5-6 日記帳をぱたんと閉じた
日記帳と万年筆を購入し、帰る最中にランチのある喫茶店に入った。ボクはナポリタンと珈琲を頼み、花子は日替わりランチの和風ハンバーグセットを注文した。ドリンクはミルクティーだった。
「ほんとにその日記帳で宜しかったのですか」
食後のお茶を飲みながら、彼女はそんなコトを口にする。
「前々から思っていたけれど、花子はそういった様式というかスタイルに拘るよね」
花子はどうしてもと、ハードカバー付きの実に堂々とした日記帳を勧めるのだが、ボクにはそんな大仰なものは似合わない。何度かの押し問答の後にお手頃な価格のものと、やはり一番安い万年筆で妥協してもらったのだ。
「卯月さんの日々を刻む大切なものですよ。百年先でも色褪せない黒インクと、黄ばむことを許さない用紙でキチンと製本された御本に記した方が良いと思います」
「そんな大層な毎日じゃ無いからソコまで本格的でなくてもイイよ。この日記専用のノートと万年筆でも過剰だと思っているんだから」
ひょっとしてと思い、花子は日記を付けているのかと訊いてみたらそうだと返事があった。長年書き続けていてもう何冊目になるのかも分らないのだという。
「それだけ続けられるのも凄いなぁ」
「別に凄くはありません。ただの日課です。寝る前の歯磨きと同じで、書かないと落ち着かないというダケです。その日に起きた出来事のダイジェストと、簡単な感想を書き込むだけなので一〇行にも満たない短さです。SNSで呟くのと然程変わりはありません」
そういうものなのだろうか。何だか流れで日記を書く羽目になったけれど、毎日続けられるかどうかちょっと自信が無くなってきた。
「別に毎日書く必要も無いでしょう。誰かに強制されている訳でもないですし、タイムレコーダーが付いている訳でもないのです。印象的な何かがあった日に書き留めるダケでも十分以上に意味があると思いますよ」
確かにそう考えるのなら、ちょっとだけ気が楽だ。まぁ少なくとも先程のアレがある。今日の書くネタに困ることはなかった。
わたしが覗き込まれている気配を感じて慌てて表紙を閉じたら、真後ろには従姉が立っていた。
「日記なんて書き始めたの?」
鼻で笑われて、イラっと来たことを憶えている。
「ひとの日記を勝手に覗き込まないでくれる?マナー違反よ、プライバシーの侵害だわ」
「そんな大層なものでもないでしょ。思っていること全部口に出しちゃう性分じゃない、文字にして隠すなんて意味不明。第一、国語とか文章とか苦手なくせに。似合わないわよ」
何事にでも初めてはある、挑戦することを小馬鹿にする方が余程に馬鹿だ。そんな具合に言い返したのだが「三日坊主で終わらなければいいのだけれど」などと苦も無く返し、更にへらへらと笑っていた。
元来負けず嫌いだという自負はあった。なので、ふざけるな見てろよと憤慨したものだ。
今にして思えばソレが長年続けられた理由だったのかも知れない。でもだからといって、あの
アレは相手を煽ってその反応を面白がる種類の人間であって、コチラの事情を思いやり継続を促すべく発憤させるなどと、そんな殊勝な人間では無い。長年の付き合いからその性根はとても良く知っていたからだ。
思えば小さい頃、叔母の家に泊りがけで遊びに行ったときのこと。
ピーマンが食べられないというコトを聞き付け、ワザと叔母に「あの子ピーマン大好きだと言ってたよ」などと嘘八百を吹き込んで、夕餉の食卓でピーマンのオンパレードを前にした忌まわしき出来事があった。あの時の苦行をどう表現すればよい?
他にもきゃつは・・・・
「・・・・それでですね、どのような色合いがお好みですか?」
花子の声で我に返った。
「あ、ゴメン。聞いてなかった。何の話だったっけ」
「万年筆に使うインクのお話ですよ。
今日お買い求めになった万年筆と一緒にコンバーターも買いましたから、カートリッジを使う以外にお好みのインクを買ってお好みの色の文字を書くことが出来ます、というお話をしていました。
ですが、なんだか今日の卯月さんは心此処に在らずといった感じですね。何か心配事でも?」
「いや、何だか随分と昔のことを思い出していたよ」
正確に言えば、思い出していたような気がすると云った方が正しかった。我に返った途端、今のいままで考えていたことが、まるで灰が崩れるかのようにほろほろと形を無くして消え去っていってしまったからである。まるで夢から覚めた後の朝のように。
ボクはいま、何を思い出していたんだっけ?
大事なことだったような、どうでもよい事だったような。ちょっと思い出せそうになかったので忘れるコトにした。きっと大した出来事じゃない。
「それで、インクの色が何だって?」
「ああ、それでですねぇ、わたしはやっぱり万年筆のインクは漆黒の黒よりも、やや灰色がかったもの方が月日が経った後でも読みやすいと思うのですよ」
こういう時の花子は実に饒舌だ。うんうん、と相づちを打ちながらナポリタンの中に入っていたピーマンをフォークの先に突き刺すと、そのままパクリと食べた。トマトソースの甘酸っぱさとピーマンのほろ苦さが良い。なんだか懐かしい感じがした。
「花子。唐突だけど今晩の夕食で食べたいものがある。いいかな」
「あ、はい。何でしょうか」
「久しぶりにピーマンの牛肉詰めを食べたい」
「分りました。帰りがけにスーパーに寄ってお買い物をしましょう」
そして、万年筆のインクにライトブルーのインクがあると聞き、蒼い文字を書いてみたいなと答えた。
書き終わった日記帳をぱたんと閉じると、一日が終わったなという気分に浸れた。
万年筆で文字を書くというのも初めてで、ほんのちょっとの文章なのにシャープペンやボールペンを使うよりも肩が凝った。馴れないものを使うというのは新鮮と言えばいいのか、それとも面倒くさいと言えばいいのかよく分らない。
花子が言うように、キチンとした日記帳に万年筆で今日の出来事を書き込んでみたら、確かに記録したという実感はあった。でも果たしてコレをずっと続けられるのだろうか。
花子は、毎日書く必要はないと言ってくれたけれど、毎日が一日おきになり、それが二日三日と日が空くようになって、やがて机の引き出しに入れっぱなしなんてコトになるのではなかろうか。実に在り得そうだ。
元来ボクは飽きっぽいのである。そして本は好きだけれども、文章を書くのは得意じゃない。良く勘違いされるけれども、熱心な本読みが必ずしも良い文章をひねり出せるとは限らないのである。
只ひたすらに面白いものを読み倒してゆくだけの消費者で、決して生産者には成れないという自負があった。まぁ、自慢できるコトじゃないけれど。
「誰かに強制されたり、追い詰められないと何も出来ない人種なのかもなぁ」
或いは誰かに小馬鹿にされて発憤するとか?いやいや無理無理。ボクはそんな反骨精神旺盛な人間じゃありません。あ、いや、屍体だったっけ。
本当に今日は変な一日だった。家に帰ってきてからも微妙にオカシイ。生まれて初めて書く日記に奇妙な既視感を覚え、夕餉に出た好物である筈の牛肉詰めピーマンにもそこはかとない抵抗感を感じた。その感覚も何だか妙だ。小首を捻ってみても思い当たる節はなく、何とも言えない気持ちのまま床に着いた。
毎日思い出せないことが増えているような気がする。何かを無くしたような気がするのだけれども、ソレが何なのかが分らなかった。やがてどんどん加速してゆくのではないのかと、言いようのない不安が燻っていた。この得体の知れない怖さが妙な白昼夢を見せているのかもしれなかった。
日記を書くことでそれが少しでも軽くなるといい。忘れてしまったコトを思い出す切っ掛けになれば、少しは不安な気持ちも和らぐんじゃなかろうか。
花子が日記を勧めたのもそれを見越してのコトかも知れない。それもまた在り得そうな話だ。あの子はいつもボクのことに気を配っていてくれる。恵まれているなと思った。ボクはこの身ひとつで他には何も持っていないというのに。
明日になったらもう一度ありがとうと言っておこう。
目を瞑ったらそのまま、すうと眠りの淵へと落ちていった。
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