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 酒臭い息を吐いて布団から這い出した川田次郎は、壁にかかったカレンダーに目をやり、今日の曜日を確認する。

 週四日通っている警備会社の仕事は、深夜当番の日だ。それをわかっていたので昨夜は深酒におぼれたわけだが、目覚めるとカレンダーを確認する癖がついていた。


 肌着の上からかゆみが走る腹をかき、テレビのリモコンに手を伸ばして電源ボタンを押す。昼前の時間帯はくだらない番組ばかりで、ニュースと通販番組と韓国ドラマをザッピングし、最終的に健康食品を紹介する通販番組に固定した。まったく面白みのない番組だが、他とちがって無害であるのがいい。


「腹が減ったな」と、独りごち、壁に手をついて起き上がる。腰痛持ちの川田は、支えがなければ立ち上がるのも一苦労だ。来年大台の還暦を迎える年齢が、体の節々に影響を与えていた。


 まだ気持ちは若いつもりだ。髪は白くなったが、顔立ちに老いが浸透するのは食い止めている自負はある。髪を染めれば、見栄えはだいぶよくなるはずだ。親が自分の年代だった頃とは、比較にならないほど生気に満ちていると思う。

 だが、確実に肉体はおとろえていた。息はすぐ切れるし、疲労が抜けにくくなった。かつての力自慢も、弱体化がいちじるしい。もはや裸眼では新聞を読めやしない。

 同年代のなかでは若いほう――そう思って自分をなぐさめているが、それもいずれ限度がくるだろう。


「まったく、年は取りたくないもんだ」


 川田はしっかりとした声で、ひとり言をつづける。妻と別れて一〇年以上たち、孤独であることが日常となってから、どういうわけかひとり言が増えていった。音と声のない生活がもたらす虚無感から、自衛しようという心の働きだろうか。

 テレビの音量を上げて、健康食品の製造法を語るナレーターの声を耳に届けた。内容は頭に入ってこないが、声が聞こえるだけで妙な安心感があった。


 川田は台所で鍋に湯を沸かし、インスタントの袋麺を投入する。具材は入れず、素っ気ない麺だけのラーメンを作った。

 昨夜の酒盛りの名残りが居座ったちゃぶ台に、鍋敷きとして先週の競馬新聞を広げ、鍋のままインスタントラーメンを食べる。


「塩もいいけど、やっぱり味噌だな」


 馴れ親しんだ味に舌鼓を打ち、半分ほど食べ終えたところで、ふいに電話が鳴った。

 着信相手は未登録。仕事関係以外の電話がかかってくることのない川田は、いぶかしみながら応対し、声を聞いて口元をゆるめた。


「もしもし、川田か。細谷だ、聞きたいことがある」

「これはこれは細谷刑事。連絡をくれてうれしいよ。連絡をくれたってことは――」

「別に、お前の話に乗ったわけじゃないが」そう前置きして、細谷はためらいがちに言った。「宗田の足跡をたどっていたとき、おかしな奴に襲われた」

「ほう、そいつは聞き捨てならないな。特徴はおぼえているか?」

「のっぽの、頬に傷のある男だ。銃を持っていて、容赦なく撃ってくる危ない奴だった」


 考えるまでもなく、すぐに誰であったか察した。宗田の件の関係者で、特徴が一致する人物はひとりしかいない。

 川田は無意識に鼻の穴をふくらませる。緊迫感がじわりと、鼻孔を通って腹の底に落ちていくような感覚をおぼえる。


「それは、熊耳幸之助だな」

「熊耳って、つぶれた戸代一家の若頭だった奴か?!」

「ああ、間違いない。武闘派で売ってたヤクザで、腕っぷしも強いが狂暴なことでも有名な危険な奴だと聞いてる。あいつ、出所してたんだな」


 警察時代に、熊耳の噂は数えきれないほど聞いている。ほとんどが尾ひれのついた現実味のない武勇伝のたぐいであったが、実際に対峙する暴力団対策班の警戒具合を考慮すると、危険な存在であったことはうたがいようがない。

 その熊耳に襲撃されたという事実は、川田のなかにある種の期待を抱かせる。いくら熊耳が頭のネジが飛んだ人間であったとしても、理由もなく銃を振りまわして襲うようなまねはしないだろう。理由があるとするなら、細谷の「宗田の足跡をたどっていた」との言葉が関連する事情であると推察できる。


 すなわち、熊耳も宝石を探していたということ。それは、宝石の実在性を確信できるだけの材料になる。

 川田は興奮して、拳を強く握り込んだ。安心感を求めてつけたテレビの音声がいまはわずらわしくなって、リモコンの電源ボタンを押しつぶすようにして消す。


「なあ、まさかとは思うが、おっさんが呼びつけたりしてないよな。あんなふうに遭遇して襲われるのは、作為的なものを感じる」

「それはありえないだろ。俺は、お前さんがどこにいたのかも知らないんだ。そもそも宝石探しに動いてるのも知らなかった、細谷が連絡してくれなかったからな」

「だよな。そうなったら……」


 細谷の声が急激に細くなり、聞き取れないほど小さくなって消える。


「もしかして、誰か心当たりがあるのか?」

「いや、心当たりというか、なんと言うか。ちょっと気になる奴はいる。おっさんは、警察の佐久間って男を知らないか」


 名字だけを告げられても、瞬時に頭に浮かぶ人物はいなかった。警察時代の記憶を思い返し、鼻を鳴らしながら必死に考える――その結果、ひとりの男の存在が脳裏をかすめた。


「佐久間って、ひょっとして佐久間大善のことか?」

「ああ、そいつだ。そいつが、おっさんのことを警戒していた。接触してくることも読んでいたぞ」

「そんな馬鹿な。俺はあいつと話したこともない。出世欲の強いガツガツした男だと評判を聞いたことはあるが、同じ署に配属されたこともないし、何かの会合でちらりと見かけたことがある程度で接点はないんだぞ」

「それなら、どういうことなんだ。佐久間が警戒していたのは、お前じゃないのか?」


 川田が警察官だった頃、宗田の件を他の誰かにしゃべったことは一度もない。佐久間が宗田と関わっているという話も聞いたことがなかった。本当に、何一つ接点がない状態だ。

 だが、いまになって思い返すと、一つ不可解なことがある。


 宗田について個人的に調べていた時期、周囲の警官から不明瞭な圧力を感じることがあった。言葉や態度の端々に、川田への非難が混じるようになったのだ。元から鼻つまみ者であり、宗田が要因とは思わなかったので、その関連性を結びつけることはなかったが、宗田の調査を開始してから責められるようになったと記憶している。


 圧力は婉曲的なものばかりであったが、小さなものでも積み重なり、いたたまれなくなって早期退職にいたったのは確かだ。それが、佐久間の関与であったとするなら――いや、実際にあったのだろう。そうでなければ、宗田を調べていた川田を、佐久間が警戒することはない――思わぬ形で怨敵を見つけたことになる。

 川田は血走った目を見開き、ちゃぶ台に拳を振り下ろす。鍋が大きな音を立て弾み、ラーメンの滴が激しく飛び散った。


「なんだ、何かあったのか?」

「なんでもない、気にするな。それより、佐久間は、いまどうしてる?」

「どう……って言われても、えらそうにふんぞり返ってるよ。本部の捜査一課次席だ」

「捜査一課だと! そりゃあ、ざまぁねえな!」


 川田は腹の底からわき上がった笑いに身を震わせ、白と黒を混ぜ返すように髪をかき乱した。


「おい、それってどういう意味――」

「いいか、よく聞け」細谷の言葉をさえぎり、川田はまくし立てる。胸に灯った昂ぶりをおさえられない。「熊耳がひとりで行動しているとは考えられない。仲間か協力者がいるのは間違いないだろう。ただ、それが佐久間とはかぎらないと思う。他に熊耳に手を貸しそうな奴がいないか探ってくれ」

「ちょっと待て、俺がそれをやるのか?」

「捜査は警察の仕事だろ。まかせたぞ、細谷刑事」


 返事は舌打ち。言葉以上に苛立ちが伝わり、不満に染まった陰気臭い顔を思い浮かべて川田はほくそ笑む。


「細谷、わかってると思うが抜け駆けはなしだぞ。お前さんが裏で動いていることを、俺は知っている。その意味はわかるな」

「勝手に言ってろ。安全な場所で待ってるだけの奴に、くれてやるもんはねえよ」


 細谷が一方的に電話を切ったことで、交信は終了。静けさが部屋に戻ってくる。

 川田は腰を気遣いながら起き上がり、窓辺に寄って外の様子を確認した。川田が暮らすアパートの部屋は、日の当たらない西向きで始終薄暗い。薄手のカーテン越しに前の通りに目を配り、異変がないかチェックした。


「さすがに、俺に監視はついてないか」


 ひとまず安堵するも、すぐに思い直す。佐久間は油断ならない男だ、警戒を怠ってはならない。

 すっかり冷めてしまったラーメンを流し台に放り投げ、今後の展望を考える。細谷は分け前をくれる気はないようだが、もちろんそうはいかない。絞り取れる材料は、すでにそろっているのだ。


「さあ、早く見つけろ。そっから先は俺の領分だ」


 強請ゆすりには馴れていた。警察官だった頃から、何度も繰り返した手際はいまもおとろえていない自信がある。


「ケンさん、あんたで取りはぐれた分、ここで回収させてもらうぜ」


 いまは亡き友人であり金づるだった男を思い出し、川田は鼻の穴をふくらませて舌なめずをりした。

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