<13>
重野愛歌は趣味と呼べるようなものが何もなかった。唯一長年つづけているのは、どうぶつのキャラクターと島を開拓するテレビゲーム。子供の頃からシリーズが出るたびに買って、ちまちまと遊びつづけているが、他のゲームにまったく興味がないのでゲームを趣味と明言したことは一度もない。
だから、趣味をたずねられると言葉に詰まる。契約しているキャバクラのホームページで、キャストのプロフィールに趣味の欄があるのだが、店長に何と記入するか聞かれたとき、迷った末に映画鑑賞と答えた。劇場で映画を見ることは、ほとんどないというのに。
ひとつくらい人に言える趣味を持ちたいと思っているが、あれこれ悩んでいるうちに結局面倒になって、今日もいつものゲームをはじめる。
愛歌はコントローラーを手に取って、テレビ画面で動きまわるキャラクターを操作した。どうぶつの住人に挨拶してまわり、島に生えている雑草をこまめに抜いてまわり、商店に入荷した新しい商品をチェックする。毎日繰り返されるゲームのなかの日常に、どうして飽きないのかと武蔵は不思議がっていたが、そう言われてもこれが楽しいのだから飽きることはない。
ゲームのなかの日常は、いつだって楽しかった。現実逃避で遊んでいるわけではないが、ゲームの世界に浸っていると嫌な現実を忘れられる事実は否定できない。
そんな嫌なこともたくさんある現実にふと戻ったのは、あぐらをかいた足の上で丸まっていた黒猫のクロードが、ふいに顔を上げて「ニャア」と鳴いたことがきっかけだった。ちょうど画面のなかでは、畑からカブを引っこ抜いていたときだ。
直後にインターホンが鳴る。立てつづけに何度も。
困惑しながらドアモニターを確認すると、そこには武蔵が映しだされていた。合鍵を忘れたのだろうかと首をかしげながら、鍵をはずしてドアを開ける。
「何も聞くな」
奇妙な第一声を口にして、武蔵は部屋に押し入ってきた。
つづいて、「おじゃましまーす」と見知らぬ女の子が部屋に入ってくる。最低限の遠慮もなく、まったく臆する様子もない図々しい態度だった。世界の中心は自分だと信じてうたがわない幼子のような、無邪気な身勝手を全身にまとっている。
あまりに突然の出来事に、愛歌は呆然として反応することもできなかった。
「あ、猫ちゃんだ。おいでおいで――」
彼女は黒猫を見つけて手を振るが、まるで怪物にでも遭遇したかのようにクロードは身をひるがえして逃げ出した。
「あー、逃げた。わたしって、どういうわけか動物に嫌われるんだよね。いつもさわらしてくれない」
「だろうな」と、武蔵は冷めた口調で返す。
愛歌は武蔵の腕を引いて、寝室に連れ出す。ベッドの隅でクロードが、背をまるめた警戒姿勢を取っていた。
「あの子、なんなの?!」
「だから、聞くなって言ったろ。ちょっとの間、置いてやってくれよ。そのうち帰らせる」
「……ひょっとして、お仕事関係?」
武蔵は動揺を双眸によぎらせたあと、「いいや、ちがう」と、ベッドに腰を下ろして静かに言った。
一概に信じられる言動ではなかったが、疲弊をにじませた表情を前にすると追及する気持ちはうすれていく。愛歌は隣に座り、呆れの混じりのため息をもらす。そのため息は、武蔵に向けたものか愛歌自身に向けたものか、自分でもよくわからなかった。
「新しい女ができたから、わたしに見せびらかしにきたんじゃなければ、まあいいや」
「それはない。あのガキだけは願いさげだ。厄介事の塊みたいな女だからな」
その人物評が間違いでないことは、すぐに判明する。居間に戻ると、ゲームの途中だったというのに彼女は勝手にテレビに切り替えて、堂々とチャンネルをザッピングしていた。ゲーム機を強制終了していない分まだ助かったが、せめて家主に一言断るべきだろう。
しかも、「喉渇いたから、お水もらったよ」その手にはミネラルウォーターのペットボトルを持っていた。はじめて会った人の家で、断りなしに冷蔵庫をあさって平然としていられる神経をうたがう。
「ニュースやってないね」
「そりゃあ、まだ早いだろ……」
武蔵の様子をうかがう視線を、愛歌は後頭部に感じた。ふたりの会話から、やはり何かしらトラブルを抱えていることを察知する。それもニュースになるような事柄となれば、かなりの大事にちがいない。ヤクザという職業柄、危険をはらんだ状況を連想した。
緊張で喉が渇いた。少女のペットボトルを奪い取りたい気持ちになったが、自制して水道水をグラスで飲み干した。
「そうだ、ネットなら!」
言うが早いか少女はスマホを取り出して、さっそくニュース検索をはじめる。ほぼ同時に、武蔵もスマホを取り出しており、画面を険しい顔でにらんでから、ふいとその場を離れていった。
愛歌は不審に思い、武蔵の行き先を目で追う。
「ネットニュースにも、まだなってないな。SNSのほうではちょっと騒ぎになってるけど、くわしい話は出てないみたい――って、あれ、ムサシくんは?」
「トイレにいった」
「ふーん、そう」と、少女はさして気にすることもなく、ソファにどっかり身を沈めた。深く腰かけたせいで浮いた足を、ぷらぷらと揺らすさまは子供のようだが、ブルーライトに照らされた顔は気難しいおとなびた表情を作っている。
少女は何度もタップとスライドを繰り返し、スマホのなかの情報を掘り返す。
「おかしいな。昨日のスナックの件もニュースになってない。情報統制されてるなんてことは、さすがにないよなぁ」
独りごちて、空を仰ぐように背をそらす。天井に何を見ているのか、不満そうなふくれっ面をしていた。若さみなぎる張りのあるツルンとした肌が、愛歌は少しねたましい。
「おい、三森」
トイレから戻った武蔵が声をかける。水洗の音はまったく聞こえなかった。
「俺は先に出る。お前はもうちょっとここで時間をつぶして、頃合いをみて帰れ」
「もう行くの、まだ早いんじゃない?」
「俺は大丈夫、気にするな。まったく問題ない」
早口で言い聞かす不自然な態度に、少女は何か言いたそうにしていたが、結局口にすることはなかった。一瞬わき起こった反発の気配が、瞬く間にしぼんでいく。
吐き出そうとした言葉を飲み込み。「うん、わかった」と、彼女は言った。
武蔵は満足そうにうなずき、そそくさと玄関に向かう。愛歌は追いかけて、靴を履いている背中に声をかけた。
「ちょっと、あの子置いていくの?」
「頼むよ。しばらくの間だから我慢してくれ。面倒な奴だけど、悪さはしないと思う」
使いこまれたスニーカーに足を通した武蔵は、細く整えた眉を下げた情けない表情を浮かべていた。困り顔ともちがう、懇願する子犬のような顔つきだ。
愛歌はため息をつく。この顔で頼まれると、嫌とは言えない。
「いつか、ちゃんと説明してよ」
「そうだな、いつか……」
武蔵はひとり納得したふうにつぶやき、足を踏み出す。しかし、二歩目を踏み出す前にくるりと振り返り、出し抜けに愛歌の体を両手で包みこんだ。突然抱きしめられて、困惑が吹きあがる。押しつけられた胸板から、なぜか吸わないはずの煙草のにおいがした。
「ど、どうしたの?」
「なんとなく。なんとなく、だ。たまには、抱きしめたいときもある」
惜しみながら体を離した武蔵は、やはり情けない顔をしていた。照れ笑いを重ねても、下を向いた眉のラインに変化はない。
言い知れぬ不安が胸に渦巻く。まるで体を通して、武蔵の不安が伝播したかのようだ。
愛歌は、足早に去っていく武蔵を見送り、姿が見えなくなってからもしばらく玄関先に立ち尽くしていた。部屋に戻ろうと思えたのは、ふと目に入った少女の靴を意識してだ。まだ部屋には、身元不明の少女がいる。
彼女はスマホでの情報収集を諦めたのか、いまはテレビを見ていた。なぜか教育テレビの、英会話番組の再放送にチャンネルをあわせている。
テレビスピーカーから流れる流ちょうな英語を聞きながら、「おねえさんとムサシくんって、長いの?」と、何気なくたずねてきた。
何に対して長いと形容しているのか、曖昧な質問だった。知り合ってからの年月、もしくは関係を持つようになってからの年月――あるいは、その両方を混ぜあわせたニュアンス優先の質問であるのか。
「小学校の頃に知り合ったから長いと言えば長いけど、中学で離れて再会したのは二年前だから、短いとも言えるかな」
「へえ、そうなんだ」
聞いてきたわりに、あまり興味はなさそうだった。
軽く苛立ちはしたが、無理もないと思う。男女の関係は、どこまでいっても当人たちの問題だ。そこをのぞき見したいと思うのは、下卑た好奇心でしかない。
「子供の頃はクラスでも目立たないほうだったのに、再会したらヤクザになってたからびっくりした」
武蔵と同じクラスだったのは、小学校三年生と四年生のときの二学年だ。当時の武蔵は口数も少なくおとなしくて、クラスメイトとしての印象はほとんどない。それでも記憶に残っていたのは、三年生の頃の宿題で自分の名前の由来を調べるというものがあり、そのときの発表をなぜか鮮明におぼえていたからだ。
「父さんがつよい男になるように、ミヤモトムサシから名前をとって武蔵になりました」
頬を赤く染めて、照れくさそうに発表する男の子の姿が、いまも脳裏に刻まれている。
中学高校と恵まれていたとは口が裂けても言えない青春時代を送った愛歌は、友人関係にも親子関係にも恋人との関係にも嫌気が差し、卒業と同時に家を飛び出して、誰も自分を知る者のいない新しい環境で――W市で暮らしていくことを決めた。当初は昼間の仕事で食いつないでいたが、より条件のいい職場を求めていくうちに夜の世界に足を踏み入れるようになった。
好きでもない酒をすすめられるまま口にし、媚びた笑顔を無理に作り、時には客と一夜をともにすることもある世界だ。通帳の預金残高は目に見えて増えていったが、精神はそれ以上に早いスピードですり減っていくの実感していた。
少しゆとりがほしいとノルマのきつかった最初の店から、いまの比較的ゆるい店に移籍。金銭面ではマイナスであったが、気持ちの面ではかなり楽になった。
そんなときだ、武蔵と再会したのは。
先輩ヤクザと店に訪れた武蔵に、愛歌は最初気づかなかった。精悍な顔つきに成長した姿に、かつての地味な丸顔だった男の子の姿は重ならなかった。先輩に「ムサシ」と呼ばれていても、小学校の同級生と結びつくことはなかった。
だが、武蔵のほうはちがったようだ。先輩がトイレに立った隙を見て、こそっと「ひょっとして、重野?」と声をかけてきた。困惑する愛歌に向けた、武蔵のはにかんだ顔に、名前の由来を発表する男の子の面影があった。
再会を果たしてから、ふたりは急速に親しくなっていく。ただ肉体関係を結ぶまでは、少し遠まわりしたような気もする。
武蔵がヤクザであること、親が犯罪者であったこと――それまでの人生で積み重ねてきた罪科や不幸を、愛歌にふれさせるのをためらっていた節がある。結局は我慢できず互いに求めあうことになるのだが、この頃からいまも、根本的な心情は変わっていないように思えた。肝心なところで、傷つけまいという想いが武蔵に線を引かせる。
武蔵は、愛歌に感謝していると言う。ヤクザになって精神的にまいっているとき、支えになってくれた、と。同じことが愛歌にも言えたが、いつだって武蔵は一方的にしか受け取らない。自分のほうが支えられ助けられている、と。
だから、何も言ってくれない。今日のように。
「ムサシは、駄目な男なんだ」
ぽつりとこぼれた言葉は、会話としてつながっていなかったが、少女が気にする様子はなかった。相変わらず興味がなさそうだ。
彼女はふいに腰を折って、頭の位置を不自然に低くした。目線を追うと、おそるおそる部屋の様子をうかがう黒猫のクロードがいた。天井を指した尻尾が、風に揺れるアンテナのようにゆらゆらしている。
「おいで」と、少女が手を差し出すと、クロードはまた逃げた。「うーん、なんでだろ。悪いことしてないよね、わたし……」
ソファの背もたれに寄りかかり、少女は唇を尖らせて嘆く。そして、脈絡なく思いがけないことを言った。
「ムサシくん、ヤクザ向いてないと思うよ」
いきなりのことで一瞬言葉に詰まるが、ひと呼吸置いて愛歌は穏やかな口調で返した。
「うん、知ってる」
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