№34 ごめんね

 ジョンは殺した。


 殺しに殺した。


 血と臓物の道の果てに、屋敷の内部にたどり着く。さすがに屋敷の中には傭兵はいなかったが、使用人たちが回り始めた火を消そうとあたふたしていた。


 その使用人たちも、殺す。殺して回る。


 今更、罪のないひとたちを殺すことに躊躇はなかった。ただ邪魔をされたから殺した、それだけだ。


 死屍累々と死体が転がる屋敷の中で、ジョンはジェーンを探してあちこちのドアを開けて回った。奴隷小屋にはいなかったので、この屋敷のどこかにいるはずだ。


 火はすでに屋敷の一部を焦がしている。急がなければ。


 屋敷の奥まった一室にたどり着いて、ドアを開ける。


 物置小屋らしきそこには、求めてやまなかった最愛のつがいがいた。


「ジェーン・ドゥー!」


 左腕と右目、大量の血液を失くしたジョンが駆け寄ろうとして立ち止まる。


 ジェーンの着ているボロは、乱雑に破かれていた。小さな乳房があらわになっている。顔にもからだ中にもひどく殴られた跡があった。立ちすくむジェーンの股の間からは、ぽたぽたと破瓜の血がしたたり落ちている。


 すべてを察したジョンは、おそるおそるジェーンに歩み寄ろうとする。


「……来ないで」


 か細いが、きっぱりとした拒絶の言葉だ。


 ジェーンはすっかり青ざめ、その瞳の輝きは老婆のように消え失せていた。ただ、絶望だけが面のように顔に張り付いている。


 自分のからだを抱きしめながら震えるジェーンは、かすれた声で言った。


「……ごめんね、ジョン・ドゥー……私、汚されちゃった……もう、いっしょには行けない……」


「そんな!」


 ジョンが強く前に出ようとすると、ジェーンは隠し持っていたペーパーナイフをみずからの喉笛に突き付けた。


 くしくも、ジョンがかつて主人を刺し殺したものと同じ意匠のペーパーナイフだった。


「……やめろ、ジェーン・ドゥー……!」


「来ないで!!」


 今度こそ、ジェーンは拒絶の叫びを上げた。


 ヘタに刺激してはまずい。ジョンは精いっぱいおだやかな声音でジェーンを諭そうとした。


「なにがあったかはわかる。けど、君は汚れてなんかない、ジェーン・ドゥー。今でも俺の愛すべきつがいだ」


「……私には、そんな資格ない」


「君がどんなに落ちぶれようとも、いっしょに底まで堕ちよう。必要ならば引き上げる。どうか、俺にその権利を与えてくれ」


 懇願の色を帯びたジョンの言葉に、ジェーンははらりと涙を流した。しかし視線はジョンには向けられず、やいばの切っ先に向けられたままだ。


「……私にはもう、誰かを愛することはできない。このからだに、隷属の証を刻み込まれたから」


「だからといって、ずっと奴隷のままでいるつもりか? 君は言っただろう、奴隷でなくなったら教師になりたいと。自分のような奴隷の子供たちに、生きるすべを教えてやりたいと。その夢はどうなる?」


「夢は夢のままだよ……私は、もう……」


 いよいよペーパーナイフを握る手にちからが込められようとした。


「君は言っていた! 生きていれば、今日よりも良い日がきっと来ると! 君が俺にそう教えてくれたんだ! だから、生きろ、ジェーン・ドゥー! どんなにみじめだろうとも、どんなにつらくとも! 俺がそばにいる! だから!!」


 ジョンは言葉を尽くした。しかし出てくるのは稚拙な言葉ばかりで、到底ジェーンには届かない。


 ジェーンは涙を流しながら、引きつった笑みを浮かべた。


「……ごめんね、ジョン・ドゥー」


 そして、ジョンが止める間もなくその細い首に一気にやいばを突き立てる。脛骨まで達したナイフの切っ先が首の後ろから生え、ジェーンはその場に倒れ伏した。


「ジェーン・ドゥー!!」


 半狂乱で駆け寄り、必死にジェーンを揺り動かす。が、どう見ても即死だ。首筋を血だらけにしたジェーンの瞳からは、生命の輝きが消え失せていた。


 ぼんやりと半開きになった目を見詰めて、ジョンは頭が真っ白になった。


 どうして?


 なぜこうなった?


 もう少しでも早く駆け付けていれば。


 『最強の勇者』と対峙したあのとき、ジェーンの言葉に従わず逃げずに戦っていれば。


 ほんの少しのボタンの掛け違いで、ふたりの仲は永遠に引き裂かれてしまった。


 最愛のつがいを、守れなかった。


 最後の最後で失ってしまった。


 結局、ジョンは間に合わなかったのだ。


 もう少しで届きそうだった手から、ジェーンのいのちが滑り落ちていく。


 愛するつがいは、永遠に失われてしまった。


 レールから外れて、ひとときの安穏を得たが、最終的には何も勝ち取れなかった。


 自分が無力なせいで。


 ジェーンの遺体を抱きしめながら、ジョンは涙ひとつこぼさなかった。


 思考が異常なまでにクリアになっている。頭はすっかり冴えていた。


 もう神の声も聞こえない。


 存在意義や生きる価値うんぬんも考えてはいない。


 ただ、ジェーンの亡骸を前にして、ジョンはやるべきことをすべて済まそうとこころに決めた。

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