№31 妄想

「ぎいいいいいいいいいい!!」


「こら、暴れるな! 傷口ではなく口を縫い付けるぞ!」


 診察台の上のジョンのからだが、意志に反して激しく跳ねた。消毒薬をぶっかけた闇医者がどうにかして押さえつけようとするが、ジョンの膂力の前では無駄だ。


 結局、闇医者は荷造り用のロープで苦労してジョンのからだを診察台にくくりつけた。重い樽や木箱を荷馬車に固定するための頑丈なロープである。これならばそう簡単にはからだは動くまい。


 拘束されたジョンは白目を剥いて身をよじろうとしたが、それすらもままならない。


 その隙に、闇医者は一番深い傷、ハラワタがこぼれそうなわき腹の斬り傷を強引に縫っていった。まるで雑巾でも縫うかのような乱雑な手つきは、さすが闇医者といったところか。


 ざくざくと大まかに傷を閉じて、とりあえず血を止める。その間に火傷を冷水に浸したタオルで冷やし、骨折した左腕を固定する。


 その度に、ジョンはケダモノのように叫んだ。何の意味もない悲鳴だ。あまりの痛みに何度も失禁した。噛みしめたくちびるはもう傷だらけだ。


 ただの動物としての反応の中には、人間としての悲哀も混じっていた。


「……ちくしょう……!……ちくしょう……!!」


 ジョンはわんわん泣きながら、ジェーンを救えなかった自分を呪った。


 もっと自分にちからがあれば。


 もっと強ければ。


 後悔ばかりがジョンのこころをさいなんだ。


 ジェーン・ドゥーを救えなかった!!


 俺の大切なつがいなのに!!


 必ず守ると誓ったのに!!


 逆に守られてどうする!!


 俺は最低だ!!


 あれほどジョンを罵倒していた神の声もぱったりとやんでしまって、誰かに責めてもらいたい今に限ってだんまりだ。『最強の勇者』との戦いの中でも、神の声は一切のアドバイスをくれなかった。


 なぜ神の声は聞こえなくなった?


 戦うことをやめてしまったからか?


 頂点を目指すことをやめてしまったジョンを、神は見放したのか?


「……答えてくれ……神の声……!!」


 悲鳴の隙間からあふれ出てきた言葉を、闇医者の耳がとらえた。ケガ人のうわごとにしてはいやにはっきりとしている。


 なんとなく不吉なものを感じ取った闇医者は、傷を細かく縫い直しながら尋ねた。


「なんだ、神の声ってのは?」


 一番痛い関門を越えたジョンも、徐々に正気を取り戻そうとしている。目元を涙で濡らしながら、ジョンは断続的にからだを震わせながらも答える。


「……聞こえるんだ。頭の中に、神が語り掛けてきて……神の声に従っていれば、すべてうまくいった……神の声が、俺に強くなれと言ったから、俺は戦ってきたんだ……それ以外に俺に価値はないって言うから、だから……神の声は、絶対なんだ……!」


 切々と語るジョンの言葉に、みるみる闇医者の目が憐れみを帯びていった。それを感じ取ったジョンは、脳内を疑問符でいっぱいにする。


 怪訝そうにするジョンに向かって、闇医者はため息をひとつついた。


「……お前さん、そりゃあ……頭の病気だ」


「…………は?」


 青天の霹靂とはこのことである。


 頭の病気? この俺が? この男は一体何を言っている??


 闇医者の憐れみがさらに深くなる。しかし傷を縫う手は止めずに、


「神の声だと思ってるものは存在しない。全部あんたの頭の中のひとりごとだ。教会辺りに行けば神の託宣だとか、悪魔の誘惑だとか言われるだろうが、俺たち医者から言わせてもらえば、そんなものはありえない。ただの狂人のたわごとだ」


 ジョンも、前世の記憶で精神病についての知識は人並みにはあった。しかし、まさか自分が狂ってしまうなどと、考えたこともなかった。


「ち、違う!! 俺は病気じゃない!! 前世の記憶だってあるんだ!!」


「……それも、頭の中で勝手に作られたものじゃないか?」


「……っ!!」


 絶句し、混乱する。


 そんなはずはない。だって、たしかに聞こえていたのだ。ジョンを導き、追いやり、急き立てた声が。絶対的な存在からの声が。喝采と罵声が。


 あの日、あのとき、勝ち取った瞬間からずっと、神の声は聞こえていた。ジョンはその声を頼りにここまでやってきたのだ。


 神の声はいつだって正しくて、悪罵もまたジョンが弱いからこそ仕方のないことだった。ジョンが進むべき道は、いつだって神の声が教えてくれた。もし主人を刺し殺した瞬間に神の声が聞こえていなかったら、ジョンはこれからどうしようと途方に暮れていただろう。


 強くなる、というたったひとつのレール。


 戦え、勝ち取れ。さもなくば死ね。


 神からの至極シンプルな指令。


 それがあったからこそ、ジョンは今までブレることなく生きて来れたのだ。ただただ『最強』を狩り、より強く、より高みへと。それが存在意義だと、この世界に生きていていい意味だと、神の声は教えてくれたのだ。


 神の声を否定するということは、その存在意義をも否定するということだ。


 頭の中に響く声は、もはやジョンのアイデンティティになっていた。


 その神の声がすべて自分のひとりごと? 頭の病気?


 すべては自分の妄想だった?


 バカらしい……と一蹴するには一抹の疑問が残った。


 もし、もしも、なにもかもがまやかしだったとしたら、自分が信じてきたものは一体何だったのだ?


 今まで正しいと思っていた神の声が、ただの幻聴? 神なんてものは存在しなかった?


 だったら、今までやってきたことはなんなんだ? からだをいじめ抜いて、こころをいためつけて、それでも歯を食いしばってきたのは神の声が正しいと信じていたからだ。


 神の声が強くなれと言ったから、自分は強くなるというただ一つの目標のために旅をしてきたのだ。


 神の声が敷いたレールの上を、ひたすらになぞってきたのだ。


 そこから脱落した途端、神の声はジョンを見放した。もう神の声は聞こえなくなったのだ。それはジョンが神の意志に反したからであって……戦うのをやめたからであって……


 しかし、それからのおだやかな日々はなんだ?


 思えば、ジェーンに出会ってから神の声は聞こえなくなった。それは、頭の病がジェーンというつがいの存在によってやわらいだからではないのか? 信じてきた神の声に背いたときから、ジョンは解放された。神の声が聞こえなくなったジョンは、狂気じみた強迫観念から解き放たれたのだ。


 神の声は正しくなかった? ただの妄想だった?


 だとしたら、その声に従って築き上げてきた存在意義は? アイデンティティは? レーゾンデートルは?


 自分はこの世界にいていい、と信じ込ませるための、すべては茶番だったのか? 本当はこの世界にいてはいけない存在が、欺瞞のために作り上げた虚像だったのか?


 俺はなんのために戦ってきた?


 俺は誰だ?


 俺は、俺は、俺は俺は俺は俺は俺はおれはおれはおれはおれはおれはおれはおれはおれは


「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 精神的な支えを失ったジョンの叫びが、病室の窓ガラスを破裂させる。からだを固く拘束していたロープをちからづくで引きちぎると、ジョンは頭を抱えて診察台の上から転げ落ちた。


「待て! まだ傷は……!」


 あまりの膂力に驚愕する闇医者が制止するが、そんなものは今のジョンにとっては無意味だった。


 アイデンティティは崩壊し、ジョンはまたしても発狂した。


 もう、何を信じていいかわからなかった。


 ……いや、ひとつだけ、信じられるものがある。


 ジェーン・ドゥー。いとしいつがい。


 ジェーンが待っている。


 早く行かなければ。


 衝動めいたものに突き動かされ、半死半生のままのジョンはドアを蹴り破って走り出した。

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