにあった噴水に飛び込んでしまった。ばしゃん!と盛大に水しぶきが上がり、ひとびとは何事かと視線を投げかける。
「大変!」
水の中にもぐったジョンを救出しようと、少女が手を伸ばしてきた。
ジョンはその手をしっかりとつかみ、青い瞳に見入る。
琥珀と蒼が交錯した瞬間、ジョンは恋に落ちていた。
真ん丸に見開かれていた少女の瞳が、やがて笑みの形になる。
「よかった、やっと私のことを見てくれた」
なんという愛らしい笑顔だろう。いつまでも見ていたくなるようなあたたかな表情だ。
ジョンの中にあった傷が、病が、渇きが、すべて癒されていくように感じられた。もしも奇跡があるとしたら、まさに今この瞬間だ。少女は微笑みひとつでひとりの狂人を絶望の淵から救ったのだ。
なにもかもが癒されていく。なにもかもが許されていく。なにもかもがほだされていく。聖なるちからなどあてにしていなかったが、少女の美しさは一種の神聖性さえ帯びていた。
自分は、この少女と同じ人間だ。
人間なのだ。
長らく忘れ去ってしまっていたことを、ようやく思い出した。家畜でもケダモノでもない、人間なのだ。この少女と同じ存在であることだけは、ジョンはいけ好かない運命に渋々感謝した。
「……決めた……!」
濡れた手で少女の手をつかんだまま、ジョンはできるだけ人語を思い出そうとした。
「君は、ジェーン・ドゥー! 俺のつがい!」
「……ジェーン・ドゥー? それは私の名前?」
「そうだ! 君はジェーン・ドゥー! 君は俺のつがいなんだ!」
ジョンが精いっぱい言葉を尽くして主張すると、ふいに少女……ジェーンが顔を曇らせた。
「……ごめんなさい、私は主人に飼われている身だから、名前なんて上等なものは……」
「構わない! 俺と君との秘密の名前だ! 今日から君は、ジェーン・ドゥー、俺のつがいだ!」
離すまいと必死に手を握るジョンに、ジェーンは困ったような微笑みを浮かべて見せた。
「……本当は、名前すら付けられてはならないのだけど……秘密の名前なら、いいかもしれない。私とあなただけの、秘密の合言葉」
ないしょ話のようにくちびるを近づけ、ささやくジェーン。熱を上げたジョンは、そのままジェーンを抱きしめた。噴水に飛び込んだので臭いは多少マシになっているはず。
大柄な女性であるジョンの腕に、少女であるジェーンのからだはすっぽりと収まってしまった。最初は戸惑っていたジェーンだったが、ジョンがあまりにも子供のようにすがってくるので、その背中をさすって、
「あなた、名前は?」
「……俺は……おれは……」
名前を聞かれたのは久しぶりのことだった。名前とは、人間性だ。なにかしらの意図が込められた、個人を識別するための呼び名。ひとりひとりが違う、願いを込めてつけられたもの。それが名前だ。
俺は、なんだ?
あの日、自分になんと名前を付けた?
「……ジョン・ドゥー」
ぽつり、口元からこぼれてきたのは、たしかに自分の名前だった。主人を刺し殺し、最初に勝ち得たものだ。あの日以来、無力な奴隷の少女はジョン・ドゥーとして生きてきたのだ。
誰にもマネできないような、数奇な運命をたどって生きてきた。
ジョン・ドゥー! ジョン・ドゥー! ジョン・ドゥー!
それが俺の名だ!!
「ああ、そうだ、俺はジョン・ドゥーだ……思い出した、あの日、自分で名付けたんだ……やっと、思い出せた……君のおかげだ、ジェーン・ドゥー……」
頭の中のもやが晴れていく。
ジョンはいつの間にか、ぽろぽろと涙をこぼしていた。ジェーンを抱きしめて、嗚咽していた。なにかを悟ったらしいジェーンは、ただジョンの背中を抱きしめ続けた。
ジョンはそのまま、しばらくむせび泣いていた。
神の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます