№7 強者の使命

 老婆のもとにやってきてから、ちょうど一年が過ぎようとしていた。


 当たり前のように過ぎていく日々がしあわせすぎて、ジョンは次第にずっとここにいてこのまま過ごしたい、とまで思うようになっていた。


 毎日が平和な今の生活を、ジョンはいたく気に入っていた。


 今日もまた、水を汲みに近くの川までやって来る。


 大きな桶二つ分の水は重いが、老婆にやらせるわけにはいかない。少しでも楽をしてもらうためにジョンが手伝わなければならない。


 やさしさにはやさしさを返す。前世で学んだことが今世でも役に立つとは思わなかった。


 川にたどり着いて、水をくむ前に川面を覗き込んでみた。


 奴隷元から逃げて来た時と比べると、ずいぶんと人間らしい顔になったものだ。相変わらず女体に関しては気持ちの悪い違和感しかないが、最近ではそれでもいいと思い始めている。


 試しににっこりと笑ってみた。


 川面に写る自分の顔も笑う。


 子供らしい愛嬌のある笑顔だ。


 もう笑い方など忘れてしまったと思っていたが、案外ちゃんと笑えるようになるものだ。


 その笑顔に満足して川面から一旦離れようとしたときだった。


 なにをしているのですか、ジョン・ドゥー?


 神の声がささやく。最近ではめっきり少なくなった神の声は、いまだにジョンの中にあった。


 叱られたようにからだをすくめて怯えた顔をすると、神の声は責めるような口調で問いかける。


 もう必要な強さは手に入れたはずです。ここにはこれ以上の用はないはずでしょう? それなのに、なぜあなたはここに留まろうとしているのですか?


 それは、老婆とのしあわせな生活に満足しているからだ。ずっとこんな日が続けばいいと思ってしまった。ジョンも老婆もそれを望んでいる。だから、自分はこれからもずっとここにいる。もう虐げられるのはまっぴらだ。


 なにを言っているのですか? あなたは選び取った強者として、より強くなる使命を帯びているのですよ? 殺し、壊し、犯し、なんぴとたりともたどり着けない頂点に立たなければなりません。


 そんなこと、望んでいない。強くなんてなりたくない。


 望む望まざるに関わらず、これは義務なのです。強者はより高みを目指さなければなりません。それが、あなたが強者として勝ち上がるために踏みつけにしてきたものへの償いなのですよ。


 踏みつけにしてきたもの……いのち。強くなるために、ジョンは山ほど殺してきた。いくら元主人がひどい人間だったとしても、いのちはいのちだ。他にも罪のないメイドや執事たちも殺してきた。助けられたかもしれない他の奴隷たちも見捨ててきた。


 それに対して、ジョンはなにも対価を払っていない。罪に対する罰を受けていないのだ。


 たしかにムシのいい話だと思う。


 ぬくぬくとしあわせに浸って、それでいいのか?


 ジョンは神の声にそう思ってしまった。それに付け込むように神の声はささやく。


 強くなりなさい。もっと強く。高みを目指さないあなたなど、まったくの無意味な存在ですよ?


 無意味な存在。人間としての尊厳を取り戻した今、またその尊厳が奪われ、家畜と同じ存在となることは死ぬほど恐ろしかった。一度尊厳の味を知ってしまったゆえに、もう戻ることなど考えたくもなかった。


 この世に生まれてきた意味。人間はすばらしいばかりではないと、最近は思うようになってきた。なぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのか、なにを目指しているのか。そういったことを考えなければならない。


 そうしなければ、人間は生きていくモチベーションを維持できない。本能だけで生きているケダモノと違って、厄介な生き物だった。


 みずからの生きている意味を失う、それは死も同然だ。死んではいないが生きてはいない、あのころと同じだ。


 そう、また家畜に戻りたいですか? それが嫌なら強くなりなさい。誰よりも強く。その頂点を目指さないあなたに意味などありません。目的意識もなくただ呼吸をしているだけの肉塊です。そうなりたいのですか?


 ジョンは気付いていなかったが、神の声は次第にジョンの人格を否定するようなことをささやくようになっていた。否定、命令、妄想。統合失調症の陽性症状だ。


 しかし、病識のないジョンはそれが神の意志だと信じてやまなかった。


 強くならなければならない。もっともっと。


 最強を目指さなければならない。


 強く『なりたい』ではなく、強く『ならなければならない』という強迫観念に突き動かされて、ジョンは身震いした。


 そうだ、これが強者の使命だ。


 だとしたら、受け入れなければならない。


 ……だが、ジョンにとって今のしあわせな生活は離れがたいものだった。やさしい老婆と紡ぐ平和な日常。それは捨て去るにはあまりにも尊いものだ。


 せめて、もう少しだけ。


 神の声がまたなにかささやいているが、それを強引に無視して、ジョンは水をくむことも忘れてその場を逃げ去った。


 


 やがて、二年が過ぎたころ。


 老婆は病気でで死んでしまった。


 病床で死に瀕した老婆は、あなたが看取ってくれてよかった、と微笑んでやさしく手を握ってくれた。


 死んだ老婆を埋葬し、しあわせな生活は終わりを告げた。


 このままここでひとりで暮らしていくことも考えたが、それはできなかった。


 『強くなれ』という神の声は日に日に強くなっていき、抑えきれないほどになっていた。


 よかったですね、ジョン・ドゥー! これで強くなる旅に出られますね!


 大切なひとが死んだというのに、神の声は弾んだ声で言った。


 強くなる旅、か……


 そうだ、もっと強くならなければならない。そうしなければ、ジョンは無意味な存在になってしまうのだ。


 生まれてきた意味を確かめるためにも、強くなって、強くなって、殺して、奪って、犯して、いただきに立たなければならない。


 神の声にせかされ、ジョンは少ない私物をまとめてすぐさま旅に出る支度をした。自分はもっと強くなれる。そのためには学ばなければならない。


 最後に老婆の墓に手を合わせて、ジョンは思い出がたくさん詰まった山小屋を後にした。


 自分はまだ弱い。


 だが、必ず強くなってみせる。


 そう誓い、ジョンは旅立ちの一歩を踏み出した。

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