<7ー2>
「あっ、起きたみたいだよ」
辛気臭い男の後ろから、ひょっこり顔をのぞかせた少女が声をあげた。男は面倒そうに少女を払いのけて、煙草を携帯灰皿に押しこむ。
武蔵は朦朧としたまま、ぼんやりとふたりの顔を交互に見る。
少女のほうは、三森鏡子だ。もう一方、男のほうはまだ判然としない。顔におぼえはあるのだが、意識がぼやけて思い出せなかった。
とにかく起き上がろうと思い立ち、地べたに手をつこうとしたが――背面にまわった手は、わずかな可動範囲でしか動かせない。ガチャガチャと金属がこすれる音と、手首に感じる冷たい感触、腕が固定されていることを認識した途端に、急激に頭が冴えてきた。
男は、三森邸にいた男だ。この男に落とされて気を失ったのだ。理解が及ぶと、困惑が浮き上がり、少し遅れてわいてきた怒りが、すべてを覆いつくす。
「おい、どういうことだよ!」
感情のままに怒鳴りつけた瞬間、警告なしで蹴りつけられた。腹部に革靴がめり込み、痛みと苦しさで息ができない。
武蔵はもだえながら上体を折り曲げた。地面にこぼれ落ちた唾液の染みが、点々と跡を残す。
「あー、もう乱暴はやめてよ。ひどいことはしないって言ったよね!」
「こいつ、ヤクザなんだろ。これくらい、どうってことない」
「無茶苦茶だな、この悪徳刑事!」
鏡子はかじりつきそうな勢いで男に突っかかった後、よたよたと顔を上げた武蔵に寄り添った。これ以上乱暴を振るわれないように、自ら盾になろうという位置取りだ。
男は心底くだらなそうに鼻を鳴らし、内ポケットから手帳を取り出した。警察手帳だ。実物を目にしたのは、はじめてだった。
「俺はW警察署の細谷だ。死んだ宗田の息子なんだってな、話を聞かせてもらおうか」
武蔵は目をむいて鏡子を見る。状況的に、口外したのは鏡子であるはずだ。
彼女は気まずそうに愛想笑いを浮かべて、ゆるりと視線をはずす。
「ごめんね、どうしようもなかったんだ。監視カメラを調べるって言われたから、もうごまかしようがなくて」
「だとしても、連れてくることはねえだろ!」
「いやぁ、面目ない。ほんと、ごめん」
さらに文句をぶちまけようとした武蔵に、「ごちゃごちゃうるさいな。そんなこと、どうだっていいんだよ」と、警察官の細谷が割って入った、細谷は武蔵の肩に足を乗せて突っ張り、背中を橋脚に押しつける。
「ちょっと細谷さん、乱暴はやめてって言ったでしょ!」
「こんなもん乱暴のうちに入らないだろ。こいつも別に痛がってない」
「うーん」と、鏡子はこの状態を観察して、わずかに首をかしげる。「まあ、セーフなのか、一応」鏡子判断では、これを乱暴とは見なさなかったようだ。
「これが話を聞こうって奴の態度か?」
武蔵は精一杯の虚勢で、不満を口にした、また暴力を振るわれる覚悟をしていたのだが、今回は蹴りが飛んでくることはなかった。
「拘束してないと、お前、また逃げるだろ。おとなしくしてるなら、何もしねぇよ」
いきなり蹴りつけておいて、いけしゃあしゃあと細谷は言った。その神経を疑う。
武蔵は唇を噛みしめて、目線をそらした。ヤクザであっても人間だ、いかれた相手にはかなわない。
「それで、お前はどこの組のもんだ。名瀬組か?」
「どこだっていいだろ……」
「この状況で意地張ってもしょうがねえだろ。こっちは警察なんだ、顔さえわかりゃあヤクザの身元証明なんてすぐだぞ。手をわずらわせるな」
そう言って、細谷はスマホで武蔵を撮影した。細谷の言い分はもっともで、警察が調べたら簡単に判明するだろう。武蔵は観念するしかなかった。
「……そうだよ、名瀬組だ」
「そうそう、最初から素直に答えりゃいいんだ。ムサシだっけ、お前が三森の家に忍び込んだのは、やっぱりお前の親父が盗んだ宝石が目的なのか?」
不意打ちのように脈絡なく発せられた宝石という言葉、武蔵はぎょっとして絶句する。
なぜ警察官の細谷が宝石のことを知っているのか、理由がわからず混乱した。答えを求めて必死に思考を巡らせるが、どこを向いても可能性の芽にすらたどり着きそうにない。
「図星みたいだな。お前も宝石狙いか」
「ど、どこでそれを知ったんだ」
「元警察官から噂話を聞いた。おそらく警察本部にも知っている奴はいる。そっちの動きは不明瞭だが、少なくとも俺は監視されてるみたいだ。裏でこそこそ探ってるんだろうな。で、お前のほうはどうやって知った。親父から直接聞いてたのか、それとも組から聞いたのか、どうやって知ったかによって話が変わってくる。どっちなんだ?」
武蔵は返答をためらった。細谷が真実を語っているのか判断できない、もし真実だったとしても正直に事情を伝えるべきか考えどころだ。
その迷いを前もって予測していたかのように、新しい煙草に火をつけて、細谷はじっくりと待っていた。
いったい、どうすればいい?――と、悩む武蔵に、思いがけない指針が降ってくる。「本当のこと、話しちゃいなよ」鏡子がスカートを丁寧に折りながら屈んで、地べたに座る武蔵と視線を合わせて言った。
「言ったほうが得だと思うな。ここで嘘をついても、細谷さんが捜査を進めていったら、いずれバレることもある。そうなったとき、この悪徳刑事は無茶な理屈をこねてムサシくんを捕まえようとするかもしれないよ。結局バレるなら、保険って意味でも不利にならない身の振りかたをしたほうがいいじゃん」
最悪の事態を想定して、真実を語れという意見は、一理あるように思えた。いきなり首を絞めたり蹴りつけてくるような理不尽な刑事だけに、妙な説得力がある。
武蔵は逡巡した末に、口を開いた。
「わかった、言う。本当のことを言う。俺が宝石のことを知ったのは、組の人間に教えてもらったからだ。宝石の手がかりがないか、三森の家に忍びこもうとした。親父の死の真相を知りたいって気持ちも、ちょっとはあったけど」
本当といっても、すべてを話すとはいっていない。若頭の玉木から聞いたということは伏せておいた。ヤクザとして、組の人間を売るわけにはいかなかった。
細谷はじろりと武蔵を見て、煙草の煙を吐きかけてきた。もろに食らって、軽く咳きこむ。
「それが本当なら厄介だな。警察もヤクザも宝石を狙ってることになる」
「あんたも警察だろ」
「はみ出し者の俺は別枠だ。個人で動いている」
辛気臭い刑事は意味深なことを言って、煙草の灰を落とし、慣れた手つきで吸い殻を携帯灰皿に片づけた。そして、立てつづけに二本目を口にする。ヤクザでも、これほどのチェーンスモーカーはめったに見ない。
だが、どういうわけか細谷は煙草をくわえたまま、一向に火をつけようとしなかった。何やら考え込んでいるらしく、眉間にしわを寄せて、煙草をひょこひょこと上下に揺らしていた。
「なあ、ムサシ。俺と組まないか」
考えもしなかった申し出に、武蔵は顔をひきつらせる。
「あんた、何を言ってんだ……」
「このまま組に依存してたら、宝石を見つけたとしても持ってかれるんじゃないか。そんなのバカらしい。その点、俺と組めば折半だ。警察の情報も手に入るし、悪い取引じゃないだろ」
「正気かよ。俺に組を裏切れって言うのか?」
「俺も警察を裏切ることになる。そういう意味でも条件は同じだ。せっかくの大金を、みすみす他の奴らにくれてやってどうする。いつまでもヤクザなんてやってられんだろ、俺だっていつまでも警察にいるつもりはない。給料も安いしな。こいつはチャンスなんだよ、ここで乗らなきゃ一生巡ってくることのないチャンスだ」
金は、喉から手が出るほどほしかった。細谷の言うとおり、宝石を手に入れても組に奪われることは充分考えられる。斜陽のヤクザ業界に、いつまでもしがみついていくのも現実的ではないとわかっている。だが、ひろってくれた組を裏切るのは、やはり抵抗があった。
「お前、惚れてる女はいないのか。その子を幸せにしたいと思うだろ。金があれば、たいていの問題はどうにかなる」
脳裏に愛歌の顔が浮かぶ。人生をやり直したいという想いは、ずっと胸の内でくすぶっていた。
細谷に信じきれる要素はない。ただ、何かを変えるためには冒険が必要だと実感している。
武蔵は思い悩みながら、ふと、父も似たような葛藤をしたのだろうかと考えた。ヤクザの所有物に手を出すのは、しがないこそどろには大博打だ。なんらかの要因で死んでしまったが、盗むところまでは成功している。冒険して、やり遂げたのだ。では、武蔵は――「俺は」
喉が絡んで一呼吸置く。気持ちを落ち着かせてから、声が高ぶらないように注意して言った。
「わかった、手を組もう。ただし、もし裏切ったら絶対に許さないからな」
「そりゃ、こっちのセリフだ。お互い、後には引けなくなる」
いざとなったら切り捨てる選択肢もある。そして、それはお互いさまだろう。手を組むというよりは、利用し合う関係性だ。
細谷は、武蔵の肩をつかんで起き上がらせ、手の拘束をほどく。拘束具は手錠だった。はじめて手錠をはめられるのが、こんな形になるとは思ってもいなかった。
武蔵は軽く手首をさすり、かすかに残る跡をいたわった。それほど強く締めていなかったようで、半日もしないうちに消えてなくなることだろう。
「それで、手を組むといっても、何をすればいいんだ?」
「そうだな、まずは――」
細谷が提案しようとしたとき、鏡子がふたりの間にいきなりぐいっと体を割り込ませてきた。小柄な少女の乱入で、両者ともに後ずさり一歩分距離が空いた。
「話がまとまったところで、一つ聞きたいんだけど」鏡子は不敵な笑みを浮かべていた。「さっきから言ってる宝石って何?」
「あっ?!」
武蔵と細谷は顔を見合わせる。事件にまつわる宝石の事情は、ごく一部の人間しか知らない。当然ながら情報は最小限の人数で共有しているほうが都合はいいのだが、そのことを失念して――鏡子の前でべらべらしゃべっていた。
ヤクザと刑事の秘密の協力関係は、成立と同時に破綻していた。
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