<8ー1>

 その男は、背が高かった。扉に頭がつっかえそうなほどの長身だ。

 ゆっくりとスナックに踏み入り、固まって動けない三人を見渡す。なんてことのない動作であるのに、鏡子は威圧感をおぼえて身じろぎする。


 男は何気なく身にまとった作業服の上着ポケットに手を差し入れた。このときになってようやく、男の左頬に切り傷があることに気づく。彼が発する迫力の何割かは、その傷が起因しているように思えた。


「あ、あんた誰だ?」


 刺激しないように細心の注意を払った声で、細谷がたずねた。ほとんど表情の変わらない陰気臭い顔に、若干の焦りが混じっている。


「……こういうもんだ」と、男がはぼそりと言った。その意味を知るのは、ポケットにしまい込んだ手が細谷の顔に向けられたときだ、

 ギクリとして喉が鳴る。男の手には黒い塊がおさまっていた。

 拳銃だ。映画やドラマの影響でオートマチックのピストルということは判別できるが、鏡子の浅い知識では種類まではわからない。


 反射的に細谷が叫ぶ。「逃げろ!」同時に、耳をつんざく破裂音が室内に反響する。

 細谷の背後の壁が砕け、細かな破片が飛び散った。まったくのちゅうちょなく、男は引き金を引いて発砲したのだ。


 恐怖で足がわななき、体の自由が利かない。それなのに、どういうわけか倒れることもへたり込むこともなかった。危険にさらされているというのに、呆然と突っ立ったままの状態を崩せない。


「何やってんだ、バカ!」


 細谷が飛びつき、鏡子を引き倒す。二発目の発砲音が響くが、どこに着弾したのか、鏡子には確認できなかった。

 乱暴に引っ張られ、這いずりながらカウンターの裏に逃げ込む。心臓がバクバクと早鐘を打ち、頭が沸騰しそうなほど熱くなっている。だが、不思議なもので硬化していた体は解き放たれ、ぎこちなくではあるが動けるようになっていた。二発程度の銃撃で慣れるわけもないので、恐怖が限界値を突き抜けて変なスイッチが入った状態なのかもしれない。鏡子の顔にはうっすらと笑みが咲いていた。


「くそっ、何がどうなってんだ。あの男はなんなんだ」


 口から唾の泡を飛ばしながら、細谷が苛立たしげにぼやく。顔つきに微妙なひきつりは見て取れるが、状況判断は鏡子よりもはるかに早い。さすが訓練を受けた警察官だと思った。


「わ、わたし、銃で撃たれたのはじめて」

「俺だって、はじめてだ」

「ねえ、あの人、わたしたちを狙ってるっぽいけど、どうしたらいい?」

「とりあえず……」と、考えがまとまらないうちに声を押し出したので、つづく言葉が出てこない。細谷はわずかに上体をそらし、顔向きの角度を修正した。


 その視線を追って、意図を察する。ボトルを並べたガラス棚に、男の姿が映り込んでいた。武蔵はボックス席のソファーの影に隠れて、様子をうかがっているようだ。

 男は標的が二手にわかれたことで、狙いをさだめられないでいる。もしくは、誰ひとり逃がさないという意思が、その場にとどまらせているのかもしれない。


「とりあえず、俺が隙を作るからお前は武蔵を連れて逃げろ」

「隙って、どうやって?」

「これで」と、細谷はカウンター下にあったビールケースから瓶を二本抜き取った。片方は空瓶、もう片方は中身入りだ。


 細谷は目線で合図を送ると、瓶を壁に投げつけた。破裂音と共に瓶が砕け散り、泡を吹いたビールがぶちまけられる。同時に、カウンターを乗り越えて、細谷は空き瓶で殴りかかった。

 最初の投擲に注意が向いて虚を突かれた男は、瓶の一撃をまともに食らう。飴色の破片が弾け、日差しを帯びた光の粒子がきらきらと踊るように瞬く。


 細谷はつづけざまに殴りつけて、男の作業着に組みついた。まずは拳銃を奪い取ろうと、右腕につかみかかる。

 しかし、男は冷静に対処。接近した細谷の腹に膝蹴り、左拳でわき腹をかちあげる。ビール瓶の奇襲による優位性はあっさりとくつがえされ、一転して攻守は入れ替わった。


 頭突きを受けて、細谷がのけぞる。負けじと拳を振るうが、顔面を叩きつけられても男は意に介さない。反撃の張り手が側頭部に命中した。

 細谷はふらつきながらも、歯を食いしばり距離を保つ。少しでも離れれば、拳銃の標的にされるという危機感からだろう。


「うわ、やばっ……」


 体格面で劣っているとはいえ、細谷のほうが若く、しかも現役警察官である。鏡子は組みつけば細谷が有利と踏んでいたのだが、相手のほうが一枚上手だ。それは格闘術のような技術的な問題ではなく、純粋に肉体の性能差であることが素人目にもわかった。加齢による身体機能の低下を考慮すると信じがたい結果だ、ドーピングの使用をうたがいさえした。


 逃げろと言われていたが、これでは逃げられそうにない。そうなると、鏡子がやることは一つだ。

 ガシャンと音を立て、瓶が砕けた。もみあうふたりの、すぐそばで。

 何事が起きたのかと、ギョッとした細谷と男は一瞬争いの手を止め、砕けた瓶の残骸に目を向ける。


「あれ、はずれた。次こそは!」


 鏡子は二本目を投じた。細谷の援護に、ビール瓶を投げたのだ。近づくのは怖いので、これが鏡子にできる精一杯の助太刀だった。


「うがっ」と、悶絶の声。

 今度の瓶は、命中――ただし、当たったのは細谷の背中だった。

「てめぇ、よけいなことすんな、クソガキ!」


 細谷が思わず文句を吐く。そのわずかな隙を突いて、男は足を絡めて押し倒した。

 受け身も取れず背中を激しく打ちつけた細谷は、苦しげに表情をゆがめるが、痛みに悶えている暇はない。男は銃を眼前に突きつけていた。

 反射的に細谷は身をよじり頭をそらす。直後に発砲。床材に銃弾の跡が刻まれた。


「うぎゃぁ、細谷さん、早く逃げて逃げて!」


 素っ頓狂な声をあげ、手振りをまじえて鏡子は騒ぐ。

 男は今度こそ確実にしとめようと、細谷の喉を大きな手で押さえつけた。細谷は必死にもがくがびくともしない。苦しまぎれに振り回した手が、作業服の胸ポケットを叩き、煙草の紙箱を弾き飛ばす。

 構えた銃が、細谷の額に添えられる。絶望が陰気臭い顔を強張らせた。


「いい加減にしろ、この野郎!」


 不意打ちの一撃が、男の横っ面を叩いた。武蔵が店のスツールで、力いっぱい殴りつけたのだ。丸い座面が衝撃でくるくる回る。

 男の額が切れて、どろりとした血が顔半分を赤く染めていた。さすがにダメージを受けたようで、わずかによろめき、細谷の喉から手がはがれる。


「よくやった、ムサシくん、えらい!」


 すかさず細谷は折り曲げた足で男を押しのけ、這いずって脱出。それを武蔵が手伝う。

 男はじろりとにらみつける。「お前が武蔵か」そして、ためらいなく発砲。


 だが、標準をうまくつけられなかったようで、硝煙をまとった弾丸は明後日の方角に飛んでいった。いったい誰を狙ったのか、この銃火からは判別できない。どちらにしても、まだ危機が去ったとは言い難い状況だ。


 このピンチを脱するには、鏡子が行動するほかなかった。三度目の正直――三本目のビール瓶を投げつける。

 ようやく、うまくいった。ビール瓶は男の顎に命中し、飛沫をあげながら砕け散った。


「さあ、早く逃げよう!」


 三人は這う這うの体でスナックを飛び出し、路地を駆け抜ける。息が切れて肺が張り裂けそうになったが、踏み出す足を緩めようとは一度も思わなかった。

 いまは、ただ逃げることだけを考える。


 ふと目に入った中華料理店の黒いスモークフイルムを貼ったガラス張りの窓に、懸命に走る姿が映っていた。

 恐ろしいのに、苦しいのに、うろたえているのに、なぜか笑っている自分に鏡子は気づく。けっして気がふれたわけではない。もう認めないわけにはいかないだろう。この状況を鏡子は楽しいと思っている。恐ろしいのに、苦しいのに、うろたえているのに、楽しくてしかたがない。


 人生に意味を見出せなくなった鏡子が、この瞬間、心の底から享楽に酔いしれていた。

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