第五幕(その七)彼のこと

 わたしが彼の事を知ったのは、同じクラスになって半月ほど経った頃のことだった。彼はいつもポツンと机に座って本を読んでいた。昼休憩の時は大抵そうだし、授業の合間の休み時間もそうだった。本が好きなんだな、と思った。わたしなんて雑誌かマンガをぱらぱら流し読みする程度で、じっと座ってじっくり読むのは教科書くらいのものだ。

 彼は友達が居ないわけじゃ無い。仲が良さそうな男子は何人か居て、読書の合間に声かけしてくる者とよく雑談していたりもする。ワイワイと楽しそうに談笑している姿も何度か見かけた。でもその程度だった。彼はまだわたしの中では只のクラスメイトに過ぎなかったからだ。

 意識し始めたのは何時の頃からだったろう。切っ掛けは些細なコトだった様に思う。ええと、何だったっけ。最近は色々と思い出せなくなってイケナイ。ああそうだ、確か次の時限は体育だからと、体育館の女子更衣室に向かおうとした時のコトだ。バッグの中に短パンが入っていないことに気が付いて、教室に引き返してみたら彼がぽつんと一人で机の前に座って居た。

 見れば、一心不乱に文庫本を読んでいる。

「村田くん、体育は出ないの?」

 声を掛けた途端ビクリと背中が跳ねた。慌てて振り返った彼の表情は随分と意外そうだった。

「山川さん」

 わたしの名字を呼んでから初めて自分が独りで居ることに気付いたようだった。キョロキョロと周囲を見回して、読んでいた本を急いで閉じると立ち上がった。

「取り残されたの?誰も声かけしてくれなかったんだ、みんな薄情~」

 軽く笑いながらそう言うと何故か彼は恥じらっていた。

「続きが気になって、ちょっとダケ、と思って」

 チラリと彼の持っていた本の題名が見えた。夏のナンタラと書いてあったが全部読む前に鞄の中に仕舞い込まれてしまった。替わりに体操着が入っていると思しきビニールの手提げ袋が取り出された。洒落っ気も何もない、どこぞのお店のロゴが見えた。

「急ごう。ツダセン、時間にうるさいから遅れると面倒くさいわ」

 こくりと頷く彼と一緒に教室を出て、小走りで体育館に急いだ。にも拘わらず階段を駆け下りている途中でチャイムは鳴った。案の定、皆と一足遅れて運動場に出たわたしは津田先生にお小言をくらい、山川くんはわたしと一緒に登場したので男の体育教師(名前はど忘れした)と他の男子にからかわれ笑われていた。

 それが彼とのファーストコンタクトだった。


 昼食を終えて、いつもの連中からバレーボールをしようと誘われたにも拘わらず、それを断ったのは校庭の隅に彼の姿が見えたからだ。木陰にある花壇の縁に腰を下ろして本を読んでいた。彼の横までそっと歩み寄ってから声を掛けた。

「何を読んでいるの?」

 他意は無い。ただこの前、体育の授業前にチラリと見えた本のタイトルが気になったからだ。だが彼はわたしが思っていた以上に吃驚していた。立ち上がりこそしなかったものの目を見開いて仰け反っていた。

「ゴメン、驚かせちゃった」

「いや、いいけど。何の用?」

「まぁ特に用って程でもないけれど、何の本を読んでいるのかなと思って」

 隣に座ってイイかなと言ったら必要以上に緊張して、丹念に花壇を囲うレンガの埃を払ってから「どうぞ」と言ってくれた。見せてくれた本はミステリーものだった。でも題名は違う気がする。以前のヤツは「夏のナンタラ」とかいうものだった。この本の題名には夏という単語は一個も無い。もう読んだのかと言ったら「アレは授業の合間に読む分」とか言われた。

「もしかして同時に違う本を読んでいるの?」

 彼は二冊どころか学校で読んでいる他にも家で読む本があって、常に複数の本を同時に読んでいるらしい。今度はこっちが驚く番だった。

「筋がごっちゃにならない?」

 彼に言わせれば時間ごとに割り振って決めているから問題無い、本を開けばその瞬間から気持ちが切り替わるのだそうだ。わたしには到底無理である。国語の教科書に乗っている短編小説を読むのにだって四苦八苦しているというのに。

「頭良いんだね」

 わたしとしては素直な感想だったのだが、彼は何やら戸惑っていた。

「気持ちの切り替えの問題だと思う」

 ソレはソレ、コレはコレと問題を分けるのと同じだと言われた。

「家で数学の課題をやった後に英語の課題をやってもごっちゃにはならない。同じだよ」

 栞を挟んだ場所から読み出せば、その一行で瞬時に切り替わるのだという。

「ほほー、成る程。バレーの試合中とかでも同じ事言えるかもね。失敗したーミスったーとか思っても、ソレを引きずってゲームそのものをおしゃかにする訳にはいかないものね。ばしっと切り替えていかないと。反省は試合が終わった後にすればいいのだし」

「強いんだね」

「強くない強くない。あんまり深く考えないダケよ。同時に二つのことが出来ないから、目の前に在ることを優先しているだけ。お陰で後になってめちゃヘコんだりするのだけれど」

 そう言ってケラケラと笑ったら、苦笑で返されてしまった。

 スマホでは読まないのか、と訊いたら直ぐにバッテリーが切れるから外じゃ読まないと言われた。うーん、むしろスマホは外で読むのに向いている気がするけれど、まぁその辺りは人それぞれだ。

 その他、細々としたことを話している内に予鈴が鳴った。

「あ、ゴメン。読書の邪魔しちゃった」

 思いの他に話が弾んでつい時を忘れてしまった。マズイ、マズイ。わたしは夢中になると相手の都合を忘れる節がある。

「あ、いや。迷惑だったらそう言うから」

「そう。気ぃ使ってない、イヤじゃなかった?うん、それなら良いけれど」

 わたしは立ち上がるとスカートを払った。彼も本に栞を挟んで立ち上がった。

「お喋り楽しかった。ホント、ごめんね。大切な時間を使わせてしまって」

「俺も楽しかったから」

 どちらかというと無口っぽくて表情の変化が少ない彼だが、相手への気遣いが見え隠れする様は好感が持てた。そしてわたし達は校舎に戻るその他大勢の生徒に紛れ、自分の教室へと戻っていった。

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