<4-2>

 正門にたどり着いたときには、不審者の姿も刑事の姿もどこにも見当たらなかった。


 鏡子は息を整えながら周囲を見回す。三森家の邸宅は高級住宅街の一角にあり、正門を出ると道路をはさんで、向かいの家の背の高いウバメガシの生垣が目に入る。必然的に逃走路は左右にかぎられるわけだが、そのどちらにも人の気配はない。元々閑静な地域であるが、普段よりも一層静けさを身近に感じた。

 視線を右に寄せると、道路脇に軽自動車が停まっているのが見える。このあたりで路上駐車は珍しい。


「刑事さんのかな?」


 少し色あせた白い軽自動車の側面には、どこかでぶつけたらしいへこみがあった。車内を覗き込むと、灰皿に溢れんばかりの吸い殻がたまっているのを確認できた。間違いなく刑事の車だ。


「どこまで追いかけていったんだろ」


 行方がわからない以上、鏡子は待つことしかできない。車に寄りかかり、ぼんやりと視線をさまよわせる。

 その結果、。思いもよらない事態に、混乱してうろたえる。


 枝一本の乱れもなく見事に手入れされたウバメガシの根元に、強引に体を押し込んで隠れる男がいたのだ。派手な和柄の黒い長袖シャツにジーンズという服装は、目撃した不審者の服装と一致している。


 男も見つかったことに動揺し、顔をひきつらせていた。二〇代前半の精悍な顔立ちをした青年であったが、狼狽が表情を染めて、細く揃えた眉が情けなく垂れさがっている。


「あの、そこで何してるの」


 口にした後で、間抜けな質問をしてしまったと気づく。追いかけてきた刑事から隠れている、それ以外にない。

 男は何か言いたげな目をしていたが、声を発することはなかった。鏡子もつづく言葉が見つからず、もんもんとしながら黙っていた。

 しばらく無言で見つめあう。はからずも互いをけん制する形となって、双方身動きできなかった。


 そこに、思いがけず声が割り込んできた。「あの野郎、どこに行きやがったんだ。逃げ足の早い奴だ」額に大粒の汗を浮かべた刑事が、わき腹を押さえながら戻ってきた。


 男はさらに奥へ逃げ込もうとするが、密集したウバメガシの根は容易に侵入を許さない。その目に宿る感情が、緊張から恐怖、そして懇願へと変質していく。


「おい、逃げた男を見てないか?」


 刑事は車に寄りかかった鏡子に近づき、苛立ちのこもった口調でたずねた。顔の向きをほんの少しずらせば、探している男は簡単に見つかる。


「さあ、知らない」


 とっさに、鏡子は嘘をついた。どうして嘘を言ったのか、自分でもよくわからない。


「ねえねえ、これ刑事さんの車だよね」

「そうだけど、なんだよ」


 唐突な質問に、刑事はわずかに首をかしげて胡散臭そうに目を細めた。首の角度次第では、男が見つかっていたかもしれない。


「ドライブに連れて行ってよ。うちにある車って全部大きくて、軽自動車に乗ったことないんだ。どんなものか興味があるから乗せて」

「うざったい金持ちのガキだ。軽に乗りたきゃ自分で買え。爺さんにねだれば、ポンと買ってもらえるだろ」

「わたし、高校生だよ。免許まだ取れない」


 一度嘘をついてしまった以上、ばれたくないという心理が働き、目を引きつけるために思いついた話題を立てつづけに口にする。鏡子が次に狙いをさだめたのは、警察官に対するよくあるジョークだった。


「そうだ、警官だしピストル持ってる? 持ってるなら見せてよ」


 刑事の顔が、凍りついたように強張る。怒りに近い感情が、一瞬よぎったようにも見えた。

「持ってない」と、一言で打ち切られる。明確な拒絶が、そこにあった。


 何かふれてはいけないものに、意図せずふれてしまったことを察する。鏡子は謝りたかったが、すべてを拒否するように、刑事は煙草を取り出して火をつけた。交わす言葉はないと訴えているようだ。

 路上喫煙と茶化すこともできない。紫煙を肺に送り込み、ゆっくりと吐き出す。その一連の動作は、抱えたストレスを発散する行為であると感じた。


「悪いけど、家政婦さんに礼を言っといてくれ。用事は済んだ、俺は帰る」

「うん、わかった。バイバイ……」


 刑事は車に乗りこみ、すぐさま発進させた。一度も鏡子に振り向くことなく。

 おかげで隠れた男が見つかることはなかったが、やるせなさが胸に残る。刑事が見せた哀愁が目に焼きついて離れない。

 しばらくして、無事逃げきれたことを確信した男が這い出してきた。安堵の息をつき、衣類についた汚れや葉っぱを払う。


「なあ、どうして助けてくれたんだ?」

「さあ、どうしてだろ。瞬間的に、そのほうが面白いと思ったのかも」


 予想外の答えに男は困惑するが、尾を引かず表情はすぐに明るくなった。凛々しい顔つきをしているが、笑顔は意外とかわいらしい。


「助けてあげたんだから、うちに忍び込んだ理由を教えてよ。それくらいの権利あるよね」

「うちって……お前、三森孝作の娘なのか?」

「お爺ちゃん、いくつだと思ってんの。孫だよ、孫!」


 それはそうかと納得し、男は照れくさそうに頭をかいた。そして、わずかに逡巡した末に、ためらいがちに名を名乗る。


「俺は、秦武蔵。ここで見つかった死体――宗田康司の息子だ」

「えっ、どういうこと?」


 鏡子は驚き、目を白黒させた。死体が元々生きた人間であることは理解している。子供でも知っている、当然の話だ。だが、感覚的に白骨化した死体と目の前にいる生者が親子であるとは脳内でうまく結びつかず、認識に乱れが生じた。

 考えてみれば、不思議なことは何ひとつない。推定死亡時期が十数年程度なら、血縁者が生きていてもおかしくなかった。この男――武蔵が、宗田の息子というのも事実なのだろう。


「そのまんまの意味だ。親子ってこと。ガキの頃にいなくなって、勝手に死んじまったけど、それでも親は親だ。どんな死にざまだったか気になって、勝手に入っちまった。すまん」

「ううん、そういうことなら全然いい。でも、わざわざ現場に来るより、警察に行って話を聞いたほうが、くわしく教えてもらえると思うよ」

「あ、いや、そうなんだが、それは……」


 武蔵は口ごもり、急激に歯切れが悪くなる。その顔には、隠しきれない焦りの色が浮かんでいた。

 不審に思い、鏡子はじっと見つめる。一度はぎこちなく目線をそらした武蔵だが、横顔にわかりやすく映った苦悩の末に、そろそろと目線が戻ってきた。


「正直に言うと、俺は……ヤクザだ。なるべくなら警察と関わりたくない」

「へえ、そうなんだ。若いのに珍しいね」


 あっさりと受け入れた鏡子に、当人である武蔵のほうが動揺していた。頬がひくひくといびつに震えている。


「お、驚かないんだな」

「うちって、お爺ちゃんに会いにいろんな人が来るんだ。政治家とか会社の社長とか役所の偉いさんとか。そのなかに、ヤクザの親分もいたよ。いっしょに食事したけど、結構いい人だったな、顔はおっかなかったけどね。最近のヤクザは若手不足で苦労してるって言ってた」

「すげぇな。さすが三森のお嬢さんだ」


 武蔵は感嘆して、吐息をつく。必要以上に気を張っていたのだろう。緊張と警戒で固くなっていた肩から、ひゅるりと力が抜けた。

 ふと脳裏に刑事の陰気臭い顔が浮かんだ。あの人も、こんなふうに張り詰めたものから解放される瞬間があるのだろうか。鏡子は一瞬の物思いを、ひとまず横に置く。


「武蔵さん――いいや、って感じだね。そのほうがしっくりくる、うん」


 ひとり勝手に納得して、鏡子は話をつづける。


「ムサシくんの事情はわかった。わたしでよかったら、知り得たことは教えてあげる。ただ、わたしに知ることができる情報なんて、たいしたことないと思うんだ。警察のようにはいかない。それでよかったら、連絡先教えて」

「ああ、それで充分だ。是非――」


 ふたりは電話番号を交換して、今日は別れることにした。上機嫌で去っていく武蔵を見送り、鏡子は敷地に戻る。

 ぐうと腹の虫が鳴いた。時間を確認すると、すでに十二時を回っている。消化の早いバナナでは、育ち盛りの腹はもたない。鏡子は邸宅に入り、急ぎ足でキッチンに直行する。


「淑子さん、お腹すいたー」


 いきなり飛び込んできた鏡子に、淑子は目を丸くした。「あら、刑事さんは?」ちょうど食事の用意を終えたところらしく、淑子はお膳に料理を配置していた。今日の昼食は稲荷寿司にとろろ蕎麦だ。

 鏡子はすかさず稲荷寿司をつまみ、口に放り込む。甘いお揚げとほのかな酸味の酢飯のコントラストが最高に美味だ。


「もう帰ったよ。淑子さんにお礼言ってた」

「そうなの、刑事さんの分も用意してたのに残念。まだ若いのに顔色悪かったから、精をつけてもらおうとはりきったのに」

「煙草の吸いすぎじゃないかな。それで、淑子さん、あの刑事さんの名前聞いてる?」


 淑子はお膳を手にして歩き出す。祖父のところへ持っていくのだろう。


「W警察署の細谷真悟さんよ。鏡子ちゃんが他人のことを気にかけるなんて珍しいわね。よっぽど気に入ったのかしら」


 出がけに刑事の名前と含み笑いを残して、淑子はキッチンを出ていった、

 鏡子は二つ目の稲荷寿司をつまみ食いしながら、ぼんやりと思い巡らす。淑子は気に入ったと言っていたが、少しちがう。気に入ったのではなく、気になったと言ったほうが正確だ。

 どういうわけか鏡子は、ほんの短い間接しただけの刑事に引っかかっていた。離れ家で発見された死体の事件についても興味がある。


「W署の細谷慎吾か、よし!」


 心は決まった。やりたいようにやるのが、鏡子の信条だ、稲垣は怒るだろうが、明日も学校には行けそうにない。

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