<14ー1>

 目が覚めると、真っ先にサイドテーブルに置いたスマホを手に取り、時刻を確認しようとしたが、画面は真っ暗――電源を切っていたことを思い出す。

 頭部を少し上げて部屋を見まわすと、壁かけ時計が目に入った。時刻は午前十時を少しまわったところ、床についたのは深夜十二時頃なので、思いのほかしっかりと眠れたようだ。


 細谷はあくびをしながら起き上がり、窓辺に寄って街を見下ろした。あいにく天気は曇り、対面にそびえたビルの影も重なって周辺はスモークを焚かれたようにほの暗く、幹線道路に沿って列をなすイチョウ並木の青葉がくすんだ色に塗り替えられていた。どこか物憂い空気が漂う景観であるが、細谷にとって物珍しい新鮮な景観でもある。


 普段暮らしている自宅の安アパートからでは、絶対に目にすることのできない高層の光景だ。

 昨夜は家に戻らず、ビジネスホテルに宿泊した。警察に町中でカーチェイスを行った張本人であると発覚した場合を想定して、監察対象となるであろう自宅への帰宅をさけたのだ。同様の理由で警察署に戻らず、スマホの電源も切っておいた。

 もし奇跡的に、まだ細谷の所業と露見していなかったとしても、職務放棄にくわえて連絡拒否だ、処罰はまぬがれない。覚悟を決める段階にきていた。


「気が重いなぁ……」


 通信手段であり情報収集ツールでもあるスマホを、いつまでも切っておくわけにはいかなかった。細谷はおそるおそる電源を入れて、着信を確認する。

 案の定、刑事課長からの受信履歴がずらりと並び、メッセンジャーアプリには辻からの伝言が延々とつづいていた。げんなりして、ため息がこぼれる。警察ではどのような状況になっているのか知りたくて、思いきって連絡してみようかとも考えたが、まだ足がつく行動は控えたいという思惑が働き、いまは断念。もう少し静観することにした。


 しかし、見逃すわけにはいかない相手がひとりいる。履歴のなかに、刑事課長に埋もれてムサシの名前があったのだ。電話がかかってきたのは、昨夜の十時七分となっていた。ちょうど細谷がビジネスホテルの狭い風呂で、疲れだ体を癒していた時間帯だ。ひとまず連絡を取ってみることにした。


「もしもし――」


 ワンコール目でムサシは電話に出た。若干強張った声が、スマホ越しに伝わる。


「俺だ、細谷だ。昨夜電話をかけてきたよな、用件はなんだ」

「車を処分してくれる解体屋が見つかった。どこにもバレないように、何ひとつ証拠は残さないそうだ。なるべく早いほうがいいと思って、昨日電話したんだ」

「それ、本当に信用できるのか?」

「兄貴分の保塚さんに教えてもらったところだ。問題はないと思う」


 ヤクザならば、その手の業者に精通していても不思議ではない。ただヤクザだから、信用ならないという気持ちもあった。

 細谷は逡巡し、返答をためらう。もはや迷っている場合ではない、飛びこむしか道はないとわかっていても、先の見えない恐怖心から逃れることはできない。


「車は、どうやって持っていくんだ。そのままってわけにはいかないだろ、レッカーで引っ張っていくにしてもそれなりに目立つしな」

「えっ、レッカーって……」


 そのあたりの手段については考えていなかったらしく、武蔵はスマホの向う側で声を詰まらせた。


「まあ、それは追々考えるとして、とりあえず昨日のつぶれた会社のとこで落ちあおう。そうだな、昼の十二時頃……いや、一時にしようか、その時間にこれるか?」

「あ、まあ、大丈夫だと思う」

「じゃあ、後でな」と、細谷は約束を交わして電話を切った。


 一時まではまだ余裕はあったが、チェックアウトの時間はすぐだ。手早く出発の準備を整えて、スーツに袖を通す。

 朝食代わりにコーヒー一杯と煙草一本を口にし、ひっそりとホテルを出る。曇り空ということもあって、昨日よりは若干気温が低く、肌にふれる空気がじわりと湿っていた。そのうち、ひと雨きそうな天気だ。


 危惧していた警察の緊急配備がなされている気配はなく、町はいたって平穏そのもの。歩道では保育園の園児たちが、保育士に連れられてのんびり散歩中である。物々しい警察官の姿はどこにもない。


 細谷はタクシーをつかまえて、運転手に行き先を告げる。念のために直接出向くことはせず、最寄りのパチンコ屋を指定して、到着すると一旦パチンコ屋に入店して裏口から抜け出した。


「さて、どうしたものか」


 人気のないわき道に潜りこんで目的地に向かうさなか――細谷はタクシーの車中にいるときから思案していた、ある手立てを実行すべきか迷っていた。実行するなら、協力者が必要になる。

 前日無理やり登録させられた、電話番号があった。登録者名は三森鏡子、できることなら関わりたくない少女だが、事情を知る彼女が適任である。


 どうすべき考えているうちに、住宅街からつながる会社の裏口フェンスが見えてきた。細谷はひとまず、決断を先延ばしにする。

 周囲を確認してから侵入。フェンスの網目につるを絡ませたナツヅタが目隠しになって、うまい具合に外部と遮断されている。よほど騒がないかぎり見つかることはないだろう。


 時刻はまだ十二時前、約束の時間まで一時間以上余裕があった。細谷は真っ先に地下駐車場に隠した愛車を見にいき、異変はないかチェックする。注意深く観察したが、他の人間がふれた形跡はなかった。


 次に行ったのは、敷地内の調査だ。打ち捨てられた建物内を見てまわり、誰も入りこんでいないことを確かめる。

 スーツのポケットのなかでスマホが鳴ったのは、十二時をすぎてニ十分ほど経った頃だ。武蔵からの連絡だった。


「細谷さん、いまどこにいる?」

「もう到着してるぞ。いまは敷地を探検中だ。邪魔者がまぎれこんでないか確認しとかないとな」

「なあ、そこに三森はいないよな」

「ああ、いない。今日くらいは学校にいってるんじゃないか、さすがに」

「わかった。なら、もう少しで着くから昨日別れた鉄門のところで会おう」

「建物の中のほうがいいんじゃないか。見つからないとは思うが、道路に近すぎる」


 武蔵はしばらく沈黙し、返事をなかなか返してこなかった。同調するように無言で待ちつづける細谷は、建物内のだだっ広い部屋で手頃な鉄パイプを発見して手に取る。握りやすい、ちょうどいい太さだ。

 元は金属加工会社だったので、おそらくここは作業場として使われていたのだろう。鉄パイプはその名残りか。


「他の場所だとわかりにくいから、やっぱり鉄門のとこにしてくれ」

「まあ、いいけど」


 電話を終えると、細谷はさっそく鉄門に向かう。鉄パイプを手にしたまま。

 まるで学校帰りに傘を振りまわして遊ぶ子供のように、意味なく素振りをしたりもしたが、鉄パイプの重量が次第に腕を疲弊させていき、最後には面倒になって放り捨てた。ひび割れたアスファルトに鉄パイプが転がり、渇いた金属音が敷地内に響く。


 予想外の反響にドキリとしたが、ひとしきり待っても、これといった反応はなかった。この程度の物音なら、住宅地にまで届くことはないのかもしれない。金属加工会社だったことを考慮すると、ある程度の騒音は緩和できる構造になっているのだろうか。


 やがて鉄門が視界に入り、細谷は足運びを心持ち抑える。慎重に周囲を見まわすが、まだ武蔵は到着していなかった。

 背後でコツンと足音が鳴ったのは、三分ほどたった頃。そろりと首をまわした先に、待ち人の姿はなかった。代わりにそこにいたのは、一番会いたくなかった人物だ。


 ぎゅっと心臓をつかまれたような緊張感で身が縮み、無意識に喉を鳴らして唾を飲みこむ。ためらいない銃撃が放たれ、背にした鉄扉に火花が散った。

 熊耳だ。前日の負傷の跡は痣として残っているものの、平然とした様子で銃を構えている。どんなトリックを使ったのか、身体の不調は感じられない。


「鉄パイプ、置いてくるんじゃなかった!」


 銃を相手取って鉄パイプ一本は心もとないが、無策の無手よりはよほどいい。最低でも武器を意識させれば、相応に立ち回れるというものだ。

 とにかく、いまは遮蔽物のない場所で突っ立っていては危うい。細谷は全速力で朽ちた警備小屋の裏に飛びこみ、転がりながら身を隠した。一瞬遅れて銃声が響き、またも鉄門に銃弾が跳ねる。


 警備小屋の材質はうすい金属板を張り合わせたもので、銃弾を受けたなら簡単に貫通することだろう。盾とするには頼りないが、幸か不幸か熊耳は射撃があまり得意ではないらしい、狙いどおりに当たらないとすれば判断を惑わせる効果はあるはずだ。


 細谷は周囲に視線を這わせて、警備小屋から鉄門までのルートを確認する。正面に熊耳がいる以上、逃げ道はひとつしかない。

 だが、タイミングを見計らっていると、壁の向う側の道路を駆ける車の駆動音が轟き、鉄門の前で急停止するブレーキ音が聞こえた。前日細谷たちがそうしたように、車がぴったりと鉄門に横づけされたのだ。


 パトランプもサイレンもなかったので、巡回していた警察車両というわけではないだろう。車を降りる複数人の気配はするが、中に入ってくる様子はない。息をひそめて状況をうかがっているといった雰囲気だった。


「くそっ、そうきたか。逃がす気はないってわけだな」


 警察でないなら、相手側の正体はひとつしかない。細谷は不安視していた予想が当たっていたことを確信する。

 ――武蔵が裏切った。

 ずっと引っかかっていたことだ。なぜ熊耳に居場所が知られているのか。その所在を知らせているのが細谷でも鏡子でもないとすれば、必然的に犯人は武蔵しかいない。この場所で会うことを伝えたのは武蔵だけ、もはやうたがう余地はなかった。

 細谷はため息をついて、強張っていた肩の力を抜く。煙草を吸いたかったが、状況が状況だけに、さすがにやめておいた。


「わかった、俺の負けだ。抵抗はしないから撃つんじゃないぞ。いまから出ていく」


 熊耳に呼びかけて、そっと警備小屋の影から様子をうかがう。熊耳は銃を下ろして、煙草に火をつけていた。口から吐き出される煙が、少しうらやましい。

 両手を上げ、反意がないことを示して進み出る。熊耳も煙草をくわえたまま歩み寄ってきた。間近で見た熊耳は大きく、そして思っていた以上に老けて感じた。顔に刻まれた切り傷の跡と皺が一体化して、より一層老いが強調されている。


「もうギブアップか?」

「さすがに、ちょっと無理そうだ。命あっての物種って言うだろ」

「そうか――」と、熊耳は煙草を吐き捨てると同時に、いきなり強烈な平手打ちを放った。


 まともに食らった細谷は、天地がひっくり返ったようにぐるんと視界が揺れて、地面に叩きつけられた。頭がくらくらして、耳鳴りが治まらない。

 さらに容赦ない踏みつけが腹をえぐり、顔面を石のような拳で打ちつけられる。痛みと吐き気と意識の混濁が同時に訪れ、そのどれもが弱まることなく体中で反響していた。吹き出した鼻血が喉に絡まり、息苦しさに咳きこんで体をくの字に折る。


「おい、やめろ。殺すなって言われてるだろ!」


 何者かが熊耳に組みつき止めてくれなければ、もっと悲惨な状況になったことは間違いない。どうにか身をよじって距離を取り、恩人の顔を見る。


「宗田の……息子か」


 熊耳は背負い投げの要領で軽々と投げつけ、倒れた相手の胸に膝を当てて体重を乗せることで動きを封じた。そこに、拳が降ってくる。

 血飛沫が舞うなか、目と目があった。


「ムサシ!」


 熊耳は銃を突きつける。武蔵の額に銃口を押しつけて、まるで頭蓋骨を砕こうとしているかのように捻じこんでいく。いくら銃の扱いが不得手であっても、密着した状態ならはずしようがない。

 殺意にさらされた武蔵の顔は、いびつに強張り、小さく収縮した瞳孔が不規則に震えていた。死の恐怖によって変容した表情は、どこか幼い子供の泣き顔のようだった。


「親の代わりに子供を殺すってか。復讐としちゃ、ずいぶんとダセェな、くそヤクザ」


 ゆるりと熊耳の視線が、隣にずれる。まっすぐ向けていた敵意をともなって。

 細谷は内心怯みながらも、表層に恐怖が浮きあがらないように苦心して、あえて笑ってみせた。少なくとも笑ったつもりだ。


「親がどんなにクズだろうと、ガキに罪はない。まったくの無関係だ。誰に何を言われたのか知らないが、戸代一家で若頭にまでなった男が、無関係のガキを弾いて満足できるのか。あんたが銃を向けなきゃいけない相手は、別にいるんじゃないのか」

「たとえば、うっとうしい刑事とか?」


 今度は銃が細谷に向く。武蔵から銃口を引き剥がすことには成功したが、状況は悪いほうに転がった。

 細谷は青ざめて縮みあがる。どっと溢れた汗が全身を濡らし、シャツだけでなくスーツにまでくすんだ染みを作った。


「や、やめろ!」と、息も絶え絶えに武蔵が叫んだ。

「そうだ、やめろ、まだ殺すんじゃない」


 そこに別の声がくわわる。やけに粘っこい声だった。

 どこからあらわれたのか、口ひげをたくわえた男が若い衆を引き連れて近づいてくる。趣味の悪い派手なスーツで、何者であるかすぐに察した。いまどき珍しい、わかりやすいヤクザファッションだ。


「保塚さん……」


 武蔵が安堵のこもった声をもらす。その安堵に、細谷も同調していいものかは微妙なところだ。


「状況が変わって、その刑事も生かして捕まえるって言ったでしょ。熊耳さん、勘弁してくださいよ」

「俺も言ったよな、好きにやらせてもらうってよ」

「いま、そいつを殺しちまったら、もう好きにできなくなりますよ。そこで契約は終わる」


 しばらくにらみあいがつづき、一旦熊耳が折れた。銃口を細谷からはずし、無造作に作業服のポケットに拳銃を押しこむ。

 保塚は満足そうに笑みを浮かべ、その下卑た表情を隠すように口ひげをこすった。


「こいつに当てるはずだった一発、まわりまわってそのきたねぇ面に当たらなきゃいいがな」

「おっかない駆け引きはよしましょうや。昔はともかく、いまは同じ目的を持った仲間なんだ。仲良くしましょう」


 フンと鼻を鳴らし、熊耳は立ち上がった。腹いせにか、武蔵の腹部を乱暴に踏みつけて離れていく。


 何はともあれ、命びろいした。

「それじゃあ行くとするか、刑事さん。あんたに聞きたいことがある」

 ほんの少し寿命が伸びただけかもしれないが。

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