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 K県Y市東部の海に面した港湾には、いくつもの倉庫が立ち並ぶ区域があった。ひっきりなしにトラックが行き交う猥雑な通りに、磯のにおいと排気ガスのにおいが混じった鼻をつく臭気が渦巻いている。


 倉庫のひとつ、八木倉庫社では運ばれてきたコンテナの荷下ろし作業が行われていた。詰め込まれた荷物を受け取り、即座に保管分と搬出分に仕分けする。保管庫行きはフォークリフトで運搬するが、搬出分は手作業で選別しなくてはならない。輸送先のちがうトラックに振り分けるため、荷物を複数のカゴ台車に積みこまなければいけなかった。


「コウさん、ご苦労さま」


 カゴ台車をいっぱいにしたところで、背後から声をかけられた。汗を拭いながら振り返ると、倉庫の責任者である専務が缶コーヒーを手渡してきた。甘党の熊耳幸之助が好きな、砂糖が不健康なほどたっぷりと入ったカフェオレだ。ありがたく頂戴する。


 専務とは古い付き合いだった。かつて熊耳がヤクザだった頃、トラブルに巻き込まれて泣きついてきた専務を助けたことがあり、その縁もあってこころよく働く場を与えてくれた。決して快適な労働環境とはいえないが、元ヤクザで、しかも殺人の前科者である熊耳に、仕事をえり好みする余地はない。この職を逃せば、また裏社会に戻るほかなかった。


「コウさん、今夜いっしょに飯に行かないか。近況も聞きたいし、どうかな」

「遠慮しとくよ。専務が下っ端と必要以上に親しくすんのはマズいだろ、示しがつかない」

「そんなの気にしなくていいよ。俺とコウさんの仲じゃないか」

「いいや、やめとく。俺みたいな前科者と関わっちゃ、悪評が立つ。ろくなことにならない。働かせてもらえるだけで御の字だ」


 残念そうな専務に苦笑を返し、手にはめた軍手の甲でもう一度汗を拭う。熊耳の顔には左の目尻から頬にかけて、大きな切り傷があった。わずかにへこんだ古傷のラインに沿って、汗がたまりやすいのだ。

 湿った軍手を軽く振ると、小指部分だけが不自然な揺れ方をする。熊耳は左手の小指が欠けていた。傷も小指も、若い頃の不始末が原因だ。


「ちゃんと飯は食ってるのかい。少し心配だよ」

「この仕事してると太りようがないだろ。ダイエットになって丁度いい」


 熊耳は身長は一九二センチで、全盛期は体重一〇〇キロを越えていた。それが五十近い年齢となり、加齢と不摂生な生活によって、いまや見る影もなくやせ細っている。仕事の影響は微々たるものだ。


「ありがとうよ、心配してくれて。でも、飯のことはほんと気にしなくていい。それより女がいないほうが問題だな、俺にとっちゃ」

「そっちのほうは、まだ元気そうで安心した。私はめっきり弱くなったよ」

「デスクワークばっかりっやってないで、専務もたまには体動かして働くことだな。体力がつきゃ、精力もついてくる」

「ちがいない」と、専務は笑う。熊耳もかすれた声で笑った。


 勤務時間は残り少し。熊耳は再び荷物とカゴ台車に囲まれた。汗を拭いながら労働に従事し、終業のチャイムを聞いて息をつく。

 交代の夜勤と入れ替わり、着替えを済ませた熊耳は、夜通し明かりが消えることのない倉庫を後にする。


 すっかり闇に覆われた夜道をとぼとぼと歩きつづけて、帰路の途中にある馴染みの赤提灯に寄っていく。この店主ひとりで切り盛りしている小さな立ち飲み屋で、晩飯と晩酌を済ませるのが熊耳の日課だ。

 味はそれほどだが、とにかく安い。懐のさみしい熊耳には、安さが何よりも重要だった。


「ビールとモツ煮」


 暖簾をくぐり、定位置のカウンター隅に体を寄せて注文する。長身の熊耳は心持ち腰をかがめ、天板に肘をついて店内を見まわした。

 ヤクザ時代の癖が、まだ抜けない。あの頃は敵が多く、どこへ行くにも用心しなければならなかった。常連客で回っている店なので、居合わせた客の顔はどれも見覚えがある。熊耳は安心して、運ばれてきたビールに吸いついた。


 備えつけの七味を大量にかけたモツ煮を、ちびちびとつまみながら酒を飲む。基本的に食事量は少なく、代わりに酒を食らう日々だ。専務が心配するのもうなずける。こんな生活をつづけていれば、いつか取り返しのつかないことになるだろう。


 わかっているが、やめられない。やめる気もなかった。自分の責任で世話になった組をつぶしてしまった熊耳は、生きる意味を失っていた。十年入っていた刑務所を出所後、慕っていた組長が亡くなっていたことを知ると、一層絶望が深くなった。再起する気力はすり切れ、何もかもどうでもよくなった。もはや死んだも同然だ。実際の死が、いつ訪れようと構わないと思っている。

 ビールから日本酒に切り替えて、まだ飲みつづける。小皿のなかには冷めたモツが、まだ二切れ残っていた。


 ふいに日本酒の小瓶が二つに増えた。隣に来た男が、そっと差し出してきたのだ。

 いつの間に店に来たのか、見覚えのない顔だった。顎まで届く口ひげが印象的な男だ。場違いな派手なスーツ姿で、手にはセカンドバッグを持っている。


「なんだ、これ」と、小瓶を突き返した。見知らぬ男に恵んでもらういわれはない。

「おごらせてくださいよ、


 癪に障る粘っこい声だった。口ひげの男が名前を知っていたことには驚かない。何者かは、見た目でわかる。


「お前、どこの組のもんだ?」

「まあ、それはいいじゃないですか。そんなことより、さあ、どうぞ」


 熊耳は自分の酒を飲み干して、大雑把にポケットをまさぐり、しわくちゃの千円札で勘定を払った。そのまま店を出ると、案の定口ひげの男もついてくる

 昼間の暑気は押し流され、少し肌寒さを感じる夜だった。熊耳は煙草を取り出し、ガスの切れかけた百円ライターで火をつける。ゆるやかに空を目指す紫煙と、革靴が奏でる硬質な足音が離れず後を追ってきた。


「待ってくださいよ、熊耳さん。重要な話がある」


 いい加減うんざりして、煙と共に舌打ちを吐き出す。熊耳は振り返り、口ひげの男をにらんだ。

 誰かを凄むのは、ひさしぶりだった。かつては眼光一つで震えあがらせたものだが、口ひげの男はまったく臆さずへらへら笑っている。熊耳が鈍ったのか、口ひげの男が鈍感なのか――おそらく両方なのだと思う。


「熊耳さん、宗田の死体があがったぞ」

「は?」


 思いがけない切り出しに、熊耳は混乱して頭が真っ白になった。これまで感じていた不信感や苛立ちさえも白に塗りつぶされて、呆けた顔で口ひげの男を見下ろす。


「やっぱり知らなかったんだな。ニュースくらい見たほうがいいぜ」

「宗田って、あの宗田か? どういうことなんだ……」

「どうもこうも、死んでたんだよ、あいつ。くわしいことはまだ何もわかっちゃいないが、興味はあるだろ。なんと言っても、宗田は戸代一家をつぶした張本人だからな」


 考えるよりも先に、手が出ていた。遅れて追いかけてくる怒りが、何に対しての怒りかわからぬまま口ひげ男の胸ぐらにつかみかかった。

 しかし、熊耳の指がサテンのシャツにふれる直前、あっさりと手を払われてバランスを崩す。勢いあまってよろめき、体が泳いで足がもつれた。熊耳が倒れないように精一杯踏ん張った結果、ひざをついて屈み込む形となった。道端の小石がズボン越しに刺さる感触があった。

 痛みよりも、屈辱によって顔が歪む。わずかに残る自尊心に、爪を立てられたような感覚だ。


「すっかり、なまっちまったようだな。昔のあんたはおっかなかったが、ここまで落ちぶれてるとは思わなかったよ。こんなんじゃ、仇も取れやしねえな」

「仇だと……何を言っている」


 組の大切な宝石を盗んだ宗田が死んだとなると、もはや恨みの対象は存在しないことになる。それなのに、仇も取れないと言う。本気で何を言っているのか理解できず、熊耳は困惑した。

 口ひげの男は黄ばんだ歯をむき出しにして、肩を揺すり笑う。


「宗田が戸代一家から盗んだ宝石は、まだ発見されてねえ。どこかにあるはずなんだが、どこにあるのか見当もつかない、いまムサシっていう小僧が探しちゃいるが、もうちょっと時間がかかりそうだ。ちなみに、ムサシは宗田の息子だそうだ」

「どうして、俺にそんなことを教える。俺にどうしてほしいんだ?」


「さあ、ここからが本題だ。実は、宝石を狙ってるのは俺たちだけじゃない。どうやら警察も――というか、刑事がひとり、こそこそとかぎまわっているらしい。邪魔な刑事を、熊耳さん、あんたに始末してもらいたい。俺たちは大っぴらに動けないもんでね、自由に動けるコマが必要なんだ。熊耳さんとしても、過去の因縁と決着つけたいだろ。戸代一家の落とし前だ」


 熊耳は視線を落とし、薄汚れたスニーカーのつま先を見ながら、ゆっくりと思索にふける。

 その姿をどうとらえたのか、口ひげの男は慌てた様子で対価をつけ足した。


「もちろん謝礼ははずむぞ。元はといえば、あんたらのものだしな。いまのクソみたいな生活から抜け出すのに充分な金は、用意するつもりだ。なんだったら、宗田の息子の命もくれてやるよ。煮るなり焼くなり好きにすればいい。ただし、宝石が見つかるまでは手を出してもらっちゃ困る。それだけは約束してほしい」


 口ひげの男はセカンドバッグから取り出したものを、ぽんと熊耳の前に放り投げた。


「おい、なんのつもりだ」

「当面の軍資金だよ。必要だろ」


 手にして、指先で感触を確かめ、投げ返す。口ひげの男の胸元に当たり、それは再び地面に落ちた。帯封がかかった札束だ。慣例通りならば、一万円紙幣が百枚揃っている。

 予想していなかった反応だったようで、口ひげの男は顔を強張らせて動揺した。口ひげが不自然に歪む。


「断るってのか?」

「ああ、当然だ。てめぇらの都合で動く気はない。戸代一家の落とし前だと言うなら、俺の好きにやらせてもらう」


 熊耳はひざを払って立ち上がり、軽く腰を叩いた。ここのところ、ずっと腰が痛かった。肩の凝りは取れないし、背中には張りがあり、足は重く、おまけに水虫だ。疲労が抜けにくく、倦怠感をつねにまとっている。若い頃のような思ったとおりに体を動かすことは、もうできなかった。それでも、いまが無理を通せる限界ぎりぎりの年齢だと感じる。


「その金はもらっといてやるよ。そいつでチャカを買ってこい。それと、シャブだ。日和った頭を叩き起こすには、これが一番手っ取り早い。お前らが俺を利用するなら、俺もお前らを利用する。お互いさまだ、構わねえよな」


 簡単に話に乗って、はたしていいものか。引っかかることはいくつもあったが、不信感をねじ伏せて熊耳は覚悟を決める。

 後悔でえぐられた心の穴を埋める機会は、これを逃すともうありそうにない。


「そういうことなら、まあ……」


 口ひげの男はなおも顔をひきつらせたまま、札束をひろいあげた。その目には、警戒心がこもっている。思惑から外れた着地点に、これでよかったのか迷っているといったところか。

 いい気味だと、熊耳はほくそ笑む。


「準備ができたら連絡しろ。待ってるぞ」


 熊耳は去り際に、ふと脳裏をよぎった疑問を口にする。「おい、あのメガネ、玉木は――」そこまで言って、途中で止めた。「いや、いい。誰が絵図を描いてようが関係ない」


 やると決めた以上、よけいなことは考えない。とことんやるだけだ。それが、熊耳の生き方だった。

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