<14ー3>
「おい、死んでないだろうな」
耳に届いたかすんだ声で、細谷は目を覚ました。伏せた視線の先に左足が映る、左足だけだ。左目がふさがって、そこにあるはずの右足を視認できなかった。
細谷は小さく息を吐き、重い頭をゆっくりと持ち上げた。ちょっとした動作で体に痛みが走る。
「なんだよ、もう少し休ませてくれよ……」
口を開くと赤く染まった唾液が、唇の端からこぼれ落ちた。粘ついた滴が顎のラインに沿って、とろとろと垂れる感触があった。
目の前にいたのは、はじめて見る男だ。縁の細い眼鏡の奥から、鋭い眼差しが向けられている。
「ボロボロだな。ちょっとやりすぎなんじゃないか」
「いやぁ、カシラ、こいつイカれてんですよ。殴られたいんじゃねえかってくらい、自分から煽ってきやがんだ。刑事のくせに頭のネジが飛んでやがる」
眼鏡の男の後ろから諏訪が顔を出す。その呼び名、言動から何者であるかはすぐに判明した。
「カシラってことは、あんたが親玉か」
「その言い方は少しちがうな。若頭の玉木だ、あいにく俺は親じゃない」
「名瀬組は実質あんたの組だって聞いてるぞ。手広くやって稼いでんだろ」
「買いかぶりだよ、刑事さん。いまどきヤクザはどこも斜陽産業だ、儲けなんてでちゃいない」
玉木はうすく笑い、眼鏡を押し上げた。自嘲混じりのセリフだが、自嘲の響きはこもっていない。まとった高級そうなスーツからも自嘲の気配はない、安物スーツを血に染めた細谷からすれば、むしろ自慢だ。
思わず舌打ち――が、口のなかが切れて、うまく音が鳴らなかった。
「まあ、どうだっていいや。それより、煙草、一本でいいから吸わせてくれよ」
「悪いが、ここは禁煙だ。吸うなら外で吸ってくれ」
「外に出してくれるのか?」
軽く肩をすくめて、玉木はちらりと諏訪を見た。諏訪はぎこちなく愛想笑いを浮かべる。出してくれる気はなさそうだ。
細谷はがっくりとうなだれ、足下に目を落とす。左側半分が閉ざされた視界に、凝固した血の粒がパラパラと雪のように降っていた。赤黒い不気味で不潔な粉雪だ。
「ちゃんとやれるんだろうな。下手を打って、組の看板に泥を塗るようなまねだけはするなよ」
「ええ、任せてください。主導権はこっちにあるんだ、やってみせますよ」
「だといいがな。俺は尻ぬぐいはしないぞ、決めたのは辰巳だ」
頭上で交わされる会話に、細谷は少し引っかかるものがあった。おそらく今回の件についての意見なのだろうが、どうも玉木は他人事のように一線を引いているふうに感じたのだ。
ちらりと玉木を盗み見て表情を探るが、すべてを理詰めで行う機械のような冷たい顔つきからは、読み解けるものは何もなかった。
もしかすると、名瀬組全体で執り行っているわけではなく、諏訪個人の裁量で動いているのかもしれない――そんなことを考える。
「なあ、煙草は我慢するから飲み物くれよ。喉が渇いてしょうがないんだ。それと食い物もほしい。ただ口のなかがズタズタだから固いものは食えそうにない。飲むゼリーのあれ、買ってきてくれ」
「てめぇ、自分の立場わかってんのか!」
諏訪が頭突きしそうな勢いで、顔を寄せて吠える。怒号ととも放たれた唾が降りかかり、細谷は椅子が傾ぐほどに背をそらした。
「いいじゃないか、買ってきてやれ」
腕を引いて玉木が離してくれなければ、また生傷が増えていたことだろう。若頭に逆らえない補佐は、納得とはほど遠い表情ながらも、しぶしぶ握り締めた拳を解いた。
「カシラがそう言うんなら……」
玉木は軽く諏訪の肩を叩き、几帳面な性質をあらわす規則正しい歩調で部屋を出ていく。最後に、「わかってると思うが、バラすときはよそでやれよ。組の迷惑になる」という物騒な言葉を残して立ち去った。
ぎょっとして身構えた細谷に、諏訪はにやけた面を近づける。心底苛つく顔だ。いつか叩きのめすと心に誓う。
「特別に、お前の願いをかなえてやるよ。最後の晩餐になるかもしれねえからな」
「飲むゼリーが最後の晩餐とは笑えない話だ」
玉木につづき、諏訪も部屋を後にした。ぽつんと残された細谷は拘束が解けないものか試行錯誤を重ねるが、弱った体では簡単にはいかない。
力を振り絞ること十分ほど、扉が開く音を耳にして細谷はタイムアップを悟る。気だるげに視線を向けた先には、コンビニの袋を手にした武蔵がいた。
そして、その背中からひょっこり飛び出してきた小さな人影。
「うわぁ、細谷さん、ボッコボコ。痛そー」
思いがけない少女の登場に、細谷は目を丸くする。鏡子だ。
不安と心配が入り混じったか細い声であったが、その顔には抑えきれない笑顔がこぼれていた。
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