<2-2>

川田次郎かわた じろうだ。よろしくな」


 男は軽薄な笑みを浮かべて名乗り、握手を求めてきた。

 細谷は差しだされた手をちらりと見たが、あけすけに無視した。佐久間の勧告に従ったわけではなく、立ち振る舞いのうさん臭さが警戒心を抱かせる。元警察官と自称しているが、それもどこまで信用していいものか。


「つれない奴だな。少しは先輩を敬ったらどうだ」

「話すことなんてなんもねぇよ。俺は事件とは無関係だ、何も知らない」

「だったら、俺が知ってることを教えてやろうか。きっと興味が出てくるぞ」


 細谷のぞんざいな態度にもめげず、川田はお構いなしにすり寄ってくる。この場から早く脱出しようと、車に乗り込むためにドアノブをつかむが、ほんの少し開いたところで手で押しとどめられた。ほっそりとした体躯のわりに、意外と力が強い。

 無理をすれば押しのけられるだろうが、署の駐車場で暴力沙汰はまずい。常識的な判断が、細谷の抵抗を縛りつける。


「細谷、お前は宗田康司のことをどこまで知ってる?」


 川田は勝手に話しはじめる。げんなりして、ため息がもれた。


「経歴だけ見れば、ただのだ。前科三犯、どれもケチな窃盗で捕まっている。はっきり言って、目くじら立てて追いかけるほどの価値もない小物だ。しかし、最後の仕事だけは、身の丈にあわないやばいヤマに手を出したんじゃねえかって言われている」

「最後の仕事?」


 思わず反応してしまい、一瞬遅れて細谷は顔をしかめた。

 川田はにんまりと口元を緩めて、細谷の肩を親しげに揉む。筋張った指の感触がうっとおしくて、体を揺すって手から逃れた。


「戸代一家って知ってるか。まあ、知らねぇよな、十年以上前に潰れた暴力団だ。ここらで名の知れたヤクザと言えば、大東會系の名瀬組だが、昔は戸代一家もずいぶんと幅を利かせていた。この二つの暴力団は系列こそ違うが、上同士が親しい間柄らしくてな、ヤクザのくせに生意気にも不可侵条約を結んで、うまいこと共存してやがった。そうは言っても生き馬の目を抜く業界だ、経済観念で劣っていた戸代一家はだんだんと落ちぶれていく。このままでは面白くない戸代一家は、一発逆転を狙ってでかいシノギを計画していたらしい。方々から金を集めて軍資金をためこんでいたそうだが、その金が消えた」


 川田の語り口調はなめらかで、まるではじめから用意されていた芝居セリフのようだった。

 腹の底で、疑念の虫がちくりと刺すが、ここまできて聞き流すことはできない。つづきが気になる。川田の目論見通りとなるのは悔しいが、細谷はこの事件に興味を持ちはじめていた。

 せめてもの抵抗で不機嫌な顔を維持し、ふらりと車から離れる。


「おいおい、どこ行くんだ?」

「一服してから出かけることにした」


 警察署は全面禁煙となっており、駐車場の脇に喫煙所とは名ばかりの灰皿だけが設置してあるうらぶれたスペースがあった。細谷は煙草をくわえて、火をつける。しばらく川田の様子を盗み見ていたが、煙草を吸う気配はなかった。

 かつて刑事課部屋の天井は紫煙で曇っていたと聞くが、現在喫煙者の刑事は細谷を含めて三人だけ。警察でも喫煙者は肩身がせまい。


「それで、その戸代一家の金を、宗田が盗んだってわけか?」

「さてな、そいつはわからない。確定情報は何もないんだ、言いきることはできない。ただ宗田が消えた直後に、ゴタゴタがあって戸代一家が潰れたのは確かだ。集めた金が使われた形跡はない、どこに消えちまったのかも不明、そうなると誰の手に渡ったのか考えちまうよな」


 川田の説明では、宗田の仕業と思われる証拠は憶測にすぎなかった。しかし、こうして言葉にしている以上、なんらかの確たる情報をつかんでいるのは間違いないだろう。細谷に告げないのはまだ信用に足らないという判断か、もしくは現役刑事に伝えるには情報源に問題があると判断したのか――わからない。


 細谷は煙草をくゆらせながら、警察署の建物に視線をやった。築二〇年近くたつ劣化したコンクリ―トの壁面は、染み込んだ雨が汚れに重なり陰のような変色が目につく。

 突然やってきた本部の捜査一課次席は、川田があらわれることを予想していた。この動きは本部の思惑なのか、佐久間の個人的な企てによるものか――これも、またわからなかった。

 細谷は現状を読み切れず、立ち位置を決めかねた。


「あんたは、どうしたいんだ。宗田が奪ったという金を横取りしたいのか? それとも宗田を殺した犯人を捕まえたいのか?」

「もう警官でない俺は、殺しの犯人に興味なんてないよ。あるのは金だ、奪えるものなら奪いたい。ちっぽけな退職金だけでは、生きてくのは大変なんだ」

「現役の前で、よくそんなことが言えるな」


 川田は肩を揺らして笑う。時折鼻が鳴る、下品な笑い方だった。


「知ってるか、細谷刑事。言うだけなら罪にならないんだぜ。ついでにバレなかったときも、罪にならない。世の中、そういうふうにできている」


 虫唾が走るとはこういうことかと、発砲事件で非難されている頃にも感じなかった感情を細谷は体感した。

 細谷は灰が伸びた煙草を灰皿に押しつけ、苛立ちを舌打ちとして吐き出す。


「もう一つ聞かせろ。どうして、俺にここまで話した。警官相手に具合が悪いと思わなかったのか?」

「そりゃ、お前さんだからだよ。会ったのが細谷刑事でなかったら、くわしい事情を話す気はなかった。そこらの刑事をちょこっとつついて、情報を聞き出せたら御の字だと思ってた。でも、お前さんに会ったからな。警察官でありながら、警察官をはみだした男なら、こっちの話に乗るんじゃねえかって考えた」


「乗らなかったら、どうするんだ。署に戻って、あんたのことを報告するかもしれないぞ」

「そのときはそのときだ。運がなかったとあきらめる。元々勝てる見込みのうすい賭けだったんだ、しかたねぇ」


 どこまで本気かわからないが、やけにさっぱりしている。川田の言うように、勝てる見込みのうすい賭けというのは事実なのだろう。宗田が金を抱えたまま死んだとはかぎらない、殺した犯人にすでに奪われている可能性も充分にあり得る。どれだけ都合よく見積もっても、総合的に考えて期待値は低かった。


 だが、何か引っかかるものが細谷のなかにあった。その正体は、もやがかかって自分自身でもわからない。


「まあ、気が向いたら連絡してくれ。警察に義理立てする理由はないだろ」


 そう言って、川田はメモを押しつけてきた。携帯電話の番号が書かれている。

 握りつぶして灰皿に捨てようかとも思ったが、細谷は思案した末にスーツのポケットに突っこんだ。川田はにんまり笑って、手を振り去っていく。


 鋭い日射しで白髪がきらめく後ろ姿を見送りながら、細谷は二本目の煙草を口にした。紫煙をまとい熟考して、煙が晴れた頃に当初の予定通り駐車場に向かう。上司に報告する選択肢は、早い段階で投げ捨てていた。

 車に乗りこみ運転席についた細谷は、スマホを取り出して電話をかける。呼び出し音は思いのほか早く切れ、不機嫌な声が返ってきた。


「おい、仕事中だぞ。わかってんのか」

「こっちも仕事中だ。わかってるよ、辻」


 電話相手は警察学校で同期だった辻早人つじ はやとだ。発砲事件後も、変わらず関わってくれる数少ない警官仲間である。


「ちょっと調べてほしいことがある。他の奴には知られないように、こっそりと」

「なんだ、そりゃ。厄介ごとに巻き込まれんのは勘弁だぞ。俺は細谷と違って、まだ当分警官で飯を食ってくつもりなんだ」

「安心しろ、辻を巻き込んだりしない。何があっても、絶対にお前の名前を吐いたりしないさ」


 冗談めかしたつもりであったが、辻の反応は鈍かった。一瞬の沈黙、スマホを通して動揺が伝わってくる。


「マジでやばい案件に首を突っ込んでんのか。何が知りたいんだ?」

「十年近く前に潰れたっていう戸代一家のことを調べてほしい。それと、元警察官のカワタジロウって奴のことも」

「戸代一家? 聞かない名前だけどヤクザならなんとかなるか。元警察官のほうは、どうだかわかんねえぞ。事件でもないのに個人情報を盗み見るのは難しい」


 高校時代ラグビー部だったという辻は、ゴツゴツした強面と体格がよいことを買われて、暴力団事件を担当する本部の暴力団対策課に所属していた。解散したとはいえ、暴力団の情報を集積するのはお手のものだろう。問題は川田次郎についてだが、こればかりは幸運を期待するほかない。


「やるだけやってみるが、あんまり無茶すんなよ。分が悪い勝負からは、手を引くってことをおぼえろ」

「ああ、わかってるよ。助かった、恩に着る」

「まったく、お前は昔から融通が――」


 小言が本格化する前に、電話を切って息をつく。気にかけてくれることはありがたいが、真っ当な警察官である辻とは、もう歩いている道がちがっている。


「あいつの言う通りだな。俺は警察のはみだし者だ……」


 細谷は自嘲のつぶやきをこぼし、エンジンをかけた。車内に伝わる小さな振動で、カップホルダーに入れたままのコーヒーの空き缶が左右に揺れてカチカチと音を鳴らした。

 ゆっくりとアクセルを踏みこみ、車を発進させる。駐車場を出る直前、戻ってきたパトカーとすれ違い、乗っていた警官と目があった。やけに挑戦的な視線が横顔に刺さる。


 はみだし者に敵愾心を向けているのだと思ったが……インパネを見て、勘違いと気づく。細谷は慌ててシートベルトをかけて、警告灯が消えるのを確認した。

 改めて発進。細谷は自意識過剰な自分に苦笑しながら、道交法を守って走る。



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