第五幕(その三)無賃乗車だ

 ひょっとしてその内何処かの見知らぬ事務所に横付けされて、中から出てきた怖いお兄さんから法外な料金を請求される、極悪な違法タクシーじゃあるまいな。

 この小さな田舎町にそんな理不尽な業者が這入り込んでいるとも思えないが、在り得ない話じゃない。このグルグル回るのだって、「メーターにはこう出ている」とゴリ押しする為の口実なのだと考えれば辻褄は合った。

 でも脇が甘すぎないか?いま此処でボクがスマホで警察に連絡したらそれで一発じゃないか。

 そう思ってスマホを操作しても画面は真っ暗なままだった。スリープが解除できないし電源ボタンを何度押してもウンともスンともいわない。電池切れにしては妙だ。だって昨夜から家を出る直前まで充電器に差しっぱなしだったのだ。壊れたのだとしても思い当たるコトが何も無かった。ぶつけたり落としたりはモチロン、妙なサイトに接続したり怪しいメールを受け取った憶えも皆無だった。

 そして先程から花子がフリーズしたまま返事どころか身動きすらしない。それがボクの疑念を後押しするのだ。

 おかしい、どう考えてもヘンだ。

 いや変どころの話じゃない。これはひょっとしてここ最近ボクが出会し続けている、アレな連中と同系統の出来事なんじゃないのか。この運転手が実はソレなんじゃないのか。先日の神父だって変身前は見た目はごく普通の人間だったではないか。

 また、五叉路の交差点が見えてきた。

 このまま延々とただ周回を続けるだけではあるまいな。いや間違い無く、今のままではそうなる可能性は高かった。タクシーがガス欠になるまでずっと乗ったままなのだろうか。いやそもそも、このタクシーはガス欠になるのか?

 スイッチの切れないメリーゴーランドじゃあるまいし、永遠に町中を回り続けるなんて冗談じゃない。クルマの運転なんてやったコトはないけれど、確かサイドブレーキとか言われる駐車用のレバーがあったはず。映画のカーチェイスとかでそれらしきシーンを見たことがあった。ぐいと引いたら、ぎきーとかタイヤが鳴いてクルマが横滑りする場面だ。うろ覚えの記憶からそれと思しきものを見つけ出し、シート越しに飛び付いて力任せに引っ張った。

 タクシーは甲高い女性の悲鳴みたいな音を立てて止まった。車体が横向きになる覚悟を決めていたが、そうならずに済んだのは速度があまり出ていなかったせいに違いない。或いは単純に映画やドラマの見過ぎなのかも。

「なんてコトするんですかお客さん」

 慌てて払いのけようとする運転手を躱し、右側のドアを開けると花子の手を引いてタクシーから転げるように飛び出した。反対車線にクルマが走ってなかったのはもっけの幸い。確かめる余裕も無かったから少なからぬ幸運に感謝した。

 そしてそのまま、脱兎の如く逃げ出したのである。

「無賃乗車だ!」

 運転手が喚く声が背中から追ってきた。

 うるさいよ、お金を取りたいのならお客の注文にキチンと応えろと思った。逃げながら肩越しに振り返ったら、クルマから飛び出した中年太りの男が、大きな腹を揺すり頭を抱えて「おーまいがっ」と叫んでいた。キリスト教徒なのかそれともTVの影響なのか。そして苦悶と思しき様子で身を二、三回捩っていたかと思うと今度は鬼の形相で追ってきたのである。

「無賃乗車だ!無賃乗車だ!」

 恐るべき脚力だった。花子の手を引きながらではあったものの、運転手が身悶えしている暇に割と距離は稼いだのだ。にも拘わらず、叫びながらそれこそ親の敵を見つけたかの如き勢いで、みるみる内にその間合いを詰めてくるのである。

 元は陸上選手か何かだったのだろうか?あの体型からは俄に想像できないけれど。

 いや今はそんなコトはどうでもいい。

「無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!」

 運転手は連呼しながら追って来る。全力疾走しながら叫び続けているのは凄いな、と思った。そして同時にボクもまた、花子の手を引っ張りながら持てる体力の限りを尽くして逃げ出さざるを得なかった。頼むからカンベンしてくれと胸内で悪態をつきながら、暑く灼けた路地を駆け回る羽目に為ったのである。

 白昼路上での追いかけっこが続いた。照りつける太陽がうっとうしかった。アルファルトに焼き付く自分の影が随分と小さかった。そういえばそろそろ正午になるのではないのか?今日の日中最高気温って何度だったかな。

 無賃乗車だと叫ぶ声は後ろから追い続けている。そろそろ息が上がっても良いだろう、いやとっとと上がってくれ。もう駄目だ若い者には着いていけないと根を上げて諦めてくれと願った。だがこちらの願いは微塵も叶わず、ひたすら叫びながら追いすがってくるのである。

 何という体力。何という執念か。

 こちらも花子の手を引っ張りながら全力疾走を続けている。確かに連れが居てスカートを履いているというハンデはあるが、相手は大声で叫び続けているのである。呼吸は相当に苦しかろう。傍目にも汗だらけで顔は真っ赤で、叫ぶ合間にもぜいぜいと激しい吐息が聞えそうな程だ。だというのに、声が遠ざかる気配は微塵も無かった。

 無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!無賃乗車だ!

「無賃乗車だぁあああああああっ!」

 男の声が人気のない住宅地の路上に響き渡った。なんて人聞きの悪い。これではまるでボクらが悪さしたみたいじゃないか。自分の不誠実さを棚に上げて年下の者を貶めるなんて、そんな不条理が許されてよいのか。いや良くない!

 大声でこの謂われのない冤罪を晴らしたかった。悪いのはソッチだ、目的地に着かないタクシーに運賃を払う義理はない、そう突き放してやりたかった。だがそんな余裕は微塵も無かった。少しでも足を緩めたらたちまち追いつかれてしまうからだ。追いつかれたら何をされるか判ったものではなかったからだ。妄執と被害者意識に凝り固まった相手に、真っ当な理屈が通用するとは思えなかった。

 小刻みに角を曲がり、死角に入った途端に行き先を変えてみたり、滑り台が在る程度の小さな児童公園に潜んでやり過ごそうとしてみたり、追っ手をまこうと様々なコトを試してみた。だが、どれも失敗した。犬並みの恐るべき嗅覚でボクらの居場所を感づいて、すぐさま踵を返し、或いは覗き込み、「ソコだ」と指さし声を張り上げ、白昼の追跡劇が再開されるのである。正直たまったものではなかった。

 汗だくだった。花子を引っ張る腕が痺れてきた。息が上がって頭の中がくらくらしてきた。こちとら平凡な、体力のない帰宅部の高校生だったのだ。身体を鍛えたわけでもない軟弱な一男子に、こんな気温の上がった真昼の長距離ランニングなんて過剰負荷もいいところだ。

 それに比べてあの運転手のスタミナの恐ろしさよ。正に底なしで、尽きる様子がまるでなかった。根性論は全く信じていなかったボクだけれども、これからはその迂闊さを大幅に修正する必要があると思った。人間の執念はきっと、当人の肉体能力をも凌駕するモノであるに違いない。

 そして遂にボクらは追い詰められていた。そこは川縁にある散歩道で、背中に川と手すりを背負って立ち運転手と相対していた。逃げ切れなかったのは確かだが、ソレよりもいい加減追いかけっこに飽きたと言った方が正しかった。足だってもうガクガクだしこれ以上走れそうもなかったし、正直根負けしたと言い換えてもいい。いずれにしても何としても、この運転手を論破するなり強弁でねじ伏せるなりして、諦めさせる以外に道は無さそうだと腹をくくった。

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