№33 ピカレスク・ロマン

 鬼の形相でゆっくりと『最強の勇者』に歩み寄るジョン。その琥珀の瞳には、たしかに勝つという意思の光が宿っていた。


「く、来るな!!」


 英雄譚の主人公らしくない狼狽っぷりで、鼻と頬の骨を折られた『最強の勇者』は、両手の平に魔素を集めていく。魔法を構築し、放った。


 『最強の勇者』の手から紫電がほとばしる。これにも当たらなければならないというのなら、当たってやろう。


 ばしん!と音を立ててはじけたいかづちに、ジョンのからだがえびぞりになる。右の眼球が破裂する感覚と共に、視界が狭まった。


 ジョンはしばらくがくがくと震えていたが、ずん、と一歩を踏み出した。


 さらに一歩、もう一歩。


 幽鬼のような足取りで『最強の勇者』に近づくと、ついにその真正面に立つ。


「……ひ……!」


 『最強の勇者』はとっさに盾で自分のからだを守った。が、もう遅い。


 ジョンは指を失った右手で紙屑のようにその盾をへし破ると、その向こうにあった『最強の勇者』の喉笛を、白く突き出た指の骨の先で切り裂いた。


 血がほとばしり、『最強の勇者』の喉から空気が漏れる音が聞こえる。声帯まで達したのか、もう悲鳴さえ聞こえなかった。


 気道を切り裂かれ、呼吸困難に陥って這いつくばる『最強の勇者』。


 もはや、英雄譚の主人公らしきところは微塵もない。完全なる敗北者の醜態だ。


 『最強の勇者』の物語は終わった。


 もうこれは、『最強の勇者』の英雄譚ではない。


 これから始まるのは、ジョンのジョンによるジョンのためのピカレスク・ロマンだ。


 正義を踏みにじる悪党の物語だ。


 ジョンは新たなる物語の主人公らしく、這いつくばって逃げようとする『最強の勇者』の頭を踏みつけにし、ぼろぼろになったからだでいつものように言い放った。


「頭が高いぞ、『最強』」


 ジョンの勝利宣言に、みじめな元『最強の勇者』は、ひゅうひゅうと喉を鳴らしてあがいている。どうやら、まだ生きていたいらしい。


 いいだろう、とどめを刺してやる。


 視界の端に大剣が転がっているのが見えた。


 左腕を失い、右手の指を落とされたジョンは剣を握れない。が、元『最強の勇者』にとどめを刺すならこれだろう。


 器用に足で切っ先を蹴り上げると、大剣はくるくると回転しながら宙を舞った。軽く地を蹴って飛び上がったジョンは、その剣の柄を足裏に捕らえ、その剣ごと元『最強の勇者』の心臓に蹴り込んだ。


 急所をひと突きにされた元『最強の勇者』は、びくん、とからだを跳ねさせると、そのまま動かなくなってしまった。


 即死である。幕切れとしてはあまりにあっけないが、敗者を無駄に苦しませる必要もないだろう。


 ジョンはまたしても『最強』を打ち破った。また強くなった。高みへ近づいた。


 が、神の声の喝采は一向に聞こえてこない。そして、あのめまいのするような勝利の快感もない。


 勝ったというのに、なにかを勝ち取ったという実感がまるでなかった。


 やはり、すべてはまやかしだったのか。


 ジョンはただひとり、妄想に踊らされるだけの間抜けなピエロだった。


 その事実を突きつけられて、無性に悔しくなる。


 なにもかもが無駄だった。徒労だった。ジョンが今まで目指していたものは、ただの蜃気楼だった。まやかしの目的地を目指して、がむしゃらにやってきたのだ。そこに意味などなかった。


 つまり、ジョンの人生には意味などなかったということだ。


 存在価値を失ったジョンは、ひとしずく、弾けた右の眼窩から生ぬるい涙を流した。


 これまでの人生はなんだったんだ。


 俺はなんのために生きてきたんだ。


 レールを外れたつもりが、自分で敷いたレールに乗って、自分で自分を責めて、苦しんで、狂って。


 それならいっそ、生きるのをやめた方が……


 ……いや、はやく、ジェーンに会わなければ。


 この空虚を、つがいへの愛で埋めなければならない。


 きっと、ジェーンならばジョンの生きる意味に、この世界にいていい理由になってくれるだろう。


 空っぽになったジョンを満たしてくれるのはジェーンしかいない。


 だから、はやく、はやく。


 庭園の火は屋敷にも回り始めていた。あちこちから火の手が上がっている。タイムリミットが迫っているのだ。


「いたぞ! あそこだ!」


「怯むな! 行け、行けー!」


 逸るこころを持て余すジョンに、またしても傭兵たちがかかって来る。


 邪魔をするな。


 からだ中無事なところなどない状態のジョンは、それでも闘志の鬼火を片方だけになった琥珀に灯して、行く手を阻むものを殺害するための一歩を踏み出す。


 最愛のつがいを、生きる理由を迎えに行く、ただそのためだけに。

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