第26話 サトリ

「成宮君、ちょっと」


 前を歩く綾女から声をかけられた。

 リンとの件でモヤモヤしていたが、暁は頭を切り替える。


「どうしました?」

「指輪が」


 指輪は役目を果たしたとばかりに、だらんと元の重力法則のもとへ戻っていた。

 目の前にはちょろちょろと浅い流れの小川があった。


「多分、この近くに…あ、ほら、川の中!」


 川の流れに浸かっている枝の先に指輪がひっかかっていた。


 見つかって良かったと誰もが安堵したが、同時に「微妙に手が届かない距離…」とこの極寒の小川に入るのを躊躇していた。


 暁はここは自分が行くしかないと腹を決め、手早く素足になって川の中へ入った。


「うわ、冷たっ!!」


 雪女の力で積雪マシマシの山水である。真冬の川とそう変わらない水温だろう。


「はい、取れましたよ」


 暁が指輪を取り、もう許されたかなと思ってアキに手渡した瞬間だった。





「これでお前は用済みだ…」



 近づいた暁の唇をアキが奪った。

 精気を奪う、雪女の接吻である。


「狐火!」


 間髪入れずに暁とアキの間を割るようにしてリンは狐火を投擲した。その攻撃でアキは暁から距離を取ったので、リンは暁を抱き上げてアキとは反対側の川岸に横たえた。


「おい、生きてるか?」

「な、何とか…」


 接吻していたのはごく短時間だったが、幾分か精気を吸われたらしい。しかも事前に極寒の川に入っていたのも災いして、歯の根が合わないほど凍えている。恐らく低体温症の初期症状だろう。


「成宮君!」「貴様!」


 想定外のことにリン以外唖然としていたが、綾女は我に返って小川を一足飛びして暁のもとに駆け寄った。同じタイミングで龍はアキに足払いでうつ伏せに倒して上から抑えつけた。ミツは自前の戦斧をアキの首元につけてけん制している。


「な、なんで?」


 暁は戸惑っている。


「何故?アハハッ!お前は面白いことを聞くのねぇ、暁。何故?それはお前が犯人だからに決まっているからよ!私には初めから分かっていた。私と弥七さんとの間を嫉妬深げにねめつけていたお前だからな、犯人だと確信していたわ!ただ、指輪はどうしても返してもらわないと困るから、お前を泳がせていたまでのこと。そして私の目論見通り、お前はようやく私に指輪を返してくれた!だからもう用済みよ!」


 嘘じゃなくても、信じてもらえないこともある。


 特に狂暴化している妖怪は一度自分がそうだと決めてかかったことはなかなか訂正できない。ひたすら自分がこうだと思ったことだけを信じて行動する。


(言ったとおりだっただろう。聞かなかったのはお前の方だからな)


 暁は無防備すぎる。人にせよ妖にせよすぐに信用してしまう。本人は美徳のように言うけれど、人妖警察官としてはその甘さによって手痛いしっぺ返しをくらうこともあるし、最悪命取りになる可能性も十分にありうるのだ。


 リンはアキの執着心を見誤らなかった。虎視眈々と暁を狙っているのを感じ取っていたからこそ、忠告をしていた。その忠告を破り、アキを信用した結果がこれだ。リンが灸を据えるよりもよほど身に染みる、良い教訓になったに違いない。


(とはいえこいつを危険に晒すつもりは毛頭なかったんだ)


 どれほど殺気を湛えていても、拘束され妖力まで封じられた雪女にできることはないとリンも油断していた。せいぜい何か罵詈雑言を浴びせられて暁が傷つくくらいだろうと思っていたのだ。だから接吻は予想外だった。それが妖力さえ必要としない雪女の身体能力の一つだと気付いた時には少し出遅れていたのである。


 つまりリンは今、相当気が立っていた。


(さて、このクソ女をどうしてくれようか)


 リンがアキに近付くために川を飛び越えようとしたその時だった。



 『指輪ヲ 盗ンダノハ ソヤツ デハナイ』



 リンの目の前に突然黒い影が現れた。ちょうど小川の上に浮遊しているそれはアキの方を見ている。


 急に現れた者の正体を見極めようとリンは目を細めた。


(まさか…)


『私ハ コノ山ニ 古クカラ棲ム サトリ ダ』


 アキも驚きを隠せないでいるようだ。


「サトリ?サトリだと?私が棲みついた時にはもういなかったはずよ」

『私ハ 人間ノ信仰ガ 無クナッテ 微睡まどろんデイタ』

微睡まどろみ?」

『山ノ 木々ヤ川ヤ風、土トナッテ ソコニ 息ヅク者タチヲ 見守ッテイタ』


(そうか、ご神体の山と同化して眠りについていたということか)


 サトリの気配が無くなったのではない、サトリが山の気配と混然一体となったために人妖警察官でもサトリの消息が掴めなかったのだ。


 龍もミツもアキを抑えつけたまま、無言で事の推移を見守っている。


『雪女ヨ 我ヲ忘レルホド 怒リ狂ウ 汝ノ気持チハ 分カルガ 犯人ハ ソノ少年 デハナイ』


 サトリは人間の心を読む妖怪だ。そのサトリが暁が犯人ではないと供述している。これにはさしもの雪女も冷静にならざるを得なかったようだ。


「では一体誰が犯人だと言うのだ?」

『私ハサトリ 心ヲ読ムコトシカ デキヌ』


 易者ではないサトリにはこの場にいる者の心しか読めない。しかし逆に言えば今この場には犯人がいないということの確かな証言だった。


「何故、サトリが急に起きたというのだ?そして何故わざわざ我らの前に現れた?」


 ミツがサトリに問うた。


『雪女タチガ コレホド 私ノ山デ 暴レテイタラ 起キルトイウモノ』


 どうやらこの一連の騒動で覚醒したらしい。


『ソシテ』


 サトリがリンの方に向き直る。正確にはリンの後ろの暁を見ているようだった。そしてニヤリとした。少なくともリンにはそう見えた。


『今日 ソヤツガ クレタ 栗大福ガ 大層美味デアッタ』 


(あっ)


 アキ以外の全員が、あの祠での出来事を思い出していた。


(暁が昼に備えていたお菓子か!)


『微睡ミノ中 快イ祈リモ 聞コエテキテ 久シブリニ 懐カシイ 気持チガシタ ダカラ オ礼ガ シタカッタノダ』


 サトリは優しく微笑んでいるように見えた。


 そして何故かリンに近づいてきてそっと耳打ちをしてきた。


『モノノ ツイデニ 教エテヤル 迷エル小狐ヨ 臆スルナ オ前ハ 私ト同ジデ 人間ガ 好キナノダ ソシテ ソノ少年ハ 心優シイ ソレデ 救ワレル者モ イルダロウ』


 心を覗かれてぎくりとした。でもそれなら代わりに聞きたいことがある。


「あなたは人間の信仰が薄れ、力がなくなり眠りについた。薄情な人間を恨んでいないのか?」

『私ハ 人間ニ 助ケラレタ コトガ アルノダ 忘レラレル コトハ 寂シイガ 人間ガ 心温カイ 生キ物デ アルコトヲ 知ッテイル以上 恨ムコトハ デキナイ オ前モ 同ジダロウ 子狐ヨ モウ一度言オウ オ前ハ私ト同ジデ 人間ガ 好キナノダ ドレホド 憎モウトシテモ 恨モウトシテモ 心ノ ドコカデ 既ニ赦シテイル 難儀ダガ ソウイウモノダ 諦メロ』


 リンは現世でトラばさみに引っかかった時に助けてくれた人間の少年のことを思い出していた。


(ああ、だからか)


 すとんと腑に落ちた。


『サラバ』


 サトリはそう言うと皆の前から姿を消した。また山と一体になって眠りについたのだろう。

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