第16話 アキと弥七
「昔ね、人間でいうと100年くらい前かしら?私がまだ若かった頃、飢えに苦しんで、この山で1人の男を食らおうとしたの」
「ああ、ごめんなさい。勿論未遂よ、食べなかったわ。そればかりか私はその人間の男に恋をしてしまった」
「あれは冬の寒い夜だったわね。月と星がよく見えるほどとても晴れていて、それが気温をグッと下げていた。私はお腹が空いて仕方がなくて、次に目にしたものは何であれ食べようと意を決していた。そしたら普段は誰も通らないような道を1人の人間の男が歩いていたわ。私はその男に飛びついて押し倒し、口づけをしようとしたの、そしたら」
雪女で言うところの口づけは精気を抜き取って絶命させることである。ちなみに死体は氷漬けにし住処に持っていき、その血肉をも食らうとされている。
「その男が私に言ったの。「いきなりなんだべと思ったら、こりゃ噂に聞く雪女じゃねぇか。えれぇ別嬪さんだなぁ」って」
「私も吃驚して思わず聞いてしまったわ。「あなた、何で私の正体が分かったの?それに私が雪女だと分かってどうしてそんなに平然としていられるの?私は今からあなたを殺そうとしているのよ」って。そうしたら彼、「こんなこの世のものとは思えねぇくらいの美女なんて雪女に決まってるべ。それにこんな美人に接吻されて殺されるなら男として本望だ!」って。その瞬間、私は自分の飢えも忘れたわ。ただ彼の男らしさに参ってしまった」
「私は彼にお腹が空いていて襲おうとしたと正直に言ったわ。すると彼はちょうど持っていた切り干し大根の煮つけと梅干しのおにぎりを私にくれたのよ。彼は弥七と言って大工でね、その日の夜は棟梁のお家で宴会をしていたようで、余り物を包んでもらって帰る道すがらだった」
「弥七はまた明日食料を持ってくると言ってその日は帰ったわ。私はきっと約束は反故にされると思いながらも止めることができなかった。けれどその次の日の夜、同じ場所でまた弥七はご飯を持ってきてくれたの」
「すぐに私たちは打ち解けて、男女の恋仲になった。弥七は家族もなく独り身だったこともあってすぐにこの家を立てて一緒に住み始めたわ。夢のようなひと時だった」
それまで一息に話していたアキが、ここで一旦話すのを止めた。
きっと当時のことを思い出しているのだろう。
「私たちの間に子は授からなかったし、共に暮らしたのはほんの一瞬だった。人間の時間で言えば20年くらいかしら?彼はある日突然、病気で亡くなってしまった。私は独りで悲しみを抱えながら裏の土に亡骸を埋めたわ。彼がそうして欲しいと言ったのよ。しばらくは辛くて塞ぎ込んでいたけれど、彼と過ごしたこの家は今も残っている。ここで彼と過ごした日々は今でも私の大事な、かけがえのない思い出なの。洞穴の方が皆もいて生活するのに不便はないと分かっているのだけれど、どうしても冬の間だけでもここに戻って来たくて、皆に我儘を言っては山を降りて来るのよ」
暁は何も言えなかった。人間と妖怪の生きる時間はあまりにも違いすぎる。人間にとっての20年は生まれた赤ん坊が成人になるほどの時間だが、妖にとってはほんのひと時なのだ。
そのほんの一時の交わりと別れは時に妖怪を深く傷つけるだろう。考え方によっては出会わなければ良かったと苦しみ、嫌悪し、遠ざけてもおかしくない。
それでもアキはその弥七とのひと時を大切な思い出だと、初対面の人間にその思い出を愛でるように、愛おしげに語る様は、今でも弥七という人間を心の底から想っているのだということが伝わってくる。
「では、その結婚指輪は弥七さんが?」
暁がそっと訊ねる。
「そう、ある日弥七が「巷には結婚指輪っていう夫婦の証があるらしい」と教えてくれたの。本当は金属を加工して作るのよねぇ。ただ当時そんな技術はまだこの辺りには普及していなかったし、都会なんかに行くと売っているらしかったのだけれど彼の給料ではとても手が伸びなかったから、「代わりに木を刳り貫いて自分で作る」と言い出したの。私は正直半信半疑だった。でも、弥七は真剣に制作してこれと自分のものも作ったのよ」
アキはそう言うとハルを横にずらして立ち上がり、奥の隅にあった小さな三段箪笥を開け、小さな箱を取り出した。その箱から大事そうに中身を摘まみ上げると、暁たちに見せた。これが恐らく弥七の結婚指輪なのだろう。アキの指についているものよりもずっと大きかった。
「すげぇ」
輪は一見したところ歪んでいるところは一切なく、全ての場所が綺麗にやすりがけされている。表面にはニスが塗ってあるのか程よい光沢が出ていた。素人でも分かるほど丁寧な仕事だ。
「同じ木から刳り貫いて作ったのだと話していたわ」
アキもこの話を真剣に聞いてくれる人がいて相当嬉しかったのか、かなり満足げだった。
「お話し中失礼致します。結界張り終わりました」
綾女がシロを抱えて戻ってきた。
「こちらこそ、今日はありがとう。今年も安心して洞穴へ帰れるわ」
アキは自分のいない間、弥七との大事な家を野放しに放っては置けないのだろう。だから毎年結界張りを依頼を出すのだ。そしてこの家は、また家主が帰って来るのをひっそりと心待ちにするに違いない。
「また来年、いらしてね」
アキは穏やかな笑顔を共に暁たちを見送ってくれた。暁がそっとドアを閉める時「出立は明日の朝にしましょう」と密やかな雪女たちの会話が聞こえてきた。
こうして初任務が終わったのである。
「お前、話聞きすぎ」
帰りの道中でリンが暁に言った。
「誰かが話してたら聞くのが当たり前だろ?別に悪いことじゃない」
「というか話題振りすぎ。5分10分で終わる任務を20分に伸ばしてどうすんだ、アホ」
ここ3週間のうちにリンは存外口が悪いということが分かった。
「お客ってわけじゃないけどさ、ぞんざいにあしらうより丁寧に接した方がいいじゃないか。あの間、耐え難いし。それに話し終わってから藤沢さんたち入って来たんだから20分は予定通りの時間だろう。」
「はぁ、そいつら話が終わるまで戸口でずっと待ってたの気付いていないのか?」
気付いてなかった。
「寒い中すみません」
「風が冷たかったのぅ」
綾女の上着に入ってぬくぬくしているシロが暁を詰る。
「気にしないで。シロ湯たんぽみたいに温かいし、私が話中に入っていく気概がなかっただけだから」
「暁は偉いなぁ」
龍が間に入ってくる。
「龍さんだってちゃんと聞いていたじゃないですか」
「俺は早く終わらないかなぁって思いながら聞いていた。実はアキさん、毎年来る隊員たちにあの話を必ず聞かせるもんだから、隊内じゃ有名でほとんど誰もが知っているんだ。暁が訊ねなくても話し始めていたと思う。随分語り口調も滑らかだっただろう?多分アキさんの話を真面目に聞いていたのは暁だけだ」
ミツも無言で頷いていた。
「そうなんですか?でも初めて聞く分には良い話でしたよ」
「初めて聞く分にはね」
綾女が肩を竦めてそう言った。何回も聞かされているのかもしれない。
「暁はマダムキラーだな」
龍はそう茶化した。
「気を付けた方がいい」
ここでいきなりリンが話に割って入って来た。
「雪女は見てわかる通り、愛情深い。裏を返せば執着心が強いということだ。それは嫉妬心や復讐心を生む」
「何だよ、急に」
「あまり深く付き合わない方がいいということだ。変に気に入られると大変な目に遭うからな」
リンはそう言うとさっさと歩いて行ってしまった。
「俺は暁のそういうお人好しなところ好きだけどなぁ。ただまぁ、お相手が雪女なのは止めておいた方がいいということじゃないか?」
「龍さんもからかわないでください!」
初任務が無事に終わったせいもあってか、皆多少は浮かれているようだ。
「でも、本当に良いお話だったじゃないですか。何かアキさんのお人柄が伝わってくるようで、雪女の長たる所以みたいな、器が広い感じって言うんですかねぇ?」
「確かに包容力はあった」
ミツが助け船を出す。
「けど、あの話からだけじゃ何で長になったのかまでは分からないな。今日の話はあくまでアキさんと弥七さんの恋物語であって、アキさんが雪女の長になった話ではないだろう?」
「あ、確かに。じゃあ来年はその話を聞かないと」
途端に他の隊員たちはもう長話は聞きたくないと首を横に振った。
「…お前、関わるなって俺の忠告聞いてなかっただろ」
「冗談だよ」
そうやってわいわいしているうちに祠の前まで来ていた。
そこでふと暁は違和感を覚えた。
「あれ?大福無くなってる」
中を覗くと跡形もなかったのだ。
「野生動物が持って行ったんじゃないか?」と龍。
「大福を喉に詰まらせていなければいいが」とミツ。
「個包装フィルムも身体によくないよね」と綾女。
「もう!皆して人の善意にケチつけるんですから!」
冗談だってと和やかな笑い声がこだました。
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