№28 姫さらい

 ジョンは気付いていた。


 ここのところ、ジェーンの様子がおかしい。


 いっしょに話をしていてもどこか上の空で、時折うつむいてかなしげな顔をする。ジョンが顔を覗き込むと、はっとしていつもの笑顔に戻るのだが、なんとなく取り繕ったところがあった。


 からだには明らかに暴力を受けた痕跡があちこちにあり、ある時は片目を包帯でふさいでいた。最近ではそう長い間いっしょにいることができず、夕暮れを待つ頃にはそそくさと帰っていく。


 なにかがジェーンのこころを曇らせている。そう悟ったジョンは、なんとかしてその原因を取り除かなければならないと思った。そのためには、つらいだろうがジェーンから話を聞くべきだ。


 ある日の昼下がり、いつもの公園のベンチで、ジョンは思い切って尋ねてみた。


「……ジェーン、なにかいやなことでもあったか?」


 ジョンの問いかけに、ジェーンは慌てて笑顔で首を横に振って、


「そんなことない! いつも通り!」


 答えたあとで、ジェーンは急にしゅんとしてため息をついた。


「……ジョン・ドゥーは何でもお見通しなんだね」


 どうやら答える気になったらしい。ジョンは真剣なまなざしでジェーンを見詰め、次の言葉を待った。


 しばらくたった後、ジェーンはかすかな声音でつぶやいた。


「……近々、主人の『初物食い』があるらしいの」


「『初物食い』?」


「……うん。奴隷の女の子はこれくらいの年になると、『初物食い』があるの……その、わかるでしょ? そういうこと」


 そこまで言われれば、元奴隷のジョンにもわかった。


 要は、主人に凌辱されるのだ。処女を奪われる。


 その意味は、少女にとってはひどく重かった。自分の大切なものを汚され、屈服させられ、征服され、自分が所有物でしかないことをからだに刻み込まれるのだ。もう二度と、普通に好きな男と恋に落ちることなどできはしない。


 少女の人生において、それは生死に関わるくらいの汚点だ。処女を奪われるだけでは終わらないだろう。今後何度もそういうことがありえるのだ。


 ジョンはかつて、犯されそうになって主人を刺殺した。


 それがすべての始まりだった。


 今でも後悔はしていない。


 それくらいにショッキングな出来事だったのだ。


 今、ジェーンはそんな目に遭おうとしているのだ。


 気が気ではないのは納得できた。


「……今夜かもしれないし、明日かもしれない。だから、最近は不安で、夜も眠れないの……」


 たしかに、ジェーンの美しい目元には薄くクマが浮いていた。毎日会っていたので今になって気付いたが、最初にあったころよりも少しやせているような気がする。


「……外出しているときにあなたと会ってることもバレたの……ひどく殴られた。はだかにされて、一晩外に締め出された。こうしていられるのも、今日までかもしれない……」


 そうつぶやく言葉は、まるで死者の絶息のような苦鳴だった。その透き通った瞳は絶望の色に塗りつぶされており、ジェーンの最大の魅力であるはつらつとした雰囲気はすっかり消えていた。


 そんなジェーンを見て、ジョンは直接ナイフで刺されたようにこころが痛んだ。現実というやいばでぐさぐさになった胸が、きゅう、と鳴る。


 ここで立たなければ、きっと一生後悔する。今のジョンはただの女だが、ジェーンを、いとしいつがいを守るためならなんだってする。その程度の覚悟はあった。


 また戦いの日々に明け暮れることになろうとも構わない。以前のジョンは孤独だったが、今はジェーンがいてくれる。それだけで、なにもこわくなかった。


「……君と会えなくなるのは、いやだ」


「……ジョン・ドゥー……?」


 すがるような視線を受けて、ジョンはジェーンの手を取って言った。


「君は俺のいとしいつがいだ、ジェーン・ドゥー。いっしょに逃げよう」


 至極真剣な顔をして告げられた言葉に、ジェーンは少し視線を逸らす。


「……気持ちはうれしい。けど、無理だよ」


 ジェーンの気持ちが折れようとしている。こころまで奴隷に堕ちようとしているのだ。ジョンにはそれが我慢ならなかった。


「そんな顔をしないでくれ。君はたましいまでは売ってはいないはずだ。だったら、その足かせを破るときは今しかない」


 ぐ、と握った手にちからを込めて、ジョンは必死にジェーンを励ました。悲嘆に染まっていたジェーンの瞳に、だんだんと元の光が戻って来る。


「必ず俺が何とかする。だから、いっしょに行こう、ジェーン・ドゥー」


「…………」


「こころまで落ちぶれちゃいけない。戦え、勝ち取れ。そうすることでしか、俺たちは生きていけないんだ」


 まさかこの言葉でジェーンを激励することになるとはな、と運命の皮肉にジョンは密かに苦笑いした。


「……戦う……勝ち取る……」


「そうだ。俺もそうやって来た。君にもできる」


「……わかった。私、戦うよ。あなたといっしょに行く、ジョン・ドゥー」


 ジェーンの目には、すっかり活力が戻っていた。闘志に輝きを増した青に、琥珀がにっこりと微笑む。


「それでいい」


 ジョンはそのままジェーンを壊れ物のように抱きしめ、やわくささやいた。


「必ず守る、安心してくれ」


「……ありがとう、ジョン・ドゥー」


 その背中を、ジェーンもまたやんわりと抱きしめ返す。


 このぬくもりを守り抜く。


 何人殺しても、なにを奪っても。


 戦う。勝ち取る。


 ジョンは初めて自分の意志でそれを決定した。


 抱き合うふたりはそれぞれ覚悟を決め、今夜落ち合って逃げようと誓いあって別れた。

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