<12ー2>

「ちょっと様子を見てくる」


 そう言って、細谷はシートベルトをはずして席を立つ。ドアのヒンジが歪んでしまったのか、何度もつっかえて出入りできる隙間を空けるのに、思いのほか苦労していた。


「ムサシ、念のためにいつでも出れるように準備しといてくれ」


 体をひねりながらどうにか車を降りた細谷は、助手席に声をかける。武蔵は飛び散った吸い殻を払いながら、腰を折った姿勢のまま運転席に移った。


「待って、わたしも行く」


 後部席のドアを蹴り開けた鏡子を、細谷は冷めた視線で見下ろす。何か言いたげに口を開くが、声となる前に別の要因によって言葉を飲みこむことになった。

 サイレンだ。遠くで警察車両のサイレンが、複数台分重ね合わせた音を響かせている。あれだけ派手にカーチェイスすれば、通報されて当然だ。驚きはしなかったが、やはり焦りはあった。

 細谷は舌打ちを鳴らし、熊耳の元へ急いだ。その背中にぴったりとひっつくようにして、鏡子も後につづく。


 路地からわずかに顔を出して、慎重に丁字路を見通すと、コンクリート塀に衝突して止まった黒いバンが目に入った。分厚いコンクリート塀は庭つきの家屋がのぞくほど半壊しており、その衝撃のすさまじさを教えてくる。


 バンの車体は中ほどでよじれ、フロントガラスは粉々に砕けて散乱していたが、それでも頑強なフレームによって運転席はかろうじて原形をとどめていた。エアバッグに顔を埋めて倒れる熊耳も、人の形をとどめている。たいした安全性能だ。


 細谷は、「よし!」と気合いを入れて、用心しながら近づいていく。

「もういいんじゃない。とどめを刺す必要はないと思うけどな」

「物騒なガキだな、殺してどうする。誰に命じられたか聞き出すんだよ。警察がくる前に、それだけはやっておかないと」

「あの状態でしゃべれるかな?」


 話せる話せないの前に、生きているかどうかもわからない。命を狙ってきた危険な相手ではあるが、凄惨な事故現場を目の当たりにすると、他の感情を押しのけて心配が先立つ。


 だが、そんな鏡子の同情心をはねつけるように、熊耳はよろよろと上体を起こして血まみれの顔でにらみつけてきた。見るからにボロボロの手負いであるのに、その眼光のするどさはまったくおとろえていない。胸にわいた心配は、すぐさま消し飛んだ。


「やってくれたな、クソガキが……」


 熊耳は嗚咽するように憎悪を吐き出す。口の端から粘ついた赤い血がこぼれ、そこには白いものが混じっていた。折れた歯だろうか。


「ねえ、クソガキって、わたしのことじゃないよね?」


 小さな声で一応たずねる。

 細谷は陰気臭い顔を向けて、心底うっとうしそうに舌打ちを鳴らした。チッという音、そして、つづけざまにパンという渇いた音が耳元を通りすぎていった。


 鏡子も細谷も血相を変えて、慌てふためきながら音の出どころをたどる。

 運転席から這い出してきた熊耳の手のなかで、拳銃が鈍い光を放っていた。かすかな硝煙のにおいが、ゆるやかな風に乗って鼻先に届いた。

 熊耳は喉がふさがれたような荒い息をつき、立っているのもやっとの状態で、しかも手は震えて銃口がさだまっていなかった。つつけば簡単に倒れそうな重症――でも、指先に力さえ入れば、たやすく立場は逆転する。


「ぼーっとしてんな!」


 細谷に腕をつかまれるのと同時に、二発目の銃声が頬をかすめた。鏡子はひきずられて路地に押しやられる。


「おい、何があったんだ!」


 運転席から武蔵の切羽詰まった声が聞こえる。細谷は一瞬迷った素振りを見せたが、しかめっ面で舌打ちを鳴らし、鏡子を連れて車に駆けこんだ。


「しかたない、いくぞ。時間を食って、警察に見つかったら言い訳できない。ムサシ、出発させろ」

「わ、わかった」と、武蔵はキーを回してエンジンをかけた。ギアを一速に入れて、アクセルを踏む。

 弾むような振動が車体に伝わり、次の瞬間、エンジンが止まった。エンストだ。


「うわ、あれっ、おかしいな」

「こんなときに何やってんだ、バカ。急げ急げ!」

「ふ、普段オートマにしか乗らないから……」


 武蔵は再スタート、今度はうまく発進できた。ただ緊急時だというのに、やけに慎重な遅々とした進みだ。


「熊耳がくる、もっとスピード上げろよ!」

「いや、またエンストしそうで、ちょっと――」


 武蔵がもたついている間に、脅威は背後に迫っていた。銃声が響き、リアガラスが砕け散る。光彩を含んだ細かな破片が、車内に降りかかってきた。


 鏡子は「キャア!」と悲鳴をあげ、頭を抱えて身を伏せる。その状態のまま車がスピードを上げたので、体勢を維持できず後部座席の狭い足場に転がりこんでしまった。床下にはまったことで、正常とは思えないいびつなエンジン音を直に感じた。


「私道を抜けたら左に曲がって、突き当りまで直進しろ。川沿いの道に合流するから、そこを北上していけば身を隠せる場所がある」


 テキパキと指示を出す細谷の声を聞きながら、鏡子は体をよじって座席に這い上がった。おそるおそる後ろをのぞいてみると、熊耳の姿はもう見えなくなっていた。

 ひとまず逃げきれたようだ。心の底からわき起こった安堵の息を、ゆるんだ口から空っぽになるまで吐き出す。


「置いてきちゃったけど、あの人、他の人を襲ったりしないかな?」

「それは大丈夫だろ。あんなんでも名の通ったヤクザだったらしいからな、無関係の人間を傷つけるような馬鹿なまねはしないと思う。たぶん……」


 どうも頼りない見解を口にして、細谷はポケットをまさぐり出した。目当てのものが見つからないのか、しばらくスーツのポケットを探っていた手が、胸ポケットやズボンのポケットを叩いていく。おそらく運転中に落としてしまったのだろう。ようやく見つけた場所は、運転席の足下だった。

 武蔵が邪魔そうにするのもお構いなしで、無遠慮に手を差し入れてクラッチの下から煙草の紙箱をつかみ取った。珍しく陰気臭い顔に笑顔を咲かせて、うれしそうに煙草をくわえる。


「厄介なのは、熊耳が警察に捕まった場合だ。あいつに、俺たちのことをしゃべられたら、それで全部水の泡。仲良くムショ行きが決定する。まあ、時間の問題だろうけどな」

「時間の問題って?」

「警察は無能じゃない。多少手こずったとしても、いずれ暴走してた車の特定はされる。そうなったら俺はおしまいだ。さすがに言い訳しようがない」

「じゃあ、宝石探しは中止にするのか?」


 そう言った武蔵の顔は、少なからず安堵が混じっているように見えた。


「バカいえ、ただ働きでムショ行きなんてやってられるか。警察がたどり着く前に、なんとしても宝石を見つけ出す。三億あったら、何年かくらったとしてもうまみはある」


 鏡子は座席の間から身を乗り出して、細谷をのぞきこんだ。視線を受けて、まだ火をつけていない煙草がひょこっと動いた。


「三等分だから、ひとり一億だよ」

「一億……一億かぁ。割りにあってんだかあってないんだか……」


 細谷はうなるようにつぶやき、だれた態度で煙草に火をつけた。車はいたるところにひずみができて、リアガラスにいたっては完全に割れてしまっている。おかげで煙が車内にとどまることはなく、流れるように車外に吐き出されていった。


「ムサシ、そこに鉄の門が見えるだろ。そこに横づけしてくれ。当たってもいいから、ギリギリのところまで近づけるんだ」

「当たってもって――」


 戸惑いながらも武蔵は歩道に乗り上げ、言われたとおりの場所で、ぴったりと車を停止させた。金属板でがっちりと囲った鉄門に、右のミラーが少しこすれる。

 細谷は周囲を確認してから車を降り、手早く屋根に乗って閉じた鉄門を飛び越えた。予期せぬ行動に、思わず鏡子と武蔵は顔を見合わせる。


 ほどなくして、細谷はスライドさせて鉄門を開ける。内側に門を固定する金具があったようだ。レールにはまった車輪が錆びついているらしく、顔を真っ赤にして汗をかきかき懸命に押し開いていった。

 車が入れるだけの隙間を確保すると、肩で息をしながら手を振って合図を送る。武蔵はゆっくりと車を進入させて、門を閉じる細谷の手伝いにいった。


 車を降りた鏡子は、この不思議な場所をぐるりと見まわす。おそらくは使われなくなった古い会社だろう。人の気配はまったくない。

 門のそばには朽ちかけの小屋があり、それは車両の出入りをチェックする警備小屋であろうことはすぐに察せた。どこからか舞いこんだ枯れ葉が目につく車道の動線に沿って、ゆっくり顔を巡らせていくと、車をつけて運搬業務を行う建物が見えた。荷台に寄せたでっぱりが特徴的な積み下ろし場の奥は、がらんどうの空間が広がっており、なぜか唯一放置されていた古いグラビアポスターが場違いな水着姿をさらしている。


 この建物の他にも、鏡子の見える範囲で奥に二つ社屋があった。見えない場所も含めると、かなりの敷地面積になりそうだ。


「俺が交番勤務だった頃、社長がやらかしてつぶれた会社だ。まだ取り壊されてなくて助かった。ここなら車を隠しておける」


 近辺は吹きさらしで、あまり車の隠し場所に適しているように思えなかったが、「地下駐車場がある」と、奥の社屋を指差して細谷が言った。それなら安心だ。

 細谷は物憂げに愛車に目をやり、その歪んだボディに軽く手を這わせる。


「それにしても……ボロボロだな。もう廃車にするしかないか。ムサシ、うまいこと処理してくれる解体屋を知らないか?」

「さあ、俺は知らない」


 ふいに警察車両のサイレンが聞こえ、三者ともに動きを止めて息を呑んだ。緊張のなかサイレンは次第に大きくなっていくが、やがて遠くに離れていく。どこか近くを通っていっただけのようだ。サイレンが完全に聞こえなくなったところで、鏡子はようやく肩から力を抜いた。

 この場所にいつまでもとどまっているのは、少々危険に思えた。同様のことを細谷も感じたのか、眉間にしわを寄せた困り顔で武蔵を見る。


「なあ、ここらでしばらくかくまってもらえる場所はないか?」

「そんなこと言われても……」困惑を浮かべた武蔵は視線をさまよわせた末に、「あっ」と小さく声をあげた。「少し行ったところに、知り合いの家がある。でも、こんなことには関わらせたくはない。あいつを巻き込みたくないんだ」


「警察の出入りが落ち着くまでの間、お前らが身を隠すだけだ。折を見て家に帰ればいいし、バレたとしてもこれくらいで罪にはならない。巻き込みたくないなら、よけいなことを話さないことだ」


 なかなか納得できる要求ではなかったようだが、最後にはしぶしぶ武蔵は応じてくれた。細谷はほっと息をつき、そのままの流れで一服をはじめる。煙草の煙で居場所が見つかってしまわないか、ハラハラした。


「細谷さんはいっしょにこないの?」

「俺は車が見つかったときのために、身元がバレそうなものを片づけておく。お前らはとっとと行け。この建物の裏に人用の出入り口があるから、そっちを通れば楽に県道に出れる。職質に気をつけろよ」

「うん、わかった。細谷さんも気をつけて」


 細谷の言ったとおり、建物の裏にはネットフェンスに取りつけられた小さな扉があった。南京錠がかかっていたが、武蔵が何度か蹴りつけると簡単に留め具がはずれた。経年劣化していたのだろう。

 扉を抜けると、用水路の上に細いコンクリート製の橋がかかっていて、住宅街につながっていた。周囲を確認したところ、警察官の姿も近隣住人の姿もない。ひとまず安堵し、先を行く武蔵を追いかける。


「ねえ、ムサシくん。いまから行くところって誰の家? もしかして、ムサシくんのカノジョ?」


 武蔵は一瞬びくりと肩を震わせ、しばらく黙りこんでいたが、やがてぼそりと言った。


「ただの知り合いだ」


 そのは、県道沿いの駅近くに建つ中層マンションに住んでいた。

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