<6-1>
まだ睡魔が頭の芯に居座ったままの状態で出署した細谷を待っていたのは、腕組した渋面の刑事課長だった。刑事課に入るやいなや、笹沼は手招きして細谷を呼び寄せる。
いい予感はしなかった。ためらいがちに課長席に近づくと、犯罪者に向けるような鋭い視線に射貫かれる。
「お、おはようございます」
「ああ、おはよう。細谷、ちょっといいか――」
笹沼の目が、ちらりと刑事課の外に向いた。同僚がいるなかでは、話せない事柄のようだ。
無言でうなずき、先立って刑事課部屋を出る。笹沼は二言三言部下に指示を送り、遅れて廊下にやってきた。不機嫌と不信感が混じりあったような顔が、周囲をぐるりと見渡した。
朝の警察署は、一般の企業がそうであるように、慌ただしい空気に満たされていた。小走りで廊下を通り抜ける女性職員を見送り、スマホの通話相手に荒い口調でまくし立てる刑事が遠ざかるのを待つ。人通りが尽きることはない。
笹沼は軽くあごを振って、ふたりきりで話せる場所を指し示した。細谷は露骨に顔をしかめる。確かに邪魔立てされることはないだろうが、あまり乗り気にはなれない場所だ。
しかし、直属の上司の命令を拒否するわけにもいかず、細谷はしぶしぶとその部屋のドアノブを回した。狭い部屋の中央に机が置かれ、向かい合わせになるように椅子が設置されている。取調室だ。
「まあ、座れ」と、笹沼は手前の椅子に座る。必然的に、奥の椅子が細谷の席となる。
取り調べの際は、笹沼が刑事側、細谷が容疑者側となる位置取りだ。意図したものでなかったとしても、自然と緊張感が高まった。
細谷はマジックミラーとなっている鏡窓を一瞥したあと、正面の笹沼に目をやった。まさか盗み見している誰かがいるとは思えないが、注意が向くのは刑事の
「細谷、宗田のことを調べているのか?」
単刀直入な問いかけに、細谷は絶句する。張りついた仏頂面の内側に、じわじわと困惑が広がっていった。
「どうなんだ?」
「ええ、まあ……」
しかたなく正直に答える。嘘をついたところで意味はないだろう。呼びだされた時点で、すでに知られているとみて間違いない。
頭のなかで、密告の犯人探しがはじまる――が、考えるまでもないことに、すぐに気がついた。警察内部で、細谷が秘密裏に活動していることを知る人物はひとりしかいない。調査を頼んだ本部暴力団対策課の辻だ。細谷は悪態の呪詛を、同期の警官に念で送った。
「あまり深入りするなよ、目をつけられるぞ」
「それは、佐久間警部にですか? 佐久間警部は、いったい宗田の事件とどういう関わりがあるのですか?」
笹沼は肩をすくめて、短く息をついた。眉間に寄った深いしわが、言葉よりも明確に笹沼の迷いをあらわしていた。
「さあな、くわしいことは知らん。ただ佐久間さんは、強引な手法で捜査に当たることで有名だった。敵にまわすと厄介だぞ。そうでなくとも細谷は風当たりが強い立場なんだ、用心したほうがいい」
「はい」と、口にしたものの、素直に従う気はなかった。
警察官という職に執着があるわけではない。辞めるに辞められず、惰性でつづけてきただけだ。この件が問題になり、クビになったとしても、それはそれで構わないと思っていた。
そんな細谷の心うちを見抜いているかのように、笹沼は長いため息をついて首を左右に振った。諦めに近い感情が、じわりとこぼれだすのを感じる。
「とにかく、忠告はしたからな。無茶はするなよ」
先に席を立った笹沼を見送り、ひとり取調室に残された細谷は、すぐさまスマホを取り出して電話をかけた。辻に文句をぶちまけないと、気がおさまりそうになかった。
なかなか電話はつながらず、延々と繰り返される呼び出し音に苛立つ。そのうち呼び出し音のリズムに乗って、貧乏揺すりがはじまった。机の足に振動が伝わり、がたがたと弾むように揺れ動く。これが容疑者の行動ならば、刑事は凄みを利かせて制止するだろう。
五分ほどして、ようやく通話に切り替わった。「なんだよ、おい」辻の抑え込んだ小声がスピーカーから流れる。
「何やってたんだ、早く出ろ!」
「バカ、大声出すんじゃない。いま細谷と連絡とっていることがバレるとまずいんだ。わざわざトイレの個室に隠れて受けてやってるんだぞ、感謝しろよ」
「まずいって、どういうことだ?」
「連絡してきたのは、どうせ調査の話がもれたことで怒ってるんだろ。それは、まあ、俺の落ち度かもしれないが、こっちはこっちで大変なんだ」
「佐久間が横やりを入れてきたか」
一瞬の沈黙のあと、辻はくぐもったうなり声をあげた。
「佐久間って、捜査一課の
「それは変だな。どうなってんだ……」
佐久間は暴力団対策課にも顔が利くということだろうか。それとも、別の勢力が存在しているのだろうか。現状ではどちらとも判断できない。
貧乏ゆすりがさらに激しくなり、一層机が暴れまわる。細谷はタバコが吸いたいと、切に思った。
「先輩に、また細谷が連絡してきたら報告しろって言われてる。ほんと何をやってるんだ?」
「聞かないほうがいい。これ以上関わると、辻も上に目をつけられることになる」
「まったく、厄介ごとに好かれてるな、お前は。もう助けられそうにないけど、その代わり、集めたカワタジロウの情報を送ってやるよ。今度なんかおごれよな」
「ああ、わかった。好きなだけおごってやるよ、うまくいったらな」
通話が切れた直後に、メッセージアプリから川田の情報が流れてくる。素早く目を通し、内容を頭に入れて、念のために削除した。
川田次郎はT市警察署、生活安全課に所属していた警察官だった。素行が悪く、署内での評判もよくなかった。悪い噂が絶えず、「ヤクザとつるんでいる」「麻薬の売人と親しい」など、醜聞は枚挙にいとまがない。ただ明確に不祥事を起こしたことはなく、素行不良で注意を受けることはあっても処罰された記録はないという。早期退職して警察を辞めて以降は、職を転々としているようだ。
宗田の宝石強盗を知っていても不思議はない経歴である。問題は、佐久間との関係だ。佐久間は、川田の存在を警戒していた。本部捜査一課のエリートと、所轄の悪徳警官の間にいったい何があるのだろうか。
細谷は思考を巡らせながら取調室を出て、ふらふらと刑事課の自席に戻る。
そのタイミングを見計らっていたように、備えつけの電話が鳴った。着信元を類別する赤いランプは、内線を示していた。受話器を取り、「もしもし」と応対する。
「あっ、細谷巡査長ですか。えっと、お客さんが――」
「ほら、もっとテキパキする!」と、すかさず注意が入る。おそらく窓口の新人を教育中なのだろう。
「は、はい、わかりました」受話器に口を添えたまま先輩に返事した新人は、つづけて用件に戻った。「細谷巡査長にお会いしたいという女の子が来てます。名前は三森さんです」
その名前を聞いた瞬間、ぞくりと悪寒が走る。細谷は叩きつけるように受話器を置いて、大急ぎで飛び出した。刑事課は署の三階にあったが、エレベーターを待つ時間を惜しんで階段を駆け下りる。
一分とかからず一階の受付窓口に到着。壁に貼られた特殊詐欺を注意喚起するポスターを、ぼけっと見ているブレザー制服姿の少女を発見した。三森鏡子だ。
彼女も細谷に気づき、笑顔で手を振り声をかけてきた。警察署では場違いな姿で、場違いな明るい声で。
「刑事さん、来ちゃった」
細谷はブレザーの襟をつかむと、問答無用で引きずっていく。一刻も早くこの場を離れなければ、細谷の沽券にかかわる。そんなものがあればの話だが。
受付窓口に座るふたりの女性職員は、あんぐりと口を開けて、少女が刑事に連れられていく姿を呆然と見送った。
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