№5 生きているケダモノ

 主人を殺害したジョンは、今度は妻の寝室へと出向いた。


 ネグリジェ姿で眠っている妻の心臓に深々とペーパーナイフを突き立てると、少しの痙攣ののち、眠ったまま目覚めなくなる。


 次は息子だ。夜更かしをしていた息子は、ノックの音に反応してすぐに扉を開けた。その向こうには全裸で血まみれになっているジョンがいた。


 あまりにも衝撃的すぎる光景に動揺しているうちに、ジョンのやいばが息子の首を串刺しにする。今回は頸椎をわずかに外れていたのか、噴水のような血が吹き上がるばかりだ。しかし、倒れた息子の目の光はだんだんと失われていっている。


 絶命の直前、なにか聞こえたような気がした。


 ひとでなし、だったか。


 なにがひとでなしだ。


 もともと人間として扱っていなかったのはそっちだ、今更何を言う。


 息子を殺した後は、住み込みのメイドや執事たちを片っ端から片付けていった。皆眠っていたので、簡単なものだった。


 誰もいない血の静けさに満たされた屋敷の中で、ジョンはひとり、生まれたままの姿でペーパーナイフを握りしめて朝の光を浴びていた。


 こんなにもきれいな朝の光を、見たことがない。改めて生まれ直したような、爽快な気分だ。


 そうですよ、ジョン・ドゥー。あなたは人間として再出発をしたのです。これからは新たな人生が待っていますよ。あなたは存在意義を勝ち取ったのですから。


 ああ、そうか。これは自分の手で勝ち取ったものなのだ。ひととしての尊厳を、最後の最後まであきらめきれなかった悪あがきの精神が、この生まれ変わったような朝をもたらしてくれた。


 血まみれの嬰児は、あきらめないでよかった、とこころから思う。


 何十人も殺した後なのに、なんという解放感だろう。


 ……そうだ、他の奴隷を解放しに行かなければ。


 自分と同じ境遇の奴隷たちは、きっと外の世界に出られることをよろこぶだろう。もう隷属する必要はないのだ。それぞれの人生を歩めばいい。


 その足で奴隷小屋へと向かったジョンは、粗末な扉を開けると同時に叫んだ。


「みんな! あいつらを皆殺しにしてきてやったぞ! これでもう、全員自由の身だ!」


 寝ぼけまなこの奴隷たちは即座にその意味を理解できなかった。が、全裸で血まみれのジョンが握る刃物を見て、次第に状況を把握する。


 しかし、一向に動く気配がなかった。


「どうした!? いっしょにここから出よう!」


 ジョンが呼びかけると、ひとりの老人奴隷が言った。


「……ここを出ていって、どこへ行けって言うんだ?」


「そうだ、私たちに行く場所なんてない」


「ここを出たら野垂れ死ぬだけだ」


「俺たちは一生ここでこき使われるのがお似合いなんだ」


「どこへ行ったって、俺たちはみんな奴隷でしかないんだよ」


 口々に告げられる言葉は、奴隷根性を煮詰めて濃縮したようなものばかりだった。ジョンはしばらく呆気に取られていたが、ある瞬間を境にふっと腑に落ちた。


 奴隷として使役されて、こころまで腐った結果がこれだ。


 からだの芯まで奴隷根性が染みついている。


 あのとき抵抗しなければ自分もこうなっていたかもしれない。そう思うと吐き気がした。


 奴隷たちは主人が死んだことでざわついていたが、誰もジョンについてくるものはいなかった。ここから抜け出すことなど考えてもいない。外の世界のことなど、夢にも見ていない。


「……もういい……!」


 いら立ち紛れにそう吐き捨てると、ジョンは奴隷小屋を後にした。あんな腐った連中といっしょにいる意味はない。奴隷のままでいたいならいればいい。だが、自分はいやだ。勝ち取った自由を決して無駄にはしたくなかった。


 朝がやって来て、動きのない屋敷を不審に思った誰かが騎士団に通報するだろう。そうすれば、ジョンはたちまち一家惨殺のお尋ね者だ。主人を殺した奴隷など、縛り首に決まっている。


 どうにかして逃げなければならなかった。


 まずは血まみれのからだと服を何とかしたかった。そのためには人里に降りなければならない。


 待ちなさい、ジョン・ドゥー。


 神の声が頭の中でささやく。


 人里に降りてはなりません。今のあなたは目立ちすぎます。それに、常駐の騎士団員がいるはずです、しばらくは森の中にひそみなさい。


 神の声は的確にジョンに助言をしてくれた。助けてやる、との言葉はウソではなかった。


 その声に従って、ジョンは全裸のまま近くの森へと分け入っていった。草深い、獣道すらない木々の間にうずくまり、ようやく空腹を思い出した。


 なにか食べなくてはならない。せめて飲み物だけでも。


 近くに小川があるはずです。そこで血を洗い流して、喉を潤しなさい。


 神の声が指示する通り、ジョンはうろうろと小川を探した。ほどなくして小さな川を見つけ、ジョンは思わずほっとする。


 こびりついた赤黒い血液を洗い流せば、その下からは褐色の肌が現れた。血でががびがびになった短い髪は赤く、琥珀色の大きな瞳は長いまつげに縁どられている。


 垢も落として小ぎれいになった全裸のジョンは、元主人の暴力を受けて顔を腫らしてはいたが、見目麗しい少女だった。


 しかし、川面に写った自分の姿を見て、ジョンは舌打ちをひとつする。


 なぜ女なんだ。


 男ならば、こんな理不尽な目に遭わずに済んだかもしれない。それに、まとわりつくこの違和感。もともと男だったジョンにとって、女体の感覚はもどかしい以外の何物でもなかった。


 自分は、男だ。


 からだは女だが、こころは男だ。


 だから、ジョン・ドゥーと名乗ることに決めた。


 決して女としては振る舞わない。そう誓った。


 とりあえず、渇きは癒した。全裸のままのジョンは、食料をどうするかを考えた。木の実や野草の知識はなく、どれに毒が入っているかはわからない。


 そうなると、野生動物を狩らなければならない。が、装備はなにもなかった。弓矢もナイフも持っていない。ウサギなどなら狩れるだろうが、小さい獲物はとても素早く、あちこちを骨折をしているジョンの足では追いつかないことはわかっていた。


 しかし、腹は減る。ぐうぐうと鳴る腹の虫を押さえつけて、ジョンは途方に暮れていた。


 なにか食べるものはないか。森をさまよっていたジョンの前に、天祐が訪れた。


 おそらくは他の獣に襲われたのだろう、イノシシの子供の死体が横たわっていた。ハエがたかり始めているが、まだにおいがしない辺り、腐ってはいない。


 ぐびり、ジョンの喉が鳴った。


 だが、死体をむさぼることについて、かなり抵抗があった。心理的な抵抗はもちろん、腐肉に虫が湧いているかもしれないし、寄生虫だっているかもしれない。火はおこせないし、生の死肉を食らうことになる。


 食料を前にためらっていたジョンの脳裏に、神の声が響く。


 食べるのです、ジョン・ドゥー。


 容赦なく告げるその言葉に、ジョンはもう我慢をすることをやめた。


 ハエを振り払い、死体の傷口に指先をねじ込んで無理矢理にこじ開けた。ハラワタは危ないと思ったのですべてかき出し、それ以外の肉を食べることにする。


 切り取るためのナイフは持っていないので、ジョンは直に死体にかぶりついた。血と脂と獣のにおいが鼻先を直撃し、ひと口目で嘔吐する。


 ひとしきり吐いてから、ジョンはそれでももうひと口、死体にかぶりついた。込み上げる吐き気をこらえ、もうひと口。慣れてしまえば簡単だった。死肉を食いちぎり、骨をしゃぶり、皮にこびりついた肉さえ歯でこそげ取った。


 全裸で腐肉を漁るその姿は、完全に野生のケダモノだった。今のジョンは、100%本能で生きている。


 その解放感のなんと素晴らしいことか!


 肉をすべて腹に収めたジョンは、草の上に大の字になった。これから腹を下すことも考えられたが、今の空腹が最優先だ。


 辺りは夕暮れ時で、木々の隙間からかろうじて夕日が差し込んでいる。


 夢見るような心地で、ジョンは自由の味を噛みしめていた。


 これが生きているということだ。


 今までの自分は死んでいないだけの肉塊だった。


 殺して、奪って、逃げ出して。そうして勝ち得たものが、このとてつもない万能感だった。


 今の自分なら何でもできる。


 こころまで奴隷に落ちぶれてはいなかった。


 あの奴隷小屋でくすぶっていた連中とは違うのだ。


 そうですよ、ジョン・ドゥー。あなたは特別な存在です。


 うとうととまどろんでいると、頭の中に神の声が響く。


 まずはちからをつけなさい。そうして、また勝ち取るのです。今は眠りなさい。次も勝つために。


 神の声がそう告げると、ジョンは急速に眠りへと落ちていった。


 昨晩からいろいろありすぎた。ずっと動きっぱなしで疲れ切っている。


 全裸のまま草むらで大の字になって、ジョンは生まれて初めて明日が楽しみだと思いながら眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る