<15ー1>
「お、お前、なんで――」
仰天して声を荒らげた細谷の口を、武蔵は慌ててふさいだ。細谷は目を白黒させて、困惑を腫れた顔の上に作りあげる。
「静かに。下に気づかれてしまう」
耳元で告げると、すぐにおとなしくなった。状況を飲みこめているとは到底思えないが、騒ぐことが悪手になると理解している。顔とちがって、頭はまだ正常なようだ。
武蔵は背後にまわり、ナイフで指をつなげた結束バンドを慎重に切り取った。同じように足の拘束も解く。
数時間ぶりに自由になった細谷は、大きく息をついて立ち上がり、何度も指を折り曲げて感覚を確かめた。拘束時間が長かったせいで、指が麻痺しているらしく、先っぽのほうが真っ白になっている。
「おい、何がどうなってんだ」
細谷はミネラルウォーターのペットボトルを受け取りながら、警戒心でコーティングした固い声を発した。
武蔵と鏡子は顔を見合わせる。どこから話せばいいものか、少し迷った。
「刑事課長に連絡しろって、言っておいたよな。なんで、お前がきてんだ」
「だって、刑事課長さんに伝えたら、そこでおしまいになっちゃうじゃん。わたしが助けたら、まだ宝石探しをつづけられる」
「どうしてそうなるんだ。俺が捕まった時点で、もうおしまいなんだよ」
「だから、助けた」と、鏡子は堂々と言ってのけた。
あ然として言葉が出なかった細谷だが、遅れて腹の底で暴れ出した苛立ちに顔を歪ませ、乱れた髪をかきむしることで感情を吐き出した。気持ちはよくわかる。
「くそっ、このガキ、まったく言うこと聞かねえ……」
細谷は、武蔵と会う約束を取りつけた時点で保険をかけていた。すでに武蔵が裏切っている可能性を考慮していたわけだ。
待ち合わせ時間の午後一時――それから二時間後の、午後三時になっても鏡子に連絡がなかった場合、不測の事態に陥ったと推定してW署の刑事課長に事情を伝え救援してもらう手はずになっていたのだ。だが、鏡子は申し合わせを無視して、独断で救助することを決める。
武蔵に連絡が入ったのは、諏訪に買物を頼まれた直後だ。細谷に渡す水と飲むゼリーを求めてコンビニに向かっている途中、鏡子から電話がかかってきた。
話を聞いた武蔵は、悩んだ末に協力することにした。鏡子と合流して名瀬組の事務所に戻り、品物を届ける名目で細谷が囚われている三階にいく。当初は鏡子を連れ立っていく予定ではなかったが、別件で外出した玉木とそれにつき従っていった諏訪はおらず、残りの保塚を含めた四人の組員は二階の大部屋に集まっており、廊下を通っても見つからない――と、鏡子が勝手に判断して、無理やりついてきたのだ。本当に人の言うことを聞かない。
「それで、なんでムサシは俺を助ける」
言い終えてから、細谷はミネラルウォーターでうがいをして、水を吐き出した。床に血が混じった小さな水たまりが生まれる。
「そりゃあ……悪いことをしたと思ったからだ。ここまでひどいことになるとは考えてなかった」
「これも罠じゃないだろうな」
「ち、ちがう。細谷さんを助けたんだ、俺も後戻りできない」
同情心があったのは、本当のことだ。殴られる細谷を見て胸が痛んだ。
だが、それ以上に心揺さぶられたのは、熊耳に襲われたときの言葉だった。『親がどんなにクズだろうと、ガキに罪はない。まったくの無関係だ』それは犯罪者の息子として生きてきた武蔵にとって、子供の頃に言ってもらいたかった言葉だ。
武蔵自身ヤクザとなって汚れた人生を歩むようになり、もはや意味のない言葉であるが、ほんの少し救われた気持ちになった。同時に、細谷に死んでほしくないと強く思った。それが鏡子に協力した理由だ。
「どこまで本当なんだか」と、うたがわしそうに細谷が言った。一度は裏切った身だ、その疑心を武蔵は甘んじて受け入れる。しかし、そこで停滞している時間がないのも事実だ。
「じゃあ、どうする。俺をうたがって、ここに残るかい?」
「……いや、逃げる」
細谷はもったいぶった態度で、ゆっくりと扉に向かって歩きだした。ドアノブをつかみ、開ける。そこでぴたりと動きを止めた。
武蔵の位置からは、驚愕の表情を浮かべた横顔しか見えない。
「あっ」と、細谷が言った。一拍遅れて、「あっ」と返しがあった。
ちょうど様子を見に、保塚が階段を昇ってきていたところだったのだ。我に返った細谷は、一瞬のためらいもなく容赦なく顔面を蹴りつけた。
「てめぇ、この野郎!」という怒号とともに、保塚は大きな音を立てて階段を落ちていく。当然それは、二階大部屋に詰めた組員にも届いているはずだ。
「くそっ、いきなり見つかった!」
細谷は部屋からデスクをひきずり出して、階段の下に蹴落とす。紙吹雪のように引き出しの書類を撒き散らして、デスクは段差を跳ねながら落ちていった。保塚は這う這うの体で逃れる。
間髪入れずに二つ目のデスクを落とす。「細谷さん、これも!」と、鏡子が喜々として椅子を持っていった。
「おい、どうするんだよ。これじゃあ逃げられねえぞ」
進路をふさぐことも必要だが、これでは退路をふさぐことにもなる。武蔵はこっそりと階下を覗きこんで、組員の動向を探った。
荒事に慣れたヤクザであっても、さすがに事務用具が降ってくる階段は恐ろしいようで、突破をためらっている。被害が及ばないギリギリの位置から踏み出せないでいた。
「上から逃げられないのか?」
「できるわけないだろ。他に出入口はないんだ、無茶でも階段を下りるしかない!」
「いや駄目だ、上にいこう。どうにかして上から逃げるしかないぞ」
細谷と鏡子は協力して重量感のあるスチール製の書類棚を引っ張りだし、強引に叩き落とした。こんなところだけ息があっている。
しかし、書類棚が大きすぎて階段途中の壁に引っかかってしまう。行く手をはばむ障害物となったが、これでは投げつける事務用具を防ぐ盾としても機能する。細谷の言うとおり、もう上にいくしかなくなってしまった。
「しかたない、いくぞ!」
武蔵はふたりを連れて廊下を駆け、四階へつづく階段を昇る。四階は組長と若頭の私室となっているのだが、両部屋とも鍵かかって入れなかった。
無理をすれば、扉をこじ開けるのは可能かもしれない。だが、そうしたところで袋小路に追い詰められるだけで、逃げ場所としては最適とは言えなかった。
瞬間的に考えを巡らせ、武蔵は廊下の奥に目をやる。その先にも階段があり、屋上につながっていた。屋上は正真正銘事務所ビルの終点で、そこに出口は存在しない。ただ屋外に出るという意味では、屋上も外と言えなくはなかった。何か脱出する方法があるかもしれないと、淡い期待を抱く。
「こっちだ」と、武蔵は先導してさらに階段を昇る。行き着いた扉を開け放つと、日没直後のかぎりなく黒に近い濃い藍色の空から、針のように細い雨が降り注いでいた。
「降ってきたか……」
手のひらで雨粒を受けて、細谷がつぶやく。空を覆った黒雲の群れは、まるでボンドで固められたように身動きひとつしない。しばらく雨天はつづきそうだ。
武蔵は素早く周囲を見渡し、屋上の状態を見極める。色褪せた鉄柵で囲われた屋上は、多少の段差はあるものの一面コンクリートをならしただけの質素な造りであった。目に入る異物は数えるほどしかない。
そのうちひとつを、細谷が蹴飛ばした。筒状の灰皿だ。「ヤクザがこんなとこに喫煙所作ってんじゃねえよ!」よくわからない怒りだった。
細谷から目をそむけて、武蔵は屋上の際までいって逃走経路を模索する。
眼下に電灯の白い明りが見えた。高さはだいたい二階のあたり、飛びついて滑り棒の要領で滑り降りる――考えただけでも恐ろしい。曲芸師じゃあるまいし、絶対にできるわけがない。
それなら壁伝いに降りられないか確認したが、これも難しそうだ。雨という最悪のコンディションにくわえて、武蔵はともかく怪我人の細谷と体力的に厳しい少女の鏡子である。ふたりを連れていくのは不可能だ。
「いいこと思いついた!」
同じようにビル下をのぞきこんでいた鏡子が、うれしそうに手を合わせた。パンと小気味よい音が屋上に響く。
「細谷さん、スーツ脱いで。上着だけでいいから」
「はあ、なんで?」
「言うとおりにして。早く早く!」
鏡子は半ば強奪するように細谷から上着を脱がせ、それを武蔵に押しつけた。意味がわからず、武蔵はきょとんとする。
「スーツ着て」と、今度は背後にまわってスーツに袖を通させる。
わけがわからず武蔵は困惑し、助けを求めて細谷を見るが、そこにも同じ困惑があるだけだった。
鏡子はもう一度ビル下をのぞきこんで、とんでもないことを言う。「ムサシくん、飛んで」と。
「お前、何を言ってんだ?!」
「ほら、ムサシくんなら隣のビルに飛び移れると思うんだ。ちょっと距離はあるけど、手すりの上から飛べば届くんじゃないかな」
事務所の隣には、去年廃業した電気設備会社のビルがあった。売り物件となっているがまだ買い手がつかず、空きビルとなっている。細い路地をはさんで建てられたビルまでの距離は、約二メートルほど。鏡子の言うとおり、やってやれない距離ではない。ただし、それは高度がつりあっている場合だ。隣のビルは三階建てだった。
「なんでスーツ着せたんだ?」
「ムサシくんを細谷さんと勘違いさせることができたら、囮になるんじゃないかと思ったんだ。わたし達はどこかに身を隠して、ヤクザがムサシくんを追っていった隙に逃げ出すって寸法」
「なるほど」と、細谷は納得。武蔵からすれば、ひとつも「なるほど」と思う箇所がない。
階下から組員の怒鳴り声が聞こえた。書類棚を乗り越えて、ここまで追ってきている。迷っている猶予はなかった。
鏡子は細谷の腕を引いて、もうひとつの屋上の異物である二台並んだエアコンの室外機の裏に隠れた。雨と夜闇に遮られて、うまく姿を消している。
「ムサシくん、逃げきれたら、わたしん家で合流しよう」
そんな声が聞こえたが、緊張と動揺で右の耳から左の耳に抜けていく。雨に濡れているというのに、全身が渇いていくような錯覚に陥った。
「こら、くそ刑事、どこいきやがった!」
保塚が叫びながら階段を駆けあがってくる。あと数秒後には屋上の扉は開く。
いつまでも覚悟を決められないでいた武蔵だが、差し迫った脅威に押しだされるように手すりに足をかけた。それは覚悟ではなく、自棄といったほうが正しい行動だった。
扉が開くと同時に両足に力を込めて、武蔵は夜空に飛びあがった。
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