<15ー2>
武蔵は、死んだ、と思った。
飛びあがった体は想定の数倍早く推進力を失い、重力に引っ張られ落下していく。隣のビルまでの二メートルの距離は、とてつもなく遠く、感覚的にジャンプが足りないように思えた。
一階分下にある屋上の床面が、ゆっくりと迫ってくる。まるで事故に遭ったときのようなスローモーション映像だ。死を意識して、脳の反応が異常をきたしたのだろうか。
武蔵は空中でバランスを崩し、つんのめるように上体を泳がせる。そのままの姿勢で着地――無事幅跳びを成功させて喜ぶも束の間、ほぼ四つん這いの体勢だったことで四肢に衝撃が伝わり、耐えきれず転がるように横倒しとなって右肩を激しくぶつけた。
興奮状態だったこともあり、衝撃の大きさのわりに痛みはあまり感じなかった。ただ雨とは明らかにちがう、生温かく粘ついた水分が、全身にくまなく噴き出している。対照的に口のなかには、唾液の一滴も残っていない。
「あの野郎、飛びやがった!」
頭上から保塚の声が降ってくる。おそるおそる事務所ビルを見上げると、うすぼんやりとしたシルエットが手すりから身を乗り出している様子が確認できた。夜闇と雨がベールとなって、視界をにごらせる。
保塚のセリフからして、あちらからもよく見えていないことが察せた。スーツの上着をまとった武蔵を、細谷と勘違いしているようだ。鏡子の狙いどおりだ。
無謀な挑戦にいたった理由を思い出し、武蔵は逃走すべく立ち上がった。だが、体が震えてうまく足を踏み出せない。いつから震えていたのか、自分でも認識できないでいる。
「おい、隣だ。隣のビルに飛び移りやがった。いくぞ!」
保塚が号令をかけて、武蔵の見える範囲から姿を消した。おそらく追ってくるつもりだろう。これも鏡子の狙いどおり。
あとは武蔵が逃げきって、囮作戦は成功となる。武蔵は唇を噛みしめて、震えがおさまらぬ体を半ば強引に操った。極端な前傾に上体を持っていき、倒れそうになる勢いを利用して走り出す。倒れまいとする本能が足を一歩、また一歩と前に進める。
最初こそぎこちないものだったが、次第に走りは滑らかになった。屋内に入る頃には、震えも止まり、体は正常に機能しだす。
かつて電気設備会社だった影響か、ビルの内部にはかすかなグリースのにおいがこびりついていた。売り物件だけあって綺麗に清掃されている分、においの違和感を強く感じる。
階段を一気に駆け下り、一階に到着すると、武蔵は目についた窓に寄って内鍵をはずした。音を立てないように注意して、少しずつ窓を開け広げていく。
ビルのガラス張りの入口ドアに、保塚達が詰めかけた。鍵のかかったドアを蹴破ろうと、何度も足を叩きつけている。
この間に窓から脱出すれば逃げられる――そう思った矢先、窓枠に足が引っかかって武蔵は外に転がり出た。自分でも気づかなかったが、屋上に着地した際、足を痛めていたのかもしれない。劣化した路地のへこみに発生した水たまりに、武蔵は顔から落ちた。
ぱちゃんと水しぶきがあがり、小さな音が鳴る。雨のおかげで音が届くことはないと思っていたが、耳ざとく聞きつけた組員のひとりが路地をのぞきこんでいた。
「保塚さん、こっちだ、こっちにいる!」
武蔵は慌てて逃げる。右足首が痛いような気がしたが、意識から追い出して夢中で駆けた。
路地を抜けて表通りに飛び出し、シャッターを下ろした町工場の列に沿って進み、再び路地に入る。この界隈の地図は頭に入っているが、それは他の組員も同じだ、追ってくる気配が消えることはない。永遠に振り切れないのではという不安がじわりと胸の奥に芽生え、焦りが手足をばたつかせた。
武蔵は前方の道路の辻に灯った信号機の赤い明りを目にして、都合よくタクシーが一時停止しているのを見つけた。大きく手を振り駆け寄るが、タッチの差で信号が青に替わりタクシーはいってしまう。
新しい赤を発見したのは、その直後のことだ。ゆっくりと走行するパトカーの赤灯が視界に入ったのだ。
巡回中のパトカーから、ふたりの警官がいぶかしげな目線を送っていた。雨が降りしきるなか、上着だけスーツのちぐはぐな格好で息を切らして走る武蔵は、さぞかし怪しく見えたことだろう。
追われているので速度をゆるめるわけにもいかず、かといって不審に思われるのも厄介なので不自然な態度は慎まなければならない。どっちつかずの気持ちのまま、折衷案として早歩きに移行、形だけでもウォーキングのふりをする。
当然ながら、そんなものは通じない。徐行で近づいてきたパトカーが、武蔵の隣にぴたりと並ぶ。
「お兄さん、何してんの?」
助手席の中年警官が親しげに呼びかけてくる。その顔つきは笑顔であったが、目は笑っていなかった。
「雨、降ってるよ。びしょびしょにじゃないか。そこのひさしのとこで雨宿りしようよ。ちょっと話も聞きたいしさ」
「急いでるんで……」
「まあまあ、そう言わずに。少し話を聞かせてよ」
パトカーから降りた警官は、武蔵の腕を引いて閉店した作業用品店のひさしの下に連れていく。店先に設置されていた自動販売機の、低い駆動音がやけに耳についた。
武蔵はちらりと背後を確認する。見える範囲に保塚達の姿はない。さすがに警官のそばで襲ってくる無謀なまねは、控える理性が残っていたようだ。
「これって、ショクシツだよな?」
「まあ、そう取ってもらってもかまわないよ。よかったら身分証を見せてくれないかい」
一瞬ためらったが、ここで抵抗しても怪しまれるだけだ。武蔵は素直にしたがい、尻のポケットに差した財布から免許証を取り出して渡した。
警官が身元証明を行っている間、武蔵は保塚の動向を警戒しながら、何気なくスーツのポケットに手を差し入れた。すると、こつんと指先が固いものにふれる感触があった。嫌な予感がして、背筋に寒気が走る。指が感じ取ったのは、二つ折りの革製品の手ざわりだ。
警官に見つからないように注意して、おそるおそるポケットの中身を確認する。それは、スーツの持ち主の所持品――細谷の警察手帳だった。武蔵は青ざめ、かすかに身震いする。
「ありがとう、秦くん」そう言って、警官は免許証を返す。「それにしても、奇妙な格好をしているね。ファッションの好みは人それぞれではあるけど、独特すぎて目を引く。一応、所持品を確認させてもらえないかな」
ある程度は予想できた展開だ。武蔵は半歩分後ずさり、拒絶の意思を伝える。
「ショクシツなら任意だろ。い、急いでるんで、今日はやめとく」
「時間は取らないから協力してよ、ねっ」
口調こそ柔らかかったが、警官は対面の圧を強めた。わずかに視線を下ろしただけなのに、まるで逃げ道をふさがれたような緊張感が走る。これがベテラン警官の妙技か。
運転席にいた警官も車を降りて、武蔵の背面にまわる進路で近づいてきた。こちらはまだ若く、武蔵と同年代だろう。未熟さゆえか、緊張にまみれた用心が顔にもれだしている。
「なんだよ、別に悪いことはしてねえぞ」
「そう言わず、協力してよ。すぐにすむからさぁ」
保塚たちから逃げきれたとしても、警察に捕まっては意味がない。武蔵はさりげなく周囲に目を配り、逃げだすタイミングをはかる。
前後を警官にはさまれた状況なので、まずは隙を作らなければならなかった。武蔵は思案し、けっして最善手とは言えないが確実に気をそらせる手段を講じる。危険な賭けだが、うまくいけばヤクザも警察も出し抜けるはずだ。
「こうなったら本当のことを言うけど、俺は名瀬組の組員なんだ」
「はあ?」と、ふたりの警官は同時にすっとんきょうな声をあげた。突然の告白に、理解が追いつかないようで困惑している。
武蔵はたっぷりと間を空けて、つづく言葉を口にする。もったいぶっているわけではなく、即興でセリフを練っているので、どうしても時間が必要だったのだ。
「ヤクザ稼業が嫌になって、ちょうど逃げだしてきたところなんだ。足抜けを許してくれない組員に追われている」
中年警官が目線で指図し、若手を走らせる。交差点の周辺を見てまわった若手警官は、うたがわしげな表情で首を振りながら戻ってきた。
「どこにも、誰もいませんよ」
「そりゃあ警官がいるのに、姿を見せるヤクザはいねえよ。どこかに隠れてるんだろ。だから、あんたらがいるいまなら逃げられると思うんだ、頼むからいかせてくれないか」
ふたりの警官は互いの不信を確認するように、じっくりと顔を見合わせた。さすがに簡単には信じてくれない。
武蔵はもう一押しとばかりに、実在の人物を登場させてでまかせを重ねる。
「あんたらW署の警官だよな。だったら、細谷って刑事のこと知ってるだろ。俺は今回のことで、あの人に相談に乗ってもらってたんだ。俺のことをうたがってるなら、あの人に聞いてみてくれ」
「細谷だと」
中年警官の顔色が変わった。職務質問用に取りつくろっていた穏やかな顔つきが崩れ、敵愾心を含んだ険しい表情に変貌する。
あきらかに様子がおかしい。武蔵は選択をしくじったことを悟る。
はみだし者の警察官だと、細谷が自分で言っていったことを思い出す。職務中の出来事とはいえ、殺人をおかした話も聞いた。警察内で孤立しているであろうことは、少し考えればわかったことだ。目の前の警官の態度を見るに、孤立の上をいく敵視に近い感情を抱いているようにも感じる。
「あいつが、いまどこにいるのか知ってるのか?」
「えっと、やっぱり嘘。細谷は関係ない、適当に言っただけで……」
いまさら遅いとわかっていても、ごまかさずにはいられない。もちろん通用しないことは重々承知だ。
「細谷が関わってるなら、ますます話を聞かんといかんな。どうだ、署のほうでゆっくりしていくか。そこまではヤクザも追ってこないぞ」
「どうしようかな、その、やめとこうかな」
武蔵は視線を泳がせて、曖昧な返事をする。もうどうしたらいいものか、よくわからなくなっていた。
とりあえず、大きく一息ついて心を落ち着かせる。できることは、結局ひとつしかない。
「じゃあ、警察署まで乗せていってもらおうかな」
若手警官が先まわりして、運転席に戻った。中年警官が後部席のドアを開けて、パトカーに誘導する。
武蔵はおとなしく乗りこみ、奥の席に身をずらし、そのまま反対側のドアを押し開けて降車した。後部座席を素通りした形だ。虚を突かれて、警官たちは反応が遅れる。
「お、おい、待ちなさい!」
制止の声を振りきり、武蔵は再び夜の街を駆けだした。
急発進するパトカーのエンジン音を耳にし、慌てて車の入れないせまい路地に飛びこむ。これで追ってはこれないが、逃げきれたわけではないだろう。路地の抜け道を先まわりしてくるかもしれないし、応援を呼んで人員を配備することも考えられる。あきらめるとは思えない、それは保塚たちにも同じことが言えた。
息をひそめて隠れていた保塚たちも、追いかけてくるはずだ。結果としてヤクザだけでなく、警察からも追われる身となってしまった。事態は最悪だ。
後悔の念が絶え間なく押しよせるが、武蔵は一旦頭を空っぽにして走るつづける。武蔵にできることは、もはや死ぬ気で逃げることしかないのだから。
misfit はみだし者たち 丸田信 @se075612
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