第10話 最悪の出会い リン編

(ああ、もうクタクタだ)


 思いの外振り回された休日を過ごしたリンは、寮の前に着いた時に疲れがどっと押し寄せてきた。


 市内に着いたのが7時半くらい、そこからアクセスのないこの山奥に人の姿で歩いてくる気概はなかったので、リンは本来の大きな妖狐の姿になって空を駆けてきた。


 署内に到着し、真っ直ぐ冬真とハチの元へ行って軽く挨拶を済ませたリンは、今はもうさっさと風呂に入り1秒でも早く寝床に就くことだけを考えていた。


 疲れで頭が鈍く痛む。もう何も考えたくないのに今日起きたことが勝手に繰り返し脳内再生されていた。壊れたビデオテープのように反芻される映像には時折過去の鈍い痛みも混ざる。


(ああ、嫌だ、これだから人間ってやつは)


 数えきれないほど吐いてきた悪態を吐いてみる。不思議なことに溜飲が下がるよりも諦めの気持ちの方が勝っていた。自分の気持ちさえままならないのかとリンは己の情緒不安に苦笑する。


 目的の寮が見えてきた。今日からしばらくの根城だ。雨風を凌ぐ屋根と壁があればそれでいいと思っていたが、存外ちゃんとした建物のようである。


 寮に入るとすぐに管理人に声をかけられた。


「あんた、リンかい?」

「はい、そうです。遅れてすみませんでした」

「別に謝ることじゃないさ。あたしゃちっとも困ってないからね」


 管理人はあっはっはっと快活に笑った。年は若くないだろうに元気な人だ。


「あたしは橘弥生。ここの寮母をやっている。困ったことがあったらいつでも言いな」


 困っていることならいくらでもある。これからの人生ならぬ妖生のこと。仕事のこと。人間との接し方について。昔はそんなこと当たり前にできていたはずなのに、いや、当たり前にできていると思っていたはずなのに、いつの間にか足元がサラサラと瓦解して、気が付いたら底なしの奈落へ落ちていた。


(俺はこんなところで何をしているんだろう)


 初対面の管理人に相談することではないので、リンはただ微笑して謝意を述べた。


 「はい、ありがとうございます」


 弥生から自室の鍵を受け取った。簡単に寮内の説明を受け、上に上がろうとした時だった。階段をパタパタと降りてくる足音が聞こえてきた。


 リンは誰の足音か直感的に察しがついた。


(会いたい。いや、会いたくない)


 胸を焦がすほど会いたかったような気もするし、身を捩るほど会いたくなかった気もする。会ってしまったら自分の中の何かが変わってしまうかもしれないという恐怖と、会っても何も変わらなかったらどうしようという不安が全身を貫く。リンは足が搦めとられたかのように身動きが取れなかった。 


 自分の相反する衝動が、矛盾する気持ちが、手に負えないほど取っ散らかっていて収拾がつかない。まるで混沌だ。


 リンは自分が酷く緊張していることに気が付いた。心臓の鼓動が早く、耳のすぐ近くで聞こえる。全身にじとりと嫌な汗をかき、足が床を感じなくなっていた。ズキンズキンと頭痛が激しさを増していく。


(俺はここに来るべきじゃなかったのだろうか)


 心の準備をしてきたではないか。何度も繰り返し己の心に問いかけ、覚悟をしてきたではないか。ありとあらゆる想定をしてこの日を迎えることを決心したではないか。それなのに、いざとなったらこの日和りようだ。リンは自分自身に酷く落胆していた。


 これから自分がどうなるのか分からなかった。どう行動するのか、何を思い何を口走るのか。自分が自分でいられるのかさえ皆目見当もつかなかった。


 心臓が脈打つたびにこめかみが鈍く痛んだ。そのこめかみにつうっと汗が伝う。



(ああ、来てしまった)



 階段を降りてきたのは少年と青年の間くらいの人間の男の子だった。身体は成熟するのにあと数年はかかるだろうがよく鍛えられており、身のこなしも軽やかだ。

 しかしそれよりもリンの気を引いたのは面構えだった。身体同様幼い線を残しているものの、この年にしては精悍な顔つきをしている。


(自信と覚悟と、あと何だろう?)


 リンが見た暁の目の光はただ希望だけに溢れた、甘っちょろい夢見がちな青臭い少年のそれではなかった。もっと何かある。だが何があるのか分からない。知りたい気もする。けれど知ったらもう後戻りはできないだろう。


 自然と言葉が口を衝いて出た。


「お前がバディか」


 相手は少し驚いたが、すぐに気を取り直したようで「成宮暁です。今日からよろしく」とふわりと笑って右手を差し出してきた。


(ああ、会いたくて、会いたくなかった)


 後に暁に聞いたところ、リンはこの時深く傷ついたような顔をしていたという。最も普通に話せるようになったのは大分時間が経ってからのことで、この時のリンにそんな余裕など微塵もなかったのだが。


(なんで、こんな奴なんだよ)


 この時リンはじわじわと怒りが込み上げてきた。昔のあいつに少し似ているような気がしたのも癪だったし、お守りをしなきゃならない億劫さにも憤りを感じたし、それでも来てしまった自分にも腹が立った。そして何より一目見ただけで分かるほど暁が怒りの矛先にできそうにない良い奴ということにも癇に障った。


 つまり、要するに、ただのみっともない八つ当たりだったのだ。


 リンはその右手を取らなかった。


「悪いが俺とあんたの契約は明日からだ」


 案の定、暁は戸惑っていた。


(当然だ、俺がバディならこんなこと言ってくる奴となんて組みたくないからな)


 リンは暁の脇を素通りして階段を上っていった。

 暁が後からついてきて健気にも話しかけてくる。


「馴れ馴れしかったのなら謝る。先に来ていた荷物あるけど、荷ほどき手伝おうか?疲れているだろう」

「疲れているって分かってるならそっとしておいてくれないか。今日は荷ほどきはやらないし、あんたの相手をするつもりもない」


 言葉が止まらなかった。

 リンはどんどん自分の心が荒んでいくのを感じる。


(ああ、なんて醜いんだろう)


 それでも壊れたラジオのように言葉が口をついて出てきてしまう。


「バディごっこはよそでやってくれ。俺は仕事中はバディとして組むが、勤怠以外あんたに興味はない」


 リンは自室の扉の鍵を素早く開けると滑り込むようにして中に入った。暁の顔を見るのが怖くて後ろ手で閉める。バタンと勢いよく拒絶の音がした。


(きっと今頃、このドアの向こうには泣きそうなあいつの顔がある)


 リンは初めて会った人物なのに、その姿を容易に想像することができた。


 ドアの背を預けるようにしてズルズルと座り込む。自然と体育座りの恰好になり、両手で顔を覆っていた。


(俺はきっと人間を、バディを嫌うためにここに来たんだ)


 リンは混沌とした己の心からようやく1つの本音を拾い上げた。


(人間とは距離を置こうと決めた。いや、見限ろうと決めた。あいつに裏切られたあの日から)


 心をぐちゃぐちゃにかき乱され、踏み躙られ、粉々に砕かれた。思いは千々に引き裂かれ、怒りと悲しみの後には虚しさが残った。狂おしいほど叫び、涙が涸れ果てるほど泣き喚き、最後にはただ虚脱感と倦怠感が全身を覆ったのだ。


(俺は人間を許したくなかった)


 あれほどの仕打ちを受け、それでもヘラヘラと仲良くしていられるほど心は広くなかった。心底人間を憎み、蔑み、虐げなければ気が済まなかった。そうでもしなければとてもではないが心が平静を保てそうになかったのである。


(だからきっとここに来た)


 リンははじめ、冬真に会ったときにこれは使えると思った。親の七光りで入った人妖警察官の新人。きっと何の苦労も知らないいけ好かないボンボンで、無垢なでくの坊に違いない。存分にいたぶって楽しんでやろうじゃないか。そうしたら己の晴れない心も少しは慰められるだろう。

 醜悪な自分のどす黒い欲から生まれた薄汚い考えに賛同した。


 きっと傷ついた心の仕返しをしたかったのだ。


 ところがどうだ。暁という男はリンの想像とははるかに違う青年だった。リンが考えていたようなサンドバックにして良い相手ではなかったのだ。そしてやり場のないリンの怒りは拒絶という形で暁に向かってしまった。


(いや、少し違うな)


 リンはかぶりを振った。


(俺が話しかけた瞬間、あいつは喜んだ)


 今日1日、ずっとリンのことを待っていたのだろう。向けられた笑顔と差し出された右手が待ち望んだバディと対面できて嬉しいのだと表現していた。それこそひたむきに純粋に、リンを疑うことなくバディとして既に信頼した目をしていたのである。


 だから残酷に傷つけたかった。その妄信をぐちゃぐちゃに壊してやりたかった。もう二度と仲良くなりたいなんて抱かせないほどに痛めつけ、遠ざけたかった。


(俺はきっと恥ずかしかったんだ)


 あの男に全面的に信用されるほど自分はデキた奴じゃない。その期待に応えられないと思うと怖かった。失望されるのが嫌だった。疚しい気持ちでここにいる己の浅ましさを知られたくなかった。

 だから先に自分はロクでもない奴なのだとはっきりと教えたかったのかもしれない。そして拒絶という形で遠ざけて、それ以上自分の醜態を晒したくなかったに違いない。


(明日、成宮実務部隊長にバディの取り下げをお願いしよう)


 リンはそれだけ決めると、身体を引きずるようにベッドに倒れ込んでそのまま考えることを止めた。

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