第五幕(その八)自分の声だと気付くのに少しの時間が必要

 彼女のコトは入学して少しした頃から気になって居た。

 元気が良くて良く笑う子だな、というのが第一印象。そして周囲にはいつも誰か居て、やはり何時もわいわいと楽しそうに話す輪の中に居た。快活で男子はおろか同性からも人気があった。くるくるとよく動く小気味よい身のこなしと、パチリと開いた黒目がちの瞳は愛嬌があった。中肉中背でバレー部に所属しているらしく、手足は細めだけれども引き締まっていた。小顔で、襟元で切り揃えた黒髪は彼女に良く似合っていた。控えめに言っても可愛いと云っていい。いや、お世辞抜きでだ。

 成績は中の上あたりらしい。詳しい順位は知らないが、彼女の友人と話す会話が漏れ聞こえて英語や歴史は得意らしいと知った。女子はよく数人で特定のグループを作ったりするけれど、彼女は特にそういった癖は無さそうで、周りに居る顔ぶれはよく変わった。社交的なのだろう。正直羨ましかった。

 そして休み時間の度に本を読みながら、それを隠れ蓑にしてよく彼女の姿を目で追っていた。運動があまり得意じゃなくて友人の少ない俺にとって、身軽で友達の多い彼女には少なからぬ憧憬があった。一年から二年へ進級するときにはクラス替えがあるが、また同じクラスになった時にはその偶然に感謝した。

 二年から三年に進級するときにはクラス替えはない。だから卒業するまでこのクラスメイトのままだ。つまりあと二年間彼女と同じ教室で学校生活を送れる訳で、そう思うと少なからず気持ちが弾んだ。

 でもソコまでだ。少し気になる異性のクラスメイトが居るからと言って、何の脈略も無く声を掛けるのは憚られた。他のクラスメイトの目もあったし共通の話題も無かった。仄かな好意があるからと言って、ただそれを打ち明けても相手は困るだけだろう。それに俺の何処をどう絞ったところで、そんな勇気は湧いてきそうにもなかった。

 だからあの日、彼女がいきなり声を掛けてきた時には大層驚いたのだ。かてて加えて、その次の日もだ。一度きりでも相当なのにコレは一体どういうコトなのか。

 そもそも何故彼女が俺に声を掛けたのか、その理由がトンと分らなかった。

 休み時間に黙々と本を読んでいるだけの男子に何らかの興味が湧いた、というよりも何の本を読んでいるのか気になったという方が正しいと思う。でもその割には本の内容にはあまり触れてこなくて、何故読んでいるのか、とか、夢中になって読めるのがスゴイ、とか、俺自身のことを色々と訊ねてくるものだからまた戸惑った。一回くらいならばクラスメイトとしての好奇心や気まぐれで片付けることが出来るけれど、二度目となると俺へ何某かの興味が在るのでは、などと尊大な気持ちが頭の片隅を掠めたりもするのだ。

 分不相応な感情だというのは百も承知。彼女はクラスのヒエラルキーの中では上位に位置する存在で、居るのか居ないのかよく分らない、もっとハッキリ言えば居なくなっても気付く者が居なさそうな俺とではちょっとばかり立ち位置が違う。

 でもだからといって彼女が話し掛けてくれたこの好機。容易く手放すつもりなどさらさら無かった。あまり長持ちはしないかもしれないけれど、楽しい時間は長い方が良い。


 彼はいつも同じような場所に居た。時間や天気によって居る場所は微妙に変わるけれど、大体座って居る場所は決まっていて一心不乱に文庫本を読みふけっているのである。

 晴れた日の昼休みはあの木陰で、雨の日は図書館に居た。授業の合間の休憩は自分の席に居るコトが多いけれど、体育の時や移動教室の時は諦めている。あの時と同じ轍を踏む訳にはいかないし、逆にほんの僅かな時間でも読書に中てようとするジレンマとが垣間見れて、ちょっと可笑しかった。

 と同時に、あれだけ熱中出来るものが在るのは凄いなと思った。わたしは彼処までバレーを頑張っているだろうかと自問自答する。確かに中学の時から続けているし、好きなのも確かだ。特技は何かと問われれば、真っ先にバレーと答えられる位には。辛かったり悔しかったり、「やってられるかこん畜生」と思うこともあるけれど、やっぱり戻って来てしまうのである。

 でも所詮部活は部活だった。日がな一日、朝から晩までボールに触っている訳じゃあない。プロのアスリートにでもなれれば話は変わってくるのだろうが、ソコまで決心している訳でもなければ才能と実力とが備わっている訳でもない。高校生活の傍ら部活動に勤しむありふれた一高校生に過ぎないのである。

 あんまり頻繁に話し掛けてクラスメイトの噂になったりしたら彼に迷惑かなと思って、教室ではあまり大っぴらにやってない。でも、昼休みには何度も声を掛けている。その度に吃驚させてしまうのだけれども、直ぐにその反応すら楽しむようになった。悪い娘である。しかし直ぐに彼も馴れてきて反応が鈍くなり、些か物足りなくなったのだけれども。

 彼とは雑談に終始しているけれど、いつも物の見方が面白かった。わたしには無い視点で様々な評価や寸評を返してくれてとても新鮮なのだ。在り来たりで平々凡々なわたしとはひと味もふた味も違っていて、毎回感心や納得を重ねることになった。もう何度「へぇ」と「なるほど」を繰り返したろう。十や二十じゃ済まない、きっと百を軽く超えている。

 その頃からだ。彼の見えて居る世界を知りたいと思うようになったのは。


 声を掛けるのは大抵わたしの方からで、彼の方からアプローチがあった試しはなかった。いや、在ったかな?もう憶えていないダケなのかも知れない。でもわたしの方からの声掛けもそんなに頻繁じゃなかったから、偉そうに言えるわけでもないけれど。精々四、五回といったところだ。いや、もうちょっとあったような?でもしょっちゅうではなかったのは確かだ。わたしもあんまり目立ちたくはなかったし、彼の邪魔をするのも気が引けたし。

 でも授業中とかで、ふと彼と目が合ったりしたときはちょっと嬉しかったりもした。どうやら彼もわたしのコトを悪いようには思って居ないみたいだ。わたしと話すことが楽しいと思ってくれたのならわたしも嬉しかった。

 彼と話していると時間を忘れた。ちょっとイヤなことや面白くないコトも彼に話すと、どうでもいい事に変わっていった。何であんなつまらない事に腹を立てていたのだろうと不思議になる程だ。うんうんと、静かに相づちを打って丁寧と聞いてくれる姿が好きだった。「それはイイね」とか「気にする必要は無い」とか、簡単だけどすっと気持ちに入ってくる返答が嬉しかった。不定期で何気ない一時だけど段々と大切な時間になっていった。

 今にして思えば何故メアドの交換をしていなかったんだろうと思う。SNSでのやり取りでも問題は無かったのに。でも不具合なんて何も感じていなかったし、何より直接彼と言葉を交わしていたかった。メール一本で交わす言葉が一つ減ってしまう、それがとても勿体なく思えたのだ。

 彼と話していると楽しかった。滅多に笑わないけれど、ふとした弾みに微笑むとその表情にドキリとした。一見地味に見えるけれど目元の繊細なラインが好きだった。本を読むときの眼差しも気に入っていた。意外に肌がキレイなんだな、と気付いて嫉妬したのは内緒だ。男の子のクセにズルイ。きっとケアなんてしていないだろうに。しかも本のページをめくるその指先だって繊細だ。わたしの手なんて突き指やテーピングを繰り返してデコボコなのに。

 彼と一緒に居る時間はあっと言う間に過ぎ去っていく。ずっと話をしていたいと思っても、学校のチャイムは残酷なのだ。もう少しだけ彼と居たいといつも願った。

 そしてもしも、もしもだけれども。彼も同じ気持ちならいいな、と思った。

 ああ、彼が目覚める。今晩のわたしは此処までか。夜に目覚めるのがわたし自身なら、昼間のわたしは彼の白昼夢かも知れない。でもソレで全然構わなかった。

 彼が生きて平穏に暮らして居るのなら、只それだけで良かった。


 俺の薄らボンヤリとした記憶の中で、彼女はいつも微笑んでいた。

 歯切れの良い物言いで、他愛の無い自分の周囲で起こった出来事を何時も楽しそうに話していた。俺が口数少ない部分を補うかのように話題は次から次へと湧いて来て、少ない時間だったけれどもいつも話す内容がてんこ盛りだった。俺なら絶対に無理である。二言三言話したら黙り込む時間の方が絶対に長い。

 男子同士の莫迦話でも、盛り上げる側より笑ったり簡単な感想を言うのが関の山だった。女子との会話など何を話して良いのか皆目見当も付かないから、彼女の口数の多さには大変助けられた。

 そもそも何故俺なんぞに声を掛けてくるのだろう。それは大いなる謎であったが、素直に彼女が話し掛けてくれるのは嬉しかった。たとい彼女にとって気まぐれや単なる暇潰しであったとしても、女子との接点がほぼ皆無な男子にとっては、体感したことの無い新鮮な一時と胸の高鳴りがあった。

 彼女にとって俺はただのクラスメイト。コレと言って特徴のない平凡な一男子である。期待はしないし、過度の感情は彼女に対して失礼だろう。でも密かな夢を見ても良いのではないか。この僅かな時間、泡沫の幻想に浸ってもバチは当たるまい。


 何処か遠くで何かが鳴っていた。呻いて薄目を開ければ枕元の目覚ましが今朝も必死になって起床時刻だと喚いていた。半ば無意識で手を伸ばし手探りでアラームを止める。二度寝の至福に浸りたい気持ちはあったけれど、此処で奮起発憤しなければ昼まで寝てしまいそうだ。花子が早起きして用意しているであろう朝食を無下にする訳にはいかない。

 半身を起こしてベッドの上でボンヤリとしていると「朝か」と呟く声が聞えた。それが自分の声だと気付くのに少しの時間が必要だった。

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