<4-1>

 目が覚めて、時計を見た。時刻は九時八分――遅刻だ。

 起きる気力が急激に萎えて、鏡子はベッドを抜け出すのを断念する。すべすべのシーツに頬ずりするように顔を埋めて、再びまぶたを落とすと、すぐに眠りが引き返してきた。


 二度寝から目覚めたときには、時計の針は十時五二分を指していた。鏡子はのろのろと起き上がり、空きっ腹にうながされてキッチンに向かう。

 光沢を帯びた飴色の長い板張り廊下を通り、ほのかにコーヒーが香るキッチンをのぞく。休憩中だった使用人の稲垣良雲いながき りょううんが、まだパジャマ姿の鏡子に気づいて渋い顔をした。


「鏡子さん、今日は学校にいくとおっしゃってませんでしたか。なぜ、まだ家にいるのです」


 うっすらと湯気の立つカップをテーブルに置いて、稲垣は非難と諦めが混ざった小言を口にする。きっちりとまとめた艶のあるロマンスグレーの髪が、心なしかほつれたように感じた。


「そのもりだったんだけど、起れなくてさ――」


 目についたバナナにかじりついた鏡子は、咀嚼しながら言い訳にもならない理由を告げた。ねっとりとした甘味が口いっぱいに広がり、糖分がもたらす幸福感によって低下していた活力がみなぎっていくのを感じる。


 自主的不登校児を自称する鏡子は、とりあえず学校は卒業できさえすればいいと思っていた。成績や進路や、学校で得られる友人や人間関係、その他もろもろのメリット・デメリット含めたあらゆるものを、自分の意思で早々に切り捨てていた。


「まったく、あなたは三森家の跡取りなのですから、しっかりしてもらわないと困ります。学校にはちゃんといってください、いまはそれだけで構いませんから」

「大丈夫だって。落第しないように出席日数の計算はバッチリしてる。しっかりしてるっしょ」


 稲垣は眉をひそめて、肺が空っぽになりそうな勢いで大げさなため息をもらした。

 K県において名をはせた富豪である三森孝作にとって、一六歳になった女子高校生の鏡子は事故で失った息子の忘れ形見であり、この世に残されたたったひとりの肉親であった。


 孝作は息子を厳しく躾けた反動か、孫には特段に甘く接していることもあって、鏡子は他者の意見に耳を貸さない自由気ままな気質に育っていた。おおらかでのほほんとした性格は、ある意味器が大きいとも取れるが、何事にも執着が薄く怠惰な面があり、資産家の跡取りとしては古くから仕える使用人には頼りなく映る。


 そんな不安視する稲垣の気持ちは充分に理解しているが、一四歳のときに自身の生き方を決めた鏡子は、いまさらライフスタイルを変えるつもりはなかった。期待に沿えなくて申し訳とないと思いながら、二本目のバナナの皮をむく。


「出席日数の計算をなさっているとおっしゃっていましたが、世の中計算通りにうまくいくとはかぎりませんよ。不測の事態に備えて、余裕のあるうちに貯蓄しておいたほうがよろしいのではないですか」


 さすが経験豊富な使用人だけあって、正攻法では効果がないとみるや即座に説得の方向性を変えてきた。押しても駄目なら引いてみよ、だ。老獪な切り口に、鏡子はうならされる。

 確かに一理あるかも――と、心が揺れ動く。キッチンの壁にかかった時計を見て、いまからいけば午後の授業には間に合うだろうと確認を取った。


「稲垣さんがそこまで言うなら、学校いってみる。貯蓄ってうまいこと言うね」

「車でお送りしましょうか?」

「うーん、それはいいや。電車でいきたい。習った護身術で、痴漢を退治する夢がかなうかもしれないし」

「そんなことのために、護身術を教えたわけではありませんよ」


 呆れ顔の稲垣に手を振り、自室に戻って支度をする。有名なデザイナーが作ったという制服に袖を通し、おかしなところがないか姿見でチェック。ひさしぶりのブレザー姿が、なんだか少し照れくさかった。

 母親譲りのくせっ毛にブラシをかけ、唇に薄く艶を出すリップを塗った。生活態度で人目を気にすることはないが、ファッションに関しては年相応に気を配る。鏡子も一応年頃の女の子なのだ。


「よし、めんどくさいけど、学校いくか」


 油断するとすぐに決心が鈍るので、言葉にすることで自分を鼓舞した。しばらく存在すら忘れていた高校指定のスクールバッグを手に取り、足取りが重くならないうちに部屋を勢いよく飛び出した。

 鏡子は広くて使い勝手の悪い玄関から、「お爺ちゃん、いってきます!」と大きな声で通達。作りが丁寧で重厚な分、重量もある木製引き戸を両手で開ける。


 三森家本邸から分厚いシャッターで閉じた正門まで三〇メートルほど距離があった。解体業者がトラックを進入させるのに、ずいぶんと苦労していたことを思い出す。

 そういえば、離れ家の解体工事はどうなったのだろう?――ふと脳裏に浮かんだ疑問が、鏡子の体を動かした。本邸に隠れて見えないが、何気なく離れ家の方角に首を向ける。


 その途中、屋敷の庭を横切り歩くふたつの影が視界をかすめた。ひとつはよく知る顔、三森家の家政婦である紀伊馬淑子きいま よしこだ。以前は使用人も家政婦も複数人いたが、孝作が隠居後は常駐の稲垣と通いの淑子のふたりで屋敷を管理していた。


 もうひとつの顔は、はじめて見る男性だった。スーツ姿のしょぼくれただ。おそらくは三十代前後、おじさんと呼ぶには少し早い気もするが、十六歳の少女の目からすれば、他に形容しようがない。遠目からでも、その陰気な顔つきが見て取れる。

 興味をひかれた鏡子は、即座に進行方向を変えた。迷うことなく好奇心を優先する。


 その行き先は、すぐに察しがついた。裏の離れ家だ。ふたりは本邸を迂回し、来客用の駐車場を抜けて工事用のシートで囲われた離れ家に向かう。

 鏡子が追いつくのと、ふたりが現場に到着したのは、ほぼ同時だった。迫ってくる足音に気づいて、淑子が振り返った。


「鏡子ちゃん、今日は学校だったんじゃないの」


 稲垣と比べて口調は柔らかかったが、同じ質問が飛び出した。鏡子は苦笑でごまかす。


「そのつもりだったけど、ちょっと気になったんで様子を見に来た。こっちの人は?」

「W警察署の刑事さん。現場の確認にいらっしゃったんですって」


 男はゆるりと会釈した。体に染みついた、煙草のにおいが鼻をかすめる。

 間近で見ると、刑事は思っていたよりも若く感じた。おじさん扱いは撤回してもいいと思えるほどに。ただ陰気な顔つきは、遠目で見たときよりもひどかった。


三森鏡子みもり きょうこです。よろしく」


 刑事はもう一度会釈。それで挨拶は済んだと言わんばかりに、にごった目は淑子に移った。


「中に入ってもいいですか?」

「どうぞ」と、淑子が許可を出すと、刑事はシートをずらして足を踏み入れる。


 鏡子もしれっと後につづこうとしたが、すかさず腕をつかまれ止められた。鏡子と同年代の孫もいる六〇近い年のわりに、淑子の動きはきびきびしていた。


「鏡子ちゃん、刑事さんの邪魔しちゃ駄目ですよ。おとなしくしててください」

「邪魔しないよ、見学するだけ。後学のために、いろいろ見ておきたいんだ」

「なんの後学ですか。まったく、もう――」という呆れ声を受けながら、鏡子は勢いよく現場に踏み込んだ。


 死体が発見されて解体工事が途中でストップした離れ家には、現場検証が済んだ後、人目を忍んでこっそりと入ったことがある。理由は、ただ単純に興味があったから。そのときは好奇心を満たすようなものを、見つけることはできなかった。

 元々鏡子が生まれる前からすでにあった離れ家は、ほぼ物置のような状態でめぼしいものは何もなかった。亡くなった父の荷物が数点あるのみ、広い本邸でだいたいのことは事足りたので存在価値の薄い場所であった。


 若かりし頃の父が厳しい祖父の目から逃れるために利用していたと聞くが、目と鼻の先にこもったところで、どれほど役に立ったことやら。鏡子には離れ家が建てられた意図が、いまいちわからなかった。


「何か見つかりそう?」


 死体が発見されたという半壊状態の壁の内側を覗き込んでいた刑事に、ぴったりとくっついて鏡子が声をかけた。

 しばらく無言であったが、じっと見つめていると、根負けした刑事は億劫そうに口を開いた。


「もう鑑識が調べつくした後だ。新しい発見なんてものは、ない」

「だったら、なんで刑事さんは調べてるの?」


 またも沈黙。今度はあからさまな無視ではなく、答えに窮しているように見えた。視線に若干の焦りがうかがえる。


「それは、その……」


 刑事が理由を告げるより早く、「あっ!」と鏡子は声をあげた。壁のコンクリートの一部に、布地の繊維が混じっていることを発見したのだ。指先でちょんとふれると、細く伸びた繊維がかすかに揺れる。


「服を着て埋められてたんだ。白骨死体って聞いてたから、なんとなく裸なのかと思ってた」


 刑事を押しのけるようにして観察する鏡子に、わざとらしい咳払いが投げつけられる。

 きょとんとして隣を見ると、刑事は陰気臭い顔を不機嫌で上塗りしていた。


「なあ、えっと、お嬢さん」はじめこそ気を使った言い回しであったが、主題は辛辣な一言で済ませる。「邪魔」

「えー、そうでもないよ」


 刑事の顔つきがあからさまに変わった。人が切れる瞬間を、鏡子ははじめて目の当たりにする。


「おい、それは俺が決めることだ。お前が言うな。だいたい、いくらこの家の娘だからって、犯罪現場に入ってくるのはどうかしてるだろ。こんなとこで油売ってないで、学生なんだからとっとと学校に行けよ!」


 よほど鬱憤がたまっていたのか、刑事は感情をあらわにしてまくし立てる。驚きはしたが、うろたえることはなかった。素っ気なかった刑事の人間性がむき出しになり、むしろ親しみがわく。


 なおも悪態がつづきそうな気配であったが、刑事は開いた口をぴたりと閉じた。騒ぎを聞きつけ、淑子が覗きこんでいたのに気づいたのだ。刑事はばつが悪そうに視線を落とし、小さく舌打ちを鳴らす。

 淑子は苦笑をこぼし、思いもよらない言葉を送る。


「構いませんから、もっと怒ってやってください。鏡子ちゃんは甘やかされて育っているので、一度ガツンと怒られたほうがいいと思ってたんですよ」

「うわ、ひどっ!」


 あんまりな発言に、鏡子は唇を尖らせて文句を言う。刑事はというと、後押しされたことでかえって気勢がそがれ、目に見えて怒気が減退していた。

 淑子は茶目っ気たっぷりに首をすぼめて、顔をひっこめた。老練な術中にはまり、まんまと場をおさめられた形だ。さすが年の功である。


「と、とにかく、邪魔だから早く学校に行け。犯罪現場なんて、女子高生がいていい場所じゃない」


 やたらと学校行きをすすめるのは、鏡子が制服姿だからだろう。学生であることを強調されると、少しきまずいものがあった。

 鏡子はあえて不敵に笑って、堂々と告げる。「刑事さん、わたしってお金持ちの娘なんだ」


 唐突な語りに、刑事の顔は困惑に染まった。


「お爺ちゃんが死んだら、遺産は全部わたしのものになる。相続税でどれくらい持っていかれるかわからないけど、それでも死ぬまで使いきれないくらい残ると思うんだよね。この先、一生お金に困ることはないんだから、無理して学校に行く必要なんてないんだ。まあ、周りがうるさいから大学までは行くつもりだけど、がんばる気は一切ないよ。わたしが通ってる学校は女子大学付属の一貫校でわりとゆるいし、出席日数さえ間に合ったらどうにでもなる。そんなわけで、学校のことは気にしなくていい」

「なんて嫌なガキだ……」


 鏡子がこの考えにいたったのは、中学二年生のときに起こったある出来事がきっかけだった。同級生に金持ちであることを鼻にかけていると、まったくいわれのないそしりを受けたのだ。当時まだ純真だった鏡子は、ショックで悩みもしたが、自分の境遇を客観的に分析した結果、金持ちであることは事実だと意識するようになった。それもただの金持ちではない、大金持ちだ。

 将来譲り受ける金額を思うと、何もかも馬鹿らしくなった。


 その瞬間、鏡子は人生の意味を失い、社会からはみだした。人間が生きていくなかで抱える悩み苦しみから解放されると同時に、喜び楽しみから疎外されたのだ。

 いつしか、それならそれでいいと思えるようになったが、何事も俯瞰的に見るようになって退屈もしていた。だから、まれに遭遇する興味をひく物事に執着する。


「そういえば不思議に思ってたんだけど、どうして壁に埋めたんだろ。死体を隠すだけなら、やり方は他にいっぱいあるよね。それなのに手間がかかりそうな壁を選んだのって、何か理由があるのかな」

「……確かに、不思議だな」と、刑事は疑問に同調した後、思わず答えてしまったことに気づいて、苦々しく顔をしかめた。


 半壊した床下を覗き込むと、コンクリートでかっちりと固められた基礎が目に入る。床下を掘って埋めることは難しそうだ。


「どうして、離れ家だったんだろう。うちに隠すにしても、他にもっと楽に隠せそうなところがありそうなものなのに」

「ここは、特定の誰かが使ってたのか?」

「パパが使ってたって聞いてる。ということは、パパが犯人なのかな」


 鏡子が父への疑念を平然と口にしたことに、刑事はうろたえて気まずそうに視線をそらした。案外根はいい人なのかもしれないと思わせる、率直な反応だ。


「その、お前の親父は――」

「十年前に交通事故で死んでる。ちなみにママは、パパが死んだ一年くらい後に男作って家を出た」

「そ、そうか」


 刑事は困り顔を隠すように、屈み込んでコンクリート片を手にした。何度も角度を変えて観察している素振りをみせたが、関心が向いていないことはすぐにわかった。


「まあ、あれだ。埋められてた死体はちっぽけなこそどろで、大富豪の御曹司と関わりがあったとは思えない。警察も、お前の親父が犯人の線で動いていない」

「そんなに気を使わなくていいよ。わたしのパパ、結構ボンクラだったみたいだから」

「気を使うとか、そういうんじゃ――」


 ぎこちなく配慮の言葉を紡いでいた刑事が、にわかに顔を上げて身構える。鏡子は身を縮めて、不安をまとっていた。

 原因は、シートの外。「あ、あなた、誰!」という淑子の切迫した声が聞こえたのだ。


 その言葉が最後まで発せられるより早く、刑事は素早く駆けだしていた。一拍遅れて、鏡子もあたふたしながらシートの外に飛び出す。


「淑子さん、何があったの?」

「ふ、不審者が、急に、そ、そこにいて、びっくりして」


 淑子はひきつった顔で動揺を練り込んだような声をこぼす。説明不足であるが、言いたいことはわかった。

 視線の先に、正門に向かって逃走する男の姿があった。その後を、刑事が追いかけている。

 鏡子も反射的に走り出していた。到底追いつけるとは思えないが、じっとしていることはできない。


「鏡子ちゃん、危ないわよ!」

「大丈夫、なんとかなる」


 根拠のない楽観的な自信を返して、必死に足を繰り出す。社会からはみ出すことを決めた鏡子の人生で、こんなにも胸躍る出来事に遭遇したのは、はじめてだった。

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