№27 天上道
それから、ジョンはすっかり正気を取り戻した。あれだけうるさかった神の声も消えてしまって、思考がクリアになっている。
身なりを整え、朝起きて夜眠り、きちんとした食事をする。
それだけで、一気にジョンの顔つきは人間らしくなっていた。
ジョンを人間たらしめているのは、ほかならぬつがい、ジェーン・ドゥーの存在である。市場に買い物に来るときに、ジョンはいつもジェーンの姿を探した。
奴隷のぼろきれと首輪を身に着けた素足のジェーンは、今日も重いジャガイモの袋を背負って潰されそうになっている。
それを全部代わりに担いでやり、ジョンはジェーンにあいさつをするのだ。
ジェーンはいつも笑ってあいさつを返してくれた。
ふたりはしばしば密会していた。
時には公園で話をし、時には河原まで出かけて水遊びをし、時には主人にないしょで甘いものを食べた。
そうしてふたりで過ごしているうちに、ジョンの胸の内はあたたかいおだやかさでいっぱいになっていた。望んでいた、普通の人間の生活だ。ここには戦いも争いもない。戦わなくてはならない理由もない。
戦わなくとも、ジェーンがいるだけでなにもかもが許されるような気がした。
ここにいてもいいのだ。存在意義などクソくらえだった。
ジョンは、ひとときの安息にまどろんでいた。
今日も市場でジェーンを見つけたジョンは、荷物を持ってやりながら公園のベンチでいっしょにジェラートを食べながら話をした。気付けば夕暮れで、ジェラートもすっかりなくなっていた。
夕日の差す公園で、ジェーンの横顔はいっそう輝いて見えた。もうそろそろ帰らなくては主人に罰を受けるだろう。しかし、ジェーンはなかなか話をやめなかった。
「私ね、奴隷じゃなくなったら、学校の先生になりたいの」
ベンチで足をぶらぶらさせながら、ジェーンは言った。
「私みたいな奴隷の子供たちにも読み書きや計算を教えてあげて、ちゃんとひとらしく生きていけるように。その手助けをしたいの」
ジェーンはその夢まで高潔だった。そんな崇高な志を持っているものはそうそういないだろう。ジョンなど、ただいたずらに強くなりたいと、理由もなくそう思ってきただけだ。またしても自分が恥ずかしくなる。
しかし、恥ずかしかったのはジェーンも同じらしい。うつむいて、長いまつげを伏せながら、
「……こんな身分でなにを言ってるのか、って思ってるでしょう?」
「いいや、思っていない。素晴らしい夢だ」
慌てることすらなく、ジョンは至極当然のように言い放った。
しかしジェーンが納得することはなかった。はかなげに首を横に振り、
「いいの。だって、私は奴隷だもの。人間以下の存在。少なくとも、私の主人は私のことを虫けら以下だと思ってる。それが、奴隷」
痛いくらい知っていた。ジョンもかつては、ジェーンと同じ奴隷少女だったのだから。
あの、汚物を見るような目。気まぐれにぶたれ、その日の機嫌によってはブタの飯を食べさせられ、病気で死んだ奴隷はゴミのように肥溜めに捨てられた。
一切の人間性をはく奪され、家畜のように飼われる生活。こころは徐々に腐っていき、やがては家畜小屋の豚のように死ぬ。
そんな毎日の中にあって、ジェーンのように清らかでいられることは、ほとんど奇跡だった。目を輝かせて夢を語り、生きていればきっと今日よりも素敵な日がやって来るはずだと信じて。
ある意味で、ジェーンはジョンなどよりずっとずっと強い存在だった。
そんな野花のような美しい人間が、不当に踏みつけにされている。
ジョンの中に、ふつふつと怒りのようなものが湧き上がってきた。
「……ジェーン・ドゥー」
「なに?」
「君は自分が奴隷であることを、悔しいと思うか?」
ジョンの問いかけに、ジェーンはますますうつむいてしまった。
しかし、その口元で、ぎり、と歯を食いしばる音がする。
「……くやしい」
「まだ自分の足で歩き出すことはできるか?」
「……たぶん、できる」
「自分の前に敷かれた、運命のレールから外れる覚悟はあるか?」
「……ある……!」
ジェーンは、かつてのジョンのように、野心にあふれた声で返事をした。
そうだ、その心意気だ。自信と勇気さえあれば、この少女はいくらでも奴隷の身分から脱することができるだろう。
ジョンはうつむくジェーンの肩に手を置いて、
「だったら、君は奴隷じゃない。こころまで奴隷に落ちぶれていない。たましいだけはいつだって誰だって自由だ。夢を語るのも、ひととこころを通わせるのも、自由」
顔を上げたジェーンに、ジョンはにっこりと笑いかけた。
「誇るといい、ジェーン・ドゥー。君は自由だ」
「……ありがとう、ジョン・ドゥー」
こころの奥底から湧いて出てきた言葉と共に、ジェーンはジョンの頬に小さく口づけをした。
きょとんとしているジョンを見て、ジェーンは顔を赤くして笑う。
きっと、からだは女だがこころは男であることを知らないジェーンにしてみれば、年上のお姉さんに少しませた挨拶をしたことが気恥ずかしかったのだろう。
ジョンはとっさに言葉を尽くしてジェーンを掻き口説こうとしたが、結局は女の身、おかしく思われるのは間違いなかったのでやめておいた。
もどかしさにうなっているジョンに、ジェーンが笑いかける。
「ねえ、明日も会えるかな?」
「もちろん、会えるさ」
「よかった。だったら、安心して帰れるね」
もう日が暮れている。帰らなければ主人にひどいことをされるのだろう。
それでも、ジェーンはぎりぎりまでジョンといっしょにいようとした。
それがうれしくて、ジョンはつい目元を緩ませてしまう。
「またね、ジョン・ドゥー」
「ああ、また明日。いとしのジェーン・ドゥー」
さよならの挨拶をすると、ジェーンは手を振ってジョンの元から去っていった。
明日も会える。その事実だけで、ジョンのこころは羽が生えたように浮ついた。
我ながらわかりやすい。
十ほども年下の女の子に、二十歳も過ぎた女が抱く思いではないことくらいは知っている。
が、ジョンはいつまでも、ジェーンが座っていたベンチのぬくもりに手を這わせて安らいでいた。
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