第5話 リンの憂鬱

(ガキの子守なんか受けるんじゃなかった)


 リンはここ何週間かこの後悔で溜息をつきっぱなしだった。


 3月の中旬、幽世にふらりと現れた成宮冬真という人間に「こちらに来て頂けませんか?」と声をかけられ、断るつもりだったにもかかわらず、まぁまぁと半ば強引に居酒屋に連れていかれ、杯を重ねていくうちに自分でも段々訳が分からなくなってきて、あれよあれよという間にいつの間にか契約書にサインさせられていたのだ。


(ペテンもいいところだぜ)


 冬真の話は実に単純明快、自分の弟子であり義理の息子でもある若干18歳の子供がこの度晴れて新米の人妖警察官になるのでバディを組んでほしい。俺のような経験豊富で優秀な狐なら問題ないと。


 ここまでだったらにべもなく断っていたのだが、相手が上手だったのは今リンが置かれている状況や立場をしっかりリサーチをしてきた上で、時には脅迫めいて、また時には甘言でもってその時のリンをその気にさせてしまったのだ。


(でも、要するに親の七光りのボンボンのお守りってことだよな)


 はぁっとリンはまた溜息を吐く。


 確かにこちらの生活は今や針の筵で、仕事を辞めることも真剣に考えていた。いっそ自分のことを誰も知らない世界でしばらく過ごしたいとも思っていた。そんな折の冬真からの熱い誘いで、正直幽世から出られるならと藁にも縋る気持ちだったというのもある。


 しかし、重鎮の息子のお守りはそれはそれでかなりの面倒ごとに巻き込まれたに違いない。


(俺も落ちたものだ)


 このままズルズルと、一体どこまで落ちていくのだろうかとリンはぼんやりと思う。


 夜勤明けの重たい朝。引っ越しのための荷造りをダラダラとしながら、ふと窓を見る。この時期にしては珍しく雨が降ってきた。冷たい雨だ。一時は雪の表面を溶かすが、夜になると冷え込んで、溶けて水になったはずの雪の表面が今度はスケートリンクのようなつるつるの氷になり、足場がぐっと悪くなる。


 リンは普段占いや迷信など不確かなものを信じるタイプではないが、滅入っている時の重く冷たい雨は自分のこれからの人生を写しているようでやはり精神的に堪えた。


(自分のことを誰も知らない世界か。そういえばあの子供は今もどこかで元気にしているだろうか)


 唐突に思い出したのは自分がかつて誤って現世に足を踏み入れてしまった時のことだった。


 あろうことか狐の姿でトラばさみにひっかかっていたところを「エキノコックス持ってないよね?」と恐る恐る助けてくれた現世の子供がいた。「エキノコックスなんか持ってねーよ」と反論しようとしたが、狐の姿だったので結局言葉を交わすこともなく終わった出会いだった。


 何でそんな些細なことを思い出したのだろうとリンは己の思考に訝しんだが、なんてことはない、自分が現世に行ったのはそれが最初で最後だからだ。


 名前も知らない、顔もほとんど覚えていない。今どこにいて何をしているのかさえもちろん分からない。唯一記憶しているのは、変わった数珠を手首にしていたことだ。黒い石に茶金石の勾玉が通っていた。子供にしては随分暗い色の重々しい数珠をつけているなと思ったのと、その勾玉が狐族の身分を表すときに使う勾玉にそっくりだったからやけに記憶に残っているのだ。


(とはいえその子供と運命の再会なんてことはありえないだろう)


 だからやっぱり実質、自分のことを誰も知らない世界に行くのだとリンは己を少し慰めた。正直それが慰めになるのかは自分でも分からない。こちらで起きたことは覆らないし、きっとこれからも自分のことを苛み続けるだろう。もしかしたら現世に行くことは逃げることなのかもしれない。


 それでも、今は時間が欲しかった。少しでも心の傷が癒える時間が。


 まぁ行ってみて駄目だったらその時考えよう、ええいままよと半ば脳死、半ば自暴自棄になってリンは最終的に思考を手放した。

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