最強狩りのジョン・ドゥー~電波系TS転生奴隷少女の暗澹たる成り上がり英雄譚~

エノウエハルカ

№1 神の声

 やった。


 ついにやってやった。


 血にまみれたペーパーナイフを両手で握りしめ、返り血を浴びた少女はきらきらと目を輝かせていた。脳内麻薬に全身がしびれ、とてつもない多幸感が全身にみなぎっていた。


 ベッドルームの目の前には、主人と呼ぶのもはばかられる支配者の死体が転がっている。中年の男はだくだくと首から血を流して身じろぎもしない。完全に絶命している。


 少女が殺したのだ。ペーパーナイフで喉をひと突きにしてやった。


 しかし、罪悪感などカケラもわいてこなかった。


 それよりも、興奮するほどの達成感に支配されていた。あらゆる偉業をもってしても味わえないような、めまいのするような高揚。息を荒らげ、頬を赤らめ、目をきらめかせ、少女はしばらくの間血にまみれたベッドルームで絶頂の余韻に浸っていた。


 やった。運命に勝ったのだ。


 ほかならぬ、自分のこの手で!


 よろこびと言うにはあまりにもないまぜになった感情に、ナイフを握りしめた手が震える。


 今までずっと、レールの上を走ってきた。それこそ、前世からだ。『こうあるべきだ』という社会が作り上げてきたレールを、律義にたどってきたのだ。


 なのに、いいことなんて何もなかった。社会はなにも助けてはくれなかった。それはそうだ、最大限に少女を酷使するために作られたレールだ、最後には搾りかすしか残らない。


 そんなレールを、少女は外れることにした。


 前世からずっと敷かれてきたレールをみずからの意志で逸脱し、この手で自由を勝ち取ったのだ。


 自分は、真の意味での自由の身だ!


 興奮に打ち震える少女は、そこに転がっている死体の男の奴隷だった。ひどい待遇と過酷な労働、加えて、今夜少女は男に凌辱されるところだったのだ。


 そんな奴隷の少女が、主人を殺害したのである。


 これは反逆だった。


 運命という名のレールから外れ、少女は真に自由になったのである。


 あとからあとからあふれる高揚感で、涙が出そうだった。実際、少し泣いていたのかもしれない。


 赤にまみれた少女は、手にしたナイフで主人の胸をめった刺しにした。


「……あはは……!」


 少女は笑っていた。振り切れた笑みを浮かべながら、何度も何度も何度も、主人だった男のからだを刺し続ける。


「あははははははははははははは!!」


 けたたましい笑い声を放ちながら、少女は元主人の死体をうがち続ける。もう死んでいるのはわかっているのに、我を忘れて死体を刺し続ける。血のシミは絨毯を赤黒く染め上げ、少女が身にまとっているボロはたちまち真っ赤になった。


 元主人の死体がめちゃくちゃになったところで、ようやく満足した少女はペーパーナイフを捨てて、深呼吸をした。


 血なまぐさい空気が肺に入って来る。が、これはきっと生まれて初めての自発呼吸だ。なんと軽やかな空気なんだろう! 息をしている、という実感をしたのは初めてのことだった。


 自由を勝ち取った余韻に浸りながら、少女はふと思った。


 これから自分は奴隷ではない。


 ならば、名前が必要だ。


 奴隷ではない何者かになるためには、名前が必要だ。


 名前……名前……


 ……そうだ、昔なにかで見たことがある。


 死体安置所の身元不明の男性の遺体には、ジョン・ドゥーという名前が便宜的につけられるという。


 だとしたら、死んでいた名無しの自分には、ジョン・ドゥーという名がふさわしい。


 ならば、俺は今日からジョン・ドゥーだ。


 ジョン・ドゥー。


 新しい人生の始まりにつけた名前を、少女はとても気に入った。


 さて、これからどうしようか……とベッドにどさりと腰を下ろしていたジョンの頭の中に、唐突に声が聞こえた。


 よくやりましたね、ジョン・ドゥー!


 あまりにも突然のことだったので、誰かに見られたのかと慌てて辺りを見回した。ドアにも窓にも人影はなく、ただ暖炉の炎がぱちぱちと燃えているだけである。


 空耳か……?といぶかしんでいるジョンに、頭の中の声は続ける。


 驚くのも無理はありません、皆最初はこうなります。


 どこから聞こえてくるわけでもなく、声はジョンの頭の中から直接聞こえていた。初めての感覚に戸惑うジョンは、頭を抱えてうずくまった。


 なんだこれは? 誰かがテレパシーでも送っているのか??


 混乱するジョンに、声は慈愛に満ちた言葉を授けた。


 私は神です。あなたのすべてを、前世から見ていました。あなたは勇気ある行動によって、真の自由を手に入れました。


 神? 神だって?


 今まで呪ったことはあるが、感謝したことはない神。


 そんな神が、今更何の用だ?


 神と言っても、私はこの世界の運命を司るシステムのような存在。あなた方が崇めるような存在ではありませんよ。


 私は自分の手で運命に打ち勝った人間を助けようとしているだけです。そう、あなたが特別な存在だからこそ、こうして語り掛けているのです。


 特別な存在?


 その通り。運命に打ち勝つには勇気が必要です。そんな勇気を持つ特別な人間を、みすみす不幸にすることはできません。


 世界にとって、あなたは必要なのです。


 今の今まで『必要な人間だ』と言われたことのなかったジョンは、その一言で神の声を信じた。


 自分はここにいてもいいのだ。


 誰かから必要とされているのだ。


 それだけで、からだを支える足裏がたしかに床を踏みしめる。


 これからも、私はあなたを助けましょう。


 私に従いなさい、ジョン・ドゥー!


「はい!」


 思わず声に出して返事をして、ジョンは生まれて初めての自己肯定に陶酔していた。


 ……だが、この声はあくまで架空のものだ。実際のところ、ジョンにしかその声は聞こえていない。すべてはジョンの脳内で完結しているひとり芝居だ。


 主人を殺害したという強いストレスが引き金となって、心理的な防衛機構が働いた結果、神の声という形でその行為を正当化しようとしているのだ。


 現代日本で言うところの、統合失調症だ。


 強いストレスにさらされて発症したこの病は、自分で病識を持つことが難しい。本人は病気などではなく、本当に神の声が聞こえていると信じ切っているのだ。


 すぐに治療しなければ悪化の一途をたどるばかりだが、病識もない患者が病院に相談するはずもなく、取り返しがつかなくなってから騎士団のお世話になったり、最悪の垂れ死んだりする。


 しかし、ジョンは神の声を聞いたことをよろこばしく思っていた。


 自分は特別なのだ。


 神に選ばれたのだ。


 そう信じることによって、ようやく自我を保つことができた。


 まずは、屋敷の人間を皆殺しにするのです。一族郎党、メイドから執事、コックまですべてです。そうすれば、あなたは他の奴隷を解放し、皆で逃げることができます!


 物騒なことを言う神の声に従って、ジョンは壁に掛けてあった観賞用の剣を引っ張り出し、それを引きずりながら主人の死体が転がる寝室を後にした。


 こうして、ひとりの少女による大虐殺の夜が幕を開ける。

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