№2 前世と今世

 奴隷少女は、かつては少女ではなかった。


 現代日本に生きる、ごく普通の男だった。


 前世の記憶と言うやつである。


 少女……男は、ごくありふれた家庭に生まれた。そして、普通に育ち地味ながらもごくありふれた生活を送っていた。


 レールの上に乗って、まさに順風満帆だった。


 それが歪んだのは、新卒で入社したブラック企業のせいだった。


 上司からの暴力を含む度重なる叱責に、同僚からのいじめ、膨大な量の仕事をこなして朝から晩まで働かされた。すでに両親を亡くした天涯孤独で、相談できる友達も彼女もいない。八方ふさがりだった。


 しかし、男は逃げなかった。頑としてレールを外れようとしなかった。


 結果、徐々に精神を病んでいった。


 寝袋で会社に泊まった時は、何時間も暗闇を見詰めていた。


 俺の人生、なんだったんだろう、と。


 こんなはずじゃなかった。


 ただ敷かれたレールの上をおとなしく進んできただけなのに。


 求められた役割を必死にこなしてきただけなのに。


 こんな仕打ちはあんまりだ。


 もう涙も出てこない。


 ただ、底の知れない巨大な穴の淵に立っているような感覚だけがあった。


 ひとはそれを絶望と呼ぶ。そして、絶望とは死に至る病である。


 男は穴の底を覗き込みすぎた。


 そして、その背中を押したのは簡単な出来事だった。


 会社からの帰り際、上司と同僚たちが談笑している脇をすり抜けて帰る。


 すれ違いざま、聞こえてしまった。


 『いなくなればいいのにな、あいつ』と。


 陰口はいつものことだったが、その言葉は男のこころに深く突き刺さった。


 自分はいてもいなくてもいい存在。それどころか、存在してはいけない人間なのだ。誰からも必要とされず、特別な何かがあるわけでもない、なんの存在意義もない人間。


 その瞬間、男は暗闇の穴へと落ちていった。


 帰る途中のその足でホームセンターに寄り、ロープと脚立を買った。


 アパートに帰って着替えもせず縄を天井の梁に結び付け、輪を作る。そして、設置した脚立をすんなりと上り、首に縄をかけた。


 このアパートが事故物件になることだけが気がかりだったが、もういなくなる自分には関係ない。天涯孤独の身の上、悲しむひともいないだろう。


 あとはこの脚立を蹴り倒せば終わりだ。


 今までの人生が走馬灯としてよみがえる。なんの特徴もない、平均的な人生だった。だからこそしあわせだったのかもしれない。


 あの会社に就職さえしなければ。考えれば考えるほどどす黒い憎悪がハラの奥から湧き上がってくる。


 それでも、レールを外れるという選択肢はなかった。逸脱は、すなわち死だ。なかば強迫観念的なものに支配されて、男はそのとおりに死に向かおうとしている。


 このロープにぶら下がれば楽になれる。


 このロープにぶら下がれば楽になれる。


 このロープにぶら下がれば楽になれる。


 全世界が自分の死を望んでいた。


 ならばそうしよう。レールに乗って行きついた先がそれならば、仕方ない。


 諦観のようなものにとらわれ、男はロープに首を通した。


 そして、勢いよく脚立を蹴る。


 生存本能からか、しばらくは喉をかきむしって暴れていたが、やがて全身から力が抜けて意識がなくなる。


 ぎし、とロープがきしみ、足元には糞尿の水たまりができた。


 うなだれたような姿勢で宙づりになり、赤紫になった舌がくちびるからこぼれだしている。


 遺書はなかった。


 ただ、ひとりの男が、今夜ひっそりと自死を選んだのだった。


 


 気が付いたら、男は泣き叫んでいた。目も耳もロクに効かず、言葉もしゃべれない。からだも上手くうごかなかった。


 まさか、失敗してしまったのか?


 最悪の想定が男の脳裏に浮かんだ。


 が、事態は想像の斜め上を行っていた。


 自分のからだが、女の手で軽々と持ち上げられる。そんなに小さなからだではないはずだったが……?


 まったく聞いたことのない言語で何かしらをわめく女の前には、藁敷きの寝床に横たわる女がいた。息を乱し、股の間から血を流している。


 これは出産のいちシーンと考えて間違いない。


 俺は一体どうなった?


 死んだはずだぞ?


 ここはどこなんだ?


 俺は生まれたての赤ん坊なのか?


 このからだの違和感は何だ?


 泣きわめきながら混乱する男……少女に、産褥の女は苦しみの末に出てきた排泄物を見るような目で少女を見た。


 なにかわけのわからない言葉で悪態をついている。


 それを理解する間もなく産湯を使われ、泣き疲れた少女はそのまま眠りについてしまった。


 


 赤子だった少女は、ロクに乳も与えられず、泣きわめいていると毎回違う人間が哺乳瓶を口に突っ込んだ。母親と思われた女はたまに様子を見に来るだけで、抱くこともなければ笑いかけることもなかった。


 はいはいができるようになったころ、ようやく少女は悟った。


 自分は前世の記憶を持ったまま、どこか別の世界に生まれ変わったのだ。そして、生まれ変わった先はあまり良い環境ではないらしい。


 さらに、前世は男だったというのに、今生は女に生まれてしまった。前世の記憶が邪魔をして、からだは女だというのにこころは男という矛盾に少女はひどい違和感を覚えた。


 受け入れるのには時間がかかった。なまじ、前世での知識や記憶、経験や常識がある分、女として異世界に生まれ変わったことなどにわかには信じられなかった。


 が、時が経つにつれ少女はその現実を理解し始めた。


 前世の実績があるので、言葉を理解し、話し始めるのは早かった。その内容も大人びたもので、周りの大人たちはそれを気味悪がっていた。


 村のような集落で水を運んだり畑仕事をして過ごしていたが、母親の表情が明るくなることはない。


 ある日、野良仕事から帰ってくると、家と言う名のテントから光と声が漏れていた。


 いわく、もう少し育てたら奴隷として売っ払っちまおう。


 いわく、あんな気持ち悪い子供に価値なんてつくのか?


 いわく、女ってだけで買うやつはいるだろう。


 なるほど、自分はこれからどこかへ売られていくらしい。その事実はすとんと少女の中で腑に落ちた。ここで必要とされていないなら当然の帰結だ。


 テントの明かりが消えるのを見計らって寝床に入る。


 言葉も覚え、ここでの暮らしにも慣れた。そして、この環境が最低なこともわかっている。


 売られた先次第では、今よりマシな生活が送れるかもしれない。


 今はそれくらいしか希望はない。絶望に魅入られて一度死んだ少女にとっては上等だった。


 きっと、あの地獄よりはマシな環境だろう。


 そのときは、少女はそう楽観視していた。

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