第五幕(その四)デイドリーム

「追い詰めたぞ、ようやく追い詰めたぞ。なんて図々しい子達だ。タクシーに乗って運賃払わずに逃げ出すなんて非常識、世間では通用しないと思い知れ。さあ、払え、今すぐ払え。運賃だ。タクシーに乗ったからにはお金を払う義務がある。憲法でも定められている!」

 運転手は顔が真っ赤だった。まるで頭からバケツで水を被ったかのように、汗にまみれてずぶ濡れだった。

 ゼイゼイと肩で息をしてシャツは乱れ、ズボンの端からはみ出していた。とうに外してしまったらしく、着けていた筈のネクタイも無かった。ボタンも第二ボタンまで外れてシャツはべったりと肌に貼り付いていた。くしゃくしゃになった髪には、確かに被っていた筈の帽子もなかった。追いかけている最中に落とすか捨てるかしたに違いなかった。

「ふざけないで下さい」

 運転手よりも先に息を整えたボクは、真っ向から相手に向き合った。

 運賃払って欲しかったら客をキチンと目的地に送り届けろ、自分のシッポを追いかける子猫じゃあるまいし、同じ場所をぐるぐる回るだけのタクシーにお金を支払う義務はない。それにいくら日本国の憲法だって、タクシーに乗ったらお金を払うべしだなんて、そんな些末なコトをいちいち書いてある筈もないだろう。いい加減なコトを言うな、そう反論した。

「盗っ人猛々しいとはこのことだ」

 赤い顔をさらに真っ赤にして運転手が叫んだ。

「タクシーに乗ったらお金を払う。これは天地開闢てんちかいびゃく以来定められた世界の真理だ!」

 またアホみたいに大きく出たな。コレだから頭に血が昇った人間は始末に負えない。常識からはみ出した屁理屈を何の疑問もなく口にする。

「タクシーを拾った場所に戻ったダケでしょう。運賃請求する方が非常識です」

「屁理屈を口にするな」

 天を仰いで大声で叫んでいた。どの口が、と思った。そして規定料金上限いっぱい置いて行けと詰め寄られた。

 おいおいソレは脅迫か追い剥ぎだろう。そう反論よりも早く、づかづかとデカい腹が勢い込んで迫り来た。思わず「来るな」と叫んでいた。そして太い掌が腕を掴む瞬間、反射的にひらりと体をかわした。汗でベタベタの太った中年男性に抱きつかれたくなかったからだ。身体が勝手に反応したと言った方が正しかった。我ながら見事な体裁きだと、自分で自分を褒めてやりたかった。

 ボクを掴まえ損なった運転手は川縁の手すりにぶつかり、つんのめってゴロンと向こう側にひっくり返った。そのままゴロゴロと土手を転がっていって、ぼちゃんと川に落ちた。なんてどんくさい。そしてなんてベタベタな反応なんだろう。

 ずぶ濡れになった運転手が顔を出すと、川に落とすなんてなんて非道い子だ、と叫ぶ声が上がった。

 いやいや、ボクは避けただけですよ、落っこちたのはあなた自身のせいでしょう。文句ならそのかなり出っ張った、御自分のお腹に言うべきではありませんか。

 そう言ってやりたかったのだが、運転手は見る見る内に流されていった。見た目以上に流れは早いらしい。助けてやろうかと戸惑う内に、橋の下に流れて見えなくなった。マズイと思って橋に駆け寄り反対側を覗き込んだのだが、何故か流れていった筈の運転手の姿は見えなかった。

 橋の下で引っ掛かって居るのかな。

 そう思って橋の欄干から身を乗り出そうとしたら、後ろから服を引っ張られた。振り返ると花子がワンピースの裾を両手で掴んでいる。そしてふるふると小さく首を振っていた。タクシーに乗ってから一言も口を利かなかった彼女だが、じっと見つめる漆黒の眼差しはボクの瞳を覗き込んで微動だにしない。吸い込まれそうな気分になった。

 そして・・・・


「卯月さん。どうかされましたか?」

 我に返ると、俯いているボクを見上げるようにして花子がボクの目を覗き込んでいた。

「あ、あれ。此処は元の場所・・・・」

 屋根のあるバスの停留所が見えて、対面の歩道には先程花子のスマホが奏でた効果音に驚いた、あの主婦らしき女性の背中が遠ざかって行くのが見えた。

「元も何も、急に立ち止まって俯いて、そのまま微動だにしなくなったではありませんか。何か考え事でもありましたか」

「え、でも、さっきまでタクシー拾って、そのままグルグルとこの周辺を巡って、呆れてクルマから降りて・・・・アレ?」

 さっきまでのアレはいったい何だったのだ。

「ああ、確かにあの文具店までは距離は在りますからね。奮発して、今日はタクシーで行きましょうか。たまにはそういう贅沢も良いですね」

 ヘイ、タクシー、と手を上げかけた花子を「ちょっと待った」と慌てて制した。怪訝に振り返る花子の後ろを、妙に古びた色合いのタクシーが通り過ぎていった。運転手の姿は室内が暗くてよく見えなかったが、一瞬、丸顔で眼鏡をかけた中年男性のようにも見えた。

 でもそんな運転手なんて在り来たり、何処にでも居るだろう。古びたタクシーだってそれこそ星の数ほど走り回っている。でも、走り去ってゆくその車影が妙に気になって仕方がなかった。

「お店までは遠いけど歩いて行こうか」

「良いのですか。お金の心配でしたら要りませんよ?」

「何だか今日は歩いた方がいい気がする。長い散歩、というよりも、軽いハイキングだとでも思えば良いんじゃないかな。幸い今日は麦わら帽子も被っているし」

 初夏の日差しとはいえ近頃の日差しは強烈だ。けれども灼けて暑い路地裏で、謂われのない言い掛かりを喚かれながら、汗だくで逃げ回るよりは余程に心安らかだろう。

「そうですか。では途中の手頃なお店で昼食といきましょう。たまには外食も悪くはないです」

「うん。悪くないね」

 そう返事をして歩き始めると、花子はこの界隈でお薦めの喫茶店などの話を始めた。

 アレはいったい何だったのだろう。只の白昼夢にしてはあまりに生々しい。ひょっとすると花子が以前言っていた、在り得るかも知れない隣の世界、というヤツだったのではなかろうか。何かの拍子にふと、覗き込んでしまったのかも知れなかった。

 降りることの出来ない、同じ所を延々と回り続けるだけのタクシー。今この瞬間も町の何処かで只ひたすらに周回を続けているのかも。

 あの運転手は明らかに自分が何をやっているのか気付いていなかった。囚われていると言い換えたらそれが一番正しい気がする。何かの拍子にふと我に返ったりしないのだろうか。或いはもう止めようと思うことすら忘れ果てている、とか。

 それはイヤだな。無限ループに入り込んで居るのに本人はそれに気付かないなんて。

 出口の無い迷路で迷子になるのもイヤだけれど、それとは別種のイヤさ加減である。おかしいと思わないコトが怖いと思った。あの運転手はどうなったのだろう。無事に川から出られただろうか。流れ着いた先で同じように似たようなタクシーを見つけ乗り込んで、再びグルグルと周回を始めているのだろうか。何の疑問も持たずに。

 花子は以前、暗く隠れた流れは覗く者を引っ張り込むのだと云った。

 あの時、あの夢の中の花子がボクの服を引っ張ってなかったら、あの運転手と同じく川に落ちていたのではないか。そのまま見知らぬ何処かに流されていたのかも知れない。そして辿り着いた先で、自分ではそれと気付かぬまま延々と同じ事を繰り返すのではないのか。あの運転手のように。

 だったら今のボクはどうなんだろう。さっきまでこの町にいたボクと同じボクなのだろうか。

 妙に心がざわめいて思わず自分の肩を抱いた。

 汗ばむほどの陽気だというのに肌が粟立つ寒気があった。

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