<3-2>

 自宅の安アパートにたどり着いた武蔵は、玄関口で慌ただしく靴を脱ぎ捨てると、狭い六畳間つづきの押入れを開けた。乱雑に詰めこまれた荷物をかき分け、スチール製のクッキー缶を苦労して発掘する。

 万年床に腰を下ろし、緊張の面持ちでクッキー缶を開ける。この中には、数少ない母の遺品が眠っていた。


 父親の記憶がほとんどない武蔵にとって、もし宝石の行方の手がかりになるものがあるとすれば母の遺品しかないと考えたのだ。

 缶にあるのは数枚の写真と、母が使っていた手袋と携帯電話、いくつかの鍵、それに封筒入りの手紙のみ。それ以外のものは、すべて処分した。もっと残しておくべきだったと、いまになって後悔の念に駆られる。


 色あせた写真のなかで、若かりし頃の母が微笑んでいた。他には母子で写ったものや、スナックでカラオケを熱唱する母の写真などがある。父が写っている写真は一枚もない。アルバムには複数枚父の写真もあったが、母の死後に遺品として残す選別作業の際、父の写真は真っ先に除外していた。


 武蔵は携帯電話を手に取る。折りたたみ式の古い機種で、いわゆるガラケーと呼ばれるものだ。開いて電源を入れてみたが、まったく反応しなかった。長い間放置していたので電池が空なのだろう、バッテリーが死んでいることも考えられる。どちらにしろ充電器がないので確認しようがなかった。


 母が愛用していた手袋を一撫でして、複数の鍵を並べていく。全部で五つある。離婚前に住んでいたマンションの鍵と離婚後に母子で住んでいたアパートの鍵、働いていたスナックの鍵、自転車の鍵、それとなぜかスリットの入った金属板の鍵――銭湯の下駄箱の鍵も混じっていた。どうして母が持っていたのか、どうして武蔵が下駄箱の鍵を遺品で残したのか、当時のことを思い出せない。


 最後に、ためらいがちに封筒から手紙を抜き取った。これは、母の遺書だ。病に伏せて入院していたとき、衰えた体で無理をして書いた、よれた文字が並んでいる。

 ――ごめんね、許してね。

 謝罪の言葉で埋め尽くされた遺書を、読み切る前に封筒に戻す。目頭が熱くなり、しばらく虚空を見つめて心が落ち着くのを待たなければならなかった。


「なんで謝るんだよ。母さんは悪くないだろ……」


 母が亡くなった直後と、一字一句たがわぬ感想がこぼれた。

 すべて父に責任がある。どのような理由があろうと、それは疑いない事実だった。


 両親が離婚したのは、一二年前のこと――武蔵が一二歳の頃の話だ。父の宗田康司は泥棒を生業としていた。表向きは知人の工務店で軽作業員として働いていたが、月に数度出向く程度の不定期な業務形態で、あらかた日がな一日家でごろごろしていた。武蔵は子供ながらに、この家はどうやって生活費を工面しているのか疑問に思ったものだ。


 疑問が解けたのは、武蔵が十歳になったとき。父が窃盗で捕まり、警察が家宅捜査にきたことで稼業が判明する。後に知ることになるのだが、これで三度目の逮捕だった。結婚前に一度捕まっており、結婚後すぐに二度目の逮捕、そして三度目の逮捕、前科三犯の犯罪者である。

 逮捕されて刑務所にいた時期を吟味すると、武蔵が生まれた頃も塀の中であったことがわかった。最低の父親だ。


 三度目の逮捕で堪忍袋の緒が切れたのか、母は別れを決意し、出所後に離婚届に判を押した。これが武蔵一二歳の頃。父との思い出が少ないのは、物理的に離れていた期間が多いからでもあった。


 片親となった母はスナックの雇われママとして働き、武蔵を養ってくれた。しかし、四年後に悪性の脳腫瘍が発覚して、治療のかいもなく一年後に死去した。

 天外孤独の身となった武蔵は、生きていくために働きに出るが、何もかもうまくいかない。中卒の少年に世間は厳しく、最低の労働環境と給料で食いつなぐ日々がつづいた。


 必然的に心はすれていき、他者への攻撃性が増していく。道を踏み外すのに時間はかからなかった。悪い仲間とつるむようになり、二一歳のときに名瀬組の諏訪に拾われた。

 その頃の武蔵は、人を恨み、社会を恨み、自らに流れる汚れた血を恨んでいた。愛歌との再会がなければ、もっと深いところにまで落ちていたことだろう。


「三億円あれば、きっと愛歌に恩返しできる」


 ぎりぎりのところで、外道に染まるのを踏みとどまらせてくれた愛歌には感謝しかない。何ひとつ返す物を持たない武蔵にとって、またとないチャンスであった。

 だが、どれだけ頭をひねっても、隠し場所につながるような手がかりをつかめない。母の遺品からも関連性は見つけられず、早くも八方ふさがりだった。


「クソ親父め。一回くらい息子の役に立てよ。何か隠し場所のヒントは残してないのか――」


 簡単にあきらめるわけにはいかない。武蔵はあぐらをかいて、舟をこぐように体を揺すり、必死に記憶をあさりつづける。

 どれくらい、そうしていただろう。半ば夢うつつをさまよっていた武蔵の意識が、現実に呼び戻されたのは突然のノック音によってだ。アパートのうすいドアがたわむほど強く、それでいて何度も、ノックは繰り返された。


「ムサシ、いるんでしょ。開けなさいよ!」


 ドアを突き抜けて届く怒り混じりのきんきん声が、せまい部屋に反響する。武蔵は顔をしかめながら立ち上がろうとしたが、長い時間同じ姿勢だったことがまずかったらしく、足がしびれて悶絶する。回復するまで、しばらく待たなければならなかった。


 やっとの思いで鍵を開け、来訪者に文句を言う。「愛歌、近所迷惑だから静かにしろ」

「隣の部屋、空き部屋じゃない。文句なんてこないわよ」


 眉を吊り上げた愛歌が、間髪入れず言い返した。よく見ると、彼女の髪はうっすら濡れており、顔はノーメイクで地味なグレーのスウェット姿だった。手にしたペット用のキャリーバッグから、「にゃあ」と鳴き声が聞こえる。


 部屋に押し入ってきた愛歌は、苛立ちを尻であらわすようにどっかりと音を立てて座り、キャリーバッグ側面のファスナーを開けた。ゆっくりと顔を出した黒猫が、もう一度「にゃあ」と鳴く。


「あれだけ言ったのに、家に帰ってもいないからビックリした。クロードが無事だったからよかったけど、何かあったらどうする気なの。お風呂に入ってもイライラがおさまらないから、文句言いにきた」

「なるほど、それでか……」


 愛歌の姿を改めてながめ、武蔵は納得の苦笑を浮かべる。驚きはしたが、おかげで煮詰まっていた思考が解けていくの感じた。

 彼女も幾分落ち着いたのか、苛立ちに満ちた表情がゆるんできた。ノーメイクなので、普段よりも若さが際立ち、年相応のあどけなさが目につく。

 ひざにすり寄ってきた黒猫クロードの頭を撫でて、武蔵は胸にたまっていた鬱積を吐息に重ねて吐き出す。ほんの少しだが、気持ちが軽くなった気がする。


「それで、何があったの。上の人に、変なこと頼まれたんじゃないでしょうね。警察の厄介になるような――」

「ちがうちがう。そういうんじゃない」


 心配かけまいと、明るい声色で即否定する。口にしながら、まるでごまかしているようだと思った。

 案の定、愛歌の視線は懐疑的だ。あからさまに訝しんでいる。


「ねえ、やっぱり、うちにこない?」

「うちって、愛歌の家にか。前も言ったけど、それは遠慮しとく、迷惑はかけたくない。ここのほうが事務所に近くて便利だしな」

 以前も愛歌に、いっしょに住まないかと誘われたことがあった。人恋しい時期だったのだろうと、深く考えることなく断った。迷惑をかけたくないというのも本心だ。一時の気の迷いであっても、ヤクザの情婦になった事実は、愛歌の将来に差し支える。


「ヤクザなんてやめちゃいなよ。ムサシひとりくらい、あたしが養ってあげるよ」

「ヒモは嫌だな。さすがにかっこ悪い」


 武蔵は笑いながら受け流して、少々強引に話題を変えた。なぜか、そこにとどまり話し合うことが怖かった。


「それより、愛歌は金があったら何がしたい? たとえば……三億円ぐらい持ってたら」

「何それ。宝くじでも買ったの」

「まあ、そんなところだ。何がしたい、何か欲しい物とかないのか?」


 愛歌は困り顔で首をかしげて、宙に視線を向ける。そのままクロードを抱きよせて、あご下に細い指を這わせた。黒猫はくすぐったそうに身をよじる。


「温泉にいきたいかな。ペットも宿泊できるとこで、のんびり、まったりしたい」

「おい、三億円だぞ。もっと贅沢できるんだから、そこはせめて海外にしとけよ。ハワイとかさ」

「急に言われても、思いつかないよ。いまやりたいのは、温泉にいく、それで充分かな」


 欲のない願いに拍子抜けして、武蔵は肩をすくめる。

 だが、これが愛歌の願いだ。どんなささやかな希望であっても、かなえてやりたいと思った。


「それじゃあ、いつか温泉にいこう。クロードも連れて、いっしょに」

「へえ、言ったからね。忘れないよ」


 訪ねてきたときの剣幕はどこへやら、愛歌は満面の笑顔で身を乗り出す。

 武蔵は頭がぶつからないように手で制しながら、精巧に作った困り顔の裏で決意を新たにした。三億円を、絶対に手に入れる。そうすれば苦労ばかりの人生に、ようやく輝けるものを見つけられる気がした。

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