<12ー1>

 鼓膜を震わす発砲音が、場違いな日常風景のなかで鳴り響く。時間にすれば、ほんの一瞬――だが、鏡子の体感ではたっぷりと数秒の間を空けて、車体にかすかな衝撃が伝わり、金属がひしゃげる不快な音を耳にした。

 細谷はアクセルを踏みこみ、赤信号を無視して急発進する。危うく右折車に接触しそうになったが、間一髪でさけて、左右に大きくハンドルを切って交差点を通り抜けた。


「おい、撃たれたりしてねぇだろうな!」


 少しかすれた叫び声で、安全確認。バックミラーに映った細谷の顔は、血の気が引いて強張っていた。


「俺は平気だ」

「わたしも、ピンピンしてる。どこに当たったんだろ?」

「そんなもん、人に当たってないならどこでもいい!」、


 細谷は先程までのノロノロ運転が嘘のように、前方車両を強引に追い越して猛スピードで走る。おそるおそる後ろを見てみると、熊耳がハンドルを握る黒いバンも、同様にスピードを上げて追ってきていた。

 車のどこかしらに銃弾が当たったのは確かだが、走行に支障が出るような致命的な損壊は負っていないようだ。安堵できる状況ではないが、最悪の事態はまぬがれた。


 細谷は力いっぱいぐるりとハンドルをまわし、後輪をすべらせながら片道一車線の左折路に無理やり突っこむ。

 急激なカーブに小柄な鏡子は振りまわされて、激しく窓枠に頭をぶつけた。出血したのではとうたがうほど痛かったが、それよりも興奮が上回り、不安に思う気持ちにはならなかった。感情のタガがはずれて、痛みよりも興奮、そして興奮よりも愉悦にかたむいている。無意識に頬がゆるみ、いびつな笑みを浮かべた顔がドアのガラスに映っていた。


「あいつは、なんなんだ。ターミネーターかよ!」


 細谷が苛立たしげに、よくわからない皮肉を言った。ジェネレーションギャップが起こした気まずい空気が、車内に沈黙を落とす。


「あれ、知らないのか? シュワルツェネッガーの代表作だぞ」


 なおもターミネーターを引っ張る細谷を、武蔵の叫び声がさえぎる。


「後ろ、くるぞ!」


 バンに追突されて、車体が一瞬浮き上がった。弾むような振動によって、フレームがきしみ悲鳴をあげた。

 細谷はトップギアにシフトチェンジし、アクセルを限界まで踏みこむが、どうしてもバンを引き離せない。軽自動車の小さなエンジンでは、振り切ることはできそうになかった。


 しかも、ここはレース場じゃない、街中の往来だ。スピードを上げるにしても限度がある。おかまいなしの熊耳とは、条件が同じというわけではない。それでも、無茶をしなければ追いつかれて……場合によっては殺されるかもしれなかった。


 細谷は舌打ちを鳴らしながら、赤信号を無視して交差点を突っ切った。当然バンも追走してくる。

 二台の暴走車に通行を邪魔された車のクラクションが、はるか後方から聞こえた。同時に、再び追突されて、軽自動車は右に左に小刻みによれた。


 さらに熊耳は臆することなく対向車線に進入して、側面から車をぶつけてくる。衝撃でタイヤがかしぎ、歩道を分かつ防護柵に、車体がこすれて火花が散った。弾け飛んだ左のミラーが、道路に転がり爆発したように砕ける。

 対向車がいなかったからよかったものの、一歩間違えば大事故になっていた。やぶれかぶれの蛮勇を前に、こちらは打つ手がない。


「舐めんなよ、クソヤクザ。こちとら元は交機志望だ!」


 細谷は咆えて、スピードを維持したまま一方通行の細い路地に突入した。曲がり切れず民家のブロック塀に衝突したが、どうにか制御に成功する。その代償として、車内はしっちゃかめっちゃかになっていたが。

 熊耳のバンも突入。同じようにブロック塀に衝突し、そのまま薙ぎ倒しながら追いかけてくる。損害を受けた住宅は災難だが、通行人がいなかったのは幸運だった。


 軽自動車とバンの追いかけっこは、いくつもの道を経由して再び大通りに戻ってきた。双方ともにあちこちぶつけてボロボロだ。熊耳の黒いバンは、他の車との接触もいとわない分、なおさら激しく損傷している。


「細谷さん、これどこに向かってるの。何か当てはあるの?」

「任せとけ、ちゃんと考えてる。それより、あんまりしゃべんな、舌かむぞ」


 目的もなく、でたらめに逃げまわっているものだとばかり思っていったが、細谷は何か考えがあるらしい。強がりでなければの話だが。


 ハンドルを切って、通りから住宅街の路地に進入する。床下から、ガリガリと金属が引っかかる不吉な音が伝わってきた。いよいよ本格的に、足回りが不調を訴えだしている。ハンドルを切るたびに、不自然な挙動で車体が揺れた。

 車の損耗具合も深刻だが、選んだ道も適切とは思えないものがあった。そこは一般家屋が軒を連ねる普通の住宅地だ。いつ人が飛び出してくるかもわからない地域を、猛スピードで駆け抜けている。

 ふと視界に入った標識を見て、鏡子はギョッとした。


「ほ、細谷さん、ここ通学路って書いてあったよ!」

「知ってる。交番勤務時代、このあたりは巡回ルートだったからよくおぼえてる。この時間帯に子供はいない、住人もほとんど通ったりしないから心配するな」


 そう言われても、通学路の文字を見てしまった以上、どうしても神経質になる。鏡子は運転席のヘッドレストにしがみついて、フロントガラス越しに歩行者が存在しないか注視した。

 高速で流れる風景のなか、徐行の標識も児童飛び出し注意の看板も瞬く間に後方へ吹き飛んでいく。


「おい、熊耳はちゃんとついてきてるか?」


 いつの間にかバックミラーの角度がずれて、運転席から後方確認できなくなっていた。代わりに武蔵が振り返り、細谷の目となる。


「まだ後ろにぴったりくっついてる」

「よし、それならいける。お前ら、どこでもいいから衝撃に備えてつかまっとけ」

「えっ、何する気なの?!」


 鏡子の質問に、細谷は答えなかった。無言でアクセル踏みこみ、ハンドルを微妙に調整して心持ち道路の右側に寄る。

 前方には道路の突き当りが見えていた。頑丈そうなコンクリート塀が正面に立ちふさがり、左右に道が分かれた丁字路となっている。


 さすがに鏡子も笑ってはいられない。顔も喉も、全身のあらゆる部位が、くるんと弧を描き跳ねたくせっ毛までもが、ひきつったような感覚に襲われる。

 細谷は一切スピードをゆるめず、丁字路に突進した。


「おいおいおいおい、待て待て待て待て!」と、武蔵は悲鳴に近い叫び声をあげる。


 鏡子は声を出すこともできず、ただ身を縮こまらせて、シートベルトをきつく握りしめていた。

 眼前に迫ったコンクリート塀に激突――のはずが、するりとすり抜けたように細い路地に入りこんでいた。何が起こったのか、頭が追いつかない。


 現実的に物質のすり抜けなど、あり得るわけがなかった。細谷は激突の直前に、壁面からわずかに左にずれたところにあった細い路地に車を滑りこませたのだ。正面からは丁字路にしか見えないが、実際はいびつな十字路だったということになる。


 初見では、見分けることは難しい。そうなると、初見の熊耳は運転を誤る。一心不乱に追いかけている状態ならば、なおさら回避しようがないだろう。


 耳が痛むほどの激しい激突音が響き、砕けたコンクリート片が飛び散った。その衝撃の甚大さをあらわすように、振動の波が鏡子にも伝わってくる。ガソリン臭を含んだ黒い煙が、逃げるように一本の筋となって空に昇っていく。

 ブレーキを踏み抜いて車を停止させた細谷は、疲れ切った顔で安堵の息をつく。


「ここは隣の山形さんちの私道なんだ。カーナビにも表示されない、地元の人間しか知らない道だ。一杯食わせるには、ここしかないと思ってた」


 ずれたバックミラーを元の位置に戻して、細谷は鏡越しに熊耳が追ってこないことを確認する。


「さすがに、これであの怪物も……いや、ターミネーターもおしまいだろう」


 細谷は、まだターミネーターを引っ張っていた。

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