<8ー2>

 車になだれ込み、席に着くやいなや急発進する。

 細谷の取り乱しながら切るハンドルは危なっかしく、蛇行してガードレールに側面を少しこすった。車体が大きく揺れ、反動でセンターラインをはみ出すほど極端に曲がる。幸いにも対向車がいなかったので無事だったが、死因が交通事故になるところだった。父子そろって交通事故死は洒落にならない。


 飲み屋街を抜けて大通りに差しかかる頃には多少落ち着いてはきたが、それでも安全運転だった行きとはちがい、法定速度を越えた猛スピードで軽自動車は走る。前方につたない運転をする車があれば、細谷はヒステリックに何度もクラクションを鳴らした。初心者マークつきだろうが高齢者マークつきだろうが、お構いなしに。


「細谷さん、もう大丈夫じゃないかな。追ってきてる様子はないよ」

「ああ、わかってる」と言いながらも、アクセルを緩めることはなかった。


 残像の尾をひく車窓を流れる景色にゆったりとした変化があらわれたのは、しばらくしてからのこと。細谷の意思でブレーキにふれる回数が増えたのではなく、渋滞という現実的な理由でスピードを落とす必要があったからだ。事故があったらしく、車線を規制するパトカーの赤灯が遠くに見える。


 細谷は舌打ちを鳴らし、方向指示器を雑に出して、目先にあったコンビニの駐車場に乗り入れた。コンビニは角地にあり、駐車場を通り抜けると一方通行の路地にショートカットできる。

 だが、同じように考える運転手が他にもいて、中途半端な位置でもたつく車が二台詰まっていた。その後方につくと、切り返しに必要な空き間をつぶしてよけい状況が悪くなる。


「くそっ、へたくそが……」


 悪態をついた細谷は、しかたなく駐車スペースに車をつけた。ひとまずエンジンを切り、苛立ちをこめたため息をつく。


「わたし、飲み物買ってくる」


 助手席を出た鏡子はコンビニ店内に向かう。武蔵も無言で後につづく。

 買い物を終えて戻ってくると、くわえ煙草の細谷がガードレールにぶつかった側面を屈み込んで確認していた。フロントドアの中ほどがべっこりとへこんでおり、塗装も剥げている。苦虫をかみ潰したような顔で、細谷は肩を落として落胆する。


「細谷さん、はい、お水」

「ん、ああ……」


 買ってきたミネラルウォーターのペットボトルを渡すと、細谷はキャップをはずして勢いよく喉に流し込んだ。一瞬顔をしかめたあと、もう一度口に含み、うがいをして吐き出す。地面を濡らす小さな水たまりに、ほんの少し赤いものが混じっていた。


「口のなか切ったの? 病院行く?」

「大丈夫だ。これくらい――」細谷は会話の途中でミネラルウォーターに口をつけ、飲み下してから告げた。「ほっときゃ、そのうち治る。どうってことない」


 さらに細谷は手のひらに水を垂らして、軽く顔を洗う。そして、空になったペットボトルを鏡子に押しつけた。


「あー、わたしの分、残しといてよ。全部あげるとは言ってないのに!」

「お前、金持ちなんだからみみっちいこと言うなよ」

「うわ、失礼な言い分。がんばってからサービスしたのに、おごって損した」

「まったく、水くらいでぐちぐち言うな」


 悪びれない細谷に苛立ち、鏡子は地団太を踏む。その姿を見て、もう一人の同伴者が鼻で笑った。

 コンビニから戻ってきた武蔵は、コーヒーの紙カップを手にしていた。ためらいがちに口をつけて、ずずっと少量吸い取り、熱かったのか眉間にしわを寄せる。猫舌なのだろう。


「あんまり騒ぐと目立つぞ。もう追ってこないとは思うが、念のために、注目されるようなまねはやめておこう」


 今度は慎重に息を吹きかけて、武蔵はコーヒーをすする。そのカップを持つ手が微妙に震えているのを、鏡子は気づいた。おそらく細谷も気づいていたとは思うが、見て見ぬふりをすると決めたようだ。


「ムサシ、さっきは助かった。ありがとう」

「わたしには?」と、お礼の言葉を催促するが、完全に無視された。

「一応……手を組んだわけだし、助けるのは当然だろ。別に礼はいらない」

「わたしは、してほしいけど?」

「しかし、あいつは何者なんだ。ムサシ、知ってるか?」


「いや、さっぱりわからない。襲ってきたってことは、あいつも宝石を狙ってるんだろうか。それにしても、いきなり銃を撃ってくるとは、いくらなんでも異常だ。あんなイカれた奴がライバルってことになると、この先、相当苦労するぞ」


 細谷はうんざりした様子で舌打ちを鳴らし、ポケットから煙草の紙箱を取り出した。紙箱を軽く振って、見事に一本フィルター部を突き出した煙草をつまむ。

 そこで、ふいに動きが止まった。少し呆けたような表情で紙箱を見ていた細谷は、手にした煙草を耳にはさみ、紙箱に張りついていた折りたたまれた紙切れをはがした。


「もしかしたら、あいつが何者かわかるかもしれないぞ」


 乱闘時に浴びたビールの水分で湿った紙切れを、破れないように慎重に広げる。

 鏡子がのぞき込むと、そこには癖の強い文字で電話番号が書かれていた。

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