<3-1>

「127」

 秦武蔵はた むさしがぶっきらぼうに数字を唱えると、ベトナム人のコンビニ店員は慣れた様子で煙草棚に手を伸ばした。


「三箱くれ」

「リョーカイ」と、鼻にかかった声が返ってくる。店員は器用に片手で加熱式煙草用のボックスを三箱つかみ取った。


 代金を払い、「アリガトシター」というたどたどしい挨拶を背に店を出たところで、面した道路を大型トラックが猛スピードで駆け抜けていくのを目撃する。夜闇を切り裂くヘッドライトで目がくらむ。


 トラックが通りすぎた後の夜道は、暗闇と静寂に包まれていた。町工場が軒を連ねる工業地域は、就業を終えた夜間になると、まるで町自体が死に絶えたように生気が失われる。人の気配はなく、音も明かりもない。唯一闇を照らすかがり火は、このコンビニくらいのものだ。日が昇り町が息を吹き返すまで、この界隈は幽鬼がうごめく墓場の様相をていした。

 武蔵も、幽鬼のひとりだ。日の当たる場所で生きることができない。


 町工場にはさまれた細い路地を通って、入り組んだ裏道を進んでいくと、ぽつんとたたずむ淡い外灯が目印の四階建てビルに行き当たる。ビル脇に設置された階段を上った先が、武蔵の勤め口だ。

 指定暴力団、四代目大東會名瀬組。今年二四歳になった武蔵は、三年前から名瀬組の世話になっていた。


 かつては繁華街近くに事務所を構えていたそうだが、暴力団排除条例が施行され、地域から追い立てられて現在の所在地に落ち着いたそうだ。人の目を気にしないで済むのは利点であるが、組員の集まりは悪くなったと直属の兄貴分が嘆いていた。


 だが、今夜は珍しく幹部が集まっている。一番下っ端の武蔵は忙しく雑務をこなし、いまも若頭補佐である諏訪辰巳すわ たつみの煙草を買いにいった帰りだ。

 幹部の前で、へまはしたくなかった。改めて気を引き締めて階段に足を踏み出した瞬間、ふいにポケットから振動を感じた。

 武蔵は手を差し入れて、スマホを取り出す。表示された通知を目にし、ため息がこぼれた。


「もしもし、どうした?」

「ムサシ、お願いがある。今日さ、うちに寄ってクロードの様子を見てくんないかな。出がけにゲロ吐いてたから心配なんだ。あたしも店が終わったらすぐ戻るから、それまでいっしょにいてあげてよ」

「あのなぁ、愛歌。こっちはこっちで大変なんだ。いつ帰れるかもわからねえし、お前んちに寄れるかもわからねえぞ」


 電話の相手は、重野愛歌しげの あいか。小学校時代の同級生で、成人してから再会し、時折肌を重ねる間柄となった女だ。恋人であるとは、武蔵は思っていない。おそらく愛歌も思っていないことだろう。でも、この町で寄り添える相手は、互いだけだと思っている。そんな微妙な関係だ。


 愛歌はキャバクラ勤めで、ペットである猫のクロードを溺愛していた。黒い毛並みだからクロードと名づけられた猫が体調を崩すと、決まって武蔵に助けを求めてきた。クロードを武蔵もかわいがっていたので、できることなら手助けしてやりたいところだが、今日ばかりはタイミングが悪い。まさか幹部の目を盗んで、猫の様子を見に行くなどやれるはずがなかった。


「猫がゲロを吐くのは珍しくない。きっと大丈夫だ、心配する必要はないだろ」

「でも、もしも何かの病気だったら……」

「だとしても、すぐくたばるなんてことはないさ。こっちの用事が済んだら、遅くなったとしても家にいってやるよ。だから、安心しろ」


 不安を払拭するには、まだ充分とは言い難い説得だったが、愛歌はどうにか納得してくれた。接客という電話をつづけられない現実的な理由も、関係していたとは思う。


 通話を終えた武蔵は、心持ち急いで階段を上がり、事務所のドアを開けた。その場にいた組員全員が、一斉に武蔵を見た。襲撃を用心してのことだ。向けられた鋭い視線の威圧感に、ひざが不格好にわななく。


「あ、あの、諏訪のアニキの煙草買ってきました……」

「少し待ってろ。いま話し中だ」


 兄貴分の指示に従い、普段よりも人口密度の高い事務所のなかで居場所を求めて部屋の隅に行きつき、直立不動の姿勢で待機する。

 名瀬組の事務所は、階段上の玄関から入ってすぐに大部屋となっており、廊下を通って奥に三部屋連なっている間取りとなっていた。一階部分は駐車場、三階はシノギの作業場、四階は組長と若頭の私室という造りだ。


 組長は半隠居状態で、入会する際に会った一度きりしか事務所で姿を見ていない。組を仕切っている若頭も、月に数度顔を出す程度だ。事務所を実質監督しているのは、若頭補佐の諏訪だった。面倒見がいいとは言い難い軽薄な男だが、若頭の一番の舎弟というだけで年功序列的に補佐におさまっている。諏訪にひろわれて名瀬組の盃をもらった武蔵にとって、恩人と呼べる兄貴分であったが、尊敬できるかと言えばそれはまた別の話だった。


 その諏訪が、奥の部屋から出てきた。若作りした金髪のオールバックは間違えようがない。武蔵は深く頭を垂れてお辞儀し、買ってきた煙草を差し出す。


「おう、ご苦労」


 おざなりなねぎらいの言葉の後、財布から千円札を取り出して代金が支払われる。足りないとは言えなかった。


「ムサシ、カシラのとこに行け。話があるそうだ」

「えっ、俺とですか?」


 若頭の玉木貢たまき みつぐとは、これまで会話らしい会話を交わしたことがなかった。顔をあわせても挨拶するので精一杯、それくらい立場がちがう。

 わけがわからぬまま押し出されて、奥の部屋に通された。ソファに深く腰かけた玉木は、縁の細い眼鏡越しに武蔵を見上げた。神経質そうな顔立ちに、倍近い年齢差をあらわす加齢の跡が刻まれている。


 武蔵は緊張で声が出せず、ただ放心したように突っ立っていた。額から吹き出した汗がまなじりに届き、目がひりひりと傷む。

 無言で値踏みするように見つめていた玉木は、短く息をつき、スーツの胸元を探りはじめた。しばらくして、苦笑い。おそらく煙草を吸おうとして、禁煙中だったことを思い出したのだろう。玉木が禁煙しているという話は、まるで一大事件であるかのように諏訪が事務所でふれまわっていた。


「まあ、座れ。少し聞きたいことがある」


 武蔵はためらいがちに向かいの席に座る。尻は浅く、背筋はぴんと伸ばして。


「そう固くなるなよ。別に責めるような話じゃない、お前の親父のことだ」

「は、はい」と、やっとの思いで声を吐きだしたあと、遅れて言葉の意味が伝わり困惑がわき起こる。「親父、ですか?」


 玉木はうなずくと同時に、眼鏡を押し上げた。レンズの奥で伏せた目に、かすかな逡巡を感じ取った。


「宗田康司の死体があがったそうだ。警察から連絡はきていないのか?」

「きてないです……。親父とお袋は離婚してて、俺はお袋に引き取られたから、無関係と思われてるのかもしれません。十年以上会ってなかったですし、俺もあいつを親とは思ってない」

「そうは言っても、血の繋がった肉親だろ。そのうち連絡がいくんじゃないか」

「そう、そうですかね」


 突然知らされた父の死に、頭が混乱する。動揺して視線が泳ぎ、あてどなくさまよった末に玉木の組んだ足にたどり着く。ぴかぴかに磨かれた革靴から、なぜか目が離せなかった。


「カ、カシラは、親父のこと知ってるんですか?」

「直接会ったことはないが、名前は聞いたことがある。同じ裏稼業ではあるが、近いようで遠い業界だからな、関わることはなかった。ただ近い場所で動かれると、否応なく噂は耳にするもんだ」


 その口ぶりはどこか遠まわしで、ためらいが感じられる。遠慮というべきだろうか。組のトップが、下の者に対する態度としては不自然だった。まるで後ろ暗いことが、あるかのようだ。

 武蔵は違和感を振り払おうと、普段は決して崩さない服従姿勢を解く。


「親父に何があったんですか。教えてください!」


 疑問に直面したことで、その分頭を乗っ取っていた混乱が押し出され、にごっていた意識がはっきりとする。強い視線を向けられて、玉木は若干うろたえたようだった。


「もう潰れちまったが、昔このあたりにはうちとは別のヤクザ、戸代一家という組があった。宗田は、戸代一家がためこんだ金を盗んだ。ただの金じゃないぞ、クスリを買うために借金をしてまで集めた三億円もの大金だ。宝石に替えて、それで取引するつもりだったようだ。その宝石を盗んで消えた宗田が、いまになって死体となって戻ってきやがった。諏訪は宝石の行方を気にしている。息子のお前なら、それを知ってるんじゃないかと思ってるようだ」


 驚愕で声が上ずる。「そんなの知りませんよ。親父とはずっと会ってないんだ、知りようがない!」

 玉木は眼鏡のフレームを指で調整しながら、「だよなぁ」とつぶやく。


「だが、どこかに宝石があることは確かだ。戸代一家が用意していた宝石のなかには、希少価値の高い特殊なダイヤがあったそうなんだが、換金された形跡がない。宝石を盗まれたのが一二年前、宗田の死亡時期もだいたい同じ頃らしいから海外で売りさばいたって可能性は低いだろう。そうなると、当然この国のどこかに宝石はまだ隠されてると考えるのが道理だ」


 説明を一つ一つ咀嚼して、理解が及ぶと顔を上げた。武蔵の顔に、これまで経験したことのない緊張が張りついていた。

 なぜか玉木は、苦虫をかみ潰したような表情を浮かべる。


「親父が盗んだ宝石を見つけろってことですか?」

「そうじゃない。そうじゃないが……見つけられるなら、それに越したことはないだろ。見つけた金は、お前のもんだ。組に融通してもいいってんなら、ありがたい話ではある」


 武蔵はごくりと喉を鳴らし、ひざに置いた手を強く握りしめた。三億円という途方もない金額に、気後れもするが欲望もわいてくる。それだけの金があれば、確実に人生は変わるはずだ。


 その後、しばらく玉木と話をつづけたが、何を語ったのかほとんどおぼえていない。気がつくと玉木は席を立っており、慌てて腰を上げた武蔵は見送りの儀式として深々と頭を下げた。


 幹部の集まりは、そのままお開きとなった。他の要件はなかったようで、状況的に見て宗田の件が本題だったのだろう。

 幹部が去ると、事務所にはいつもの顔ぶれが残される。若頭補佐の諏訪は、やけに上機嫌で終始なごやかだった。


「おい、今日は店じまいして飲みにいくか」


 ケチな諏訪にしては珍しい誘いだ。よく知る組員は表におくびにも出さないが、内心困惑する。


「あの、アニキ、俺はちょっと……」

「ムサシ、てめぇ何を言ってんだ。せっかくアニキが誘ってくれてんだぞ。失礼だろうが!」


 怒声を投げつける兄貴分の保塚常義ほづか つねよしに対しても、諏訪は寛容な態度で接した。諏訪の腰ぎんちゃくである保塚でさえ、驚いて目を丸くする。不気味なおおらかさに、猜疑心がわく。


「まあ、いいじゃねえか。ムサシにはやることがあるんだ。無理に付き合わせることはない。俺たちは先に出るから、戸締り任せたぞ」

「はい、わかりました」


 すでに酔っているかのように意気揚々と事務所を後にする諏訪たちを見送った武蔵は、手早く掃除と片付けを済ませて電気を落とした。暗がりのなか、手探りで事務所のドアに鍵をかけ、薄い外灯の明かりを頼りに階段を下りる。


 頭は三億円のことでいっぱいだった。他に何物も入る余地がない。

 だが、夜道に足を踏み出した瞬間、ふとひとつの疑念が脳裏をかすめる。

 武蔵は立ち止まり、空を見上げた。うす雲に覆われた月が、ぼんやりと輪郭をにじませている。


「俺、誰にも言ってないよな……」


 犯罪者の子供であることを、武蔵はひた隠しにして生きてきた。ヤクザとなってからも、そのことを口外したことはない。それなのに、玉木は武蔵の血縁者を認識していた。

 背筋に冷たいものが走る。武蔵は言い知れぬ不安を振り払うように、半ば駆け足となって家路を急いだ。

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