異形とマンホールとボーイミーツガール
九木十郎
プロローグ
それは全て明日の話
本当は目など覚めなくても良かったのだ。
目覚めてしまった故に厄介ごとやら面白くないコトやら腹立たしいことやら、この世の際限のない「宜しくない出来事」その他諸々を、再び受けてたたなきゃ為らなくなった。永遠の安息とか云う名の惰眠を貪る機会を、随分と先送りにしなければならなくなった。
でもまぁ「彼女」とずっと一緒なら、この現実世界も捨てたものじゃないのかも知れない。全てが全て希望通りではないけれど、自分の望んだことが全部叶うと信じるほど傲慢じゃあないし、「全周全方位極楽ハッピー」と宣うほどお気楽脳天気な性格でもなかった。コレでもそれなりに弁えて居るつもりなのだ。
だから今この現実は程ほど良い着地点。
そう信じていたのである。
そりゃあ自分の願いが全て叶うのならそれがベストだけど、生憎世の中そんなに甘くはないと思う。神様だって多忙なのだ。贅沢を言う者にバチを当てるくらい片手間で、きっと欠伸をかみ殺すよりも簡単だろう。そもそも全てのお願いに気付いているかどうかだって怪しいものだ。宝くじに当たる確率の方がまだ分があるかも知れない。
たぶん皆はとうに知っていたんだと思う。叶うと信じるよりも、叶わないと諦めた方が後々ダメージは少なくって済む。これが「がっかり力」ってヤツなんだろうか。
希望の二、三割が叶ったのならそれで良しとするのが世間様で言う大人の対応らしい。
まぁボクはまだ大人とは言い切れないけれど。
大人に成れるかどうかも怪しかったりするのだけれども。
何はともあれ取敢えず、些かなりとも辺りを見回せる余裕は出来た。そんな今だからこそ言える強がりなんだろう。
いや、違うな。そんな格好イイもんじゃない。ただ駄々をこねて泣き疲れ、為す術も思いつかずボンヤリとしているだけだ。
そもそも目覚めの時から既に爽やかとは言い難い始まりであったし、その後の日々も平穏と言うにはほど遠い。「楽しかった」と言い切れるほどまだ人生修養出来てはいないし言いたくもなかった。嫌なコトは嫌だと言える現代の若者なのである。
でも退屈はしなかったとだけは付け加えておこう。ささやかな抵抗の意味も込めて。
そして否応に拘わらず、これからもずっと二人分のやるせなさを抱えて生きていかなきゃならない。それもまた確かな現実だった。
また溜息が洩れた。
果たしてこれは一人分なんだろうか。それとも二人分なんだろうか。
気付いたら非道く冷えた部屋の中だった。
目覚めたばかりのせいか頭の中もどんよりとして重ったるかった。少しだけ首を動かしてみた。筋の引きつる激痛が走って思わず呻いた。呼吸を整え痛みが遠のくのを少し待つ。そして今度はゆっくりと動かして寝転がったまま周囲を見回した。
ものの見事に何も無い。見えるのは壁と天井くらいのものだし、しかもまるで見覚えが無かった。何故こんな部屋で寝ているのか訳が分らなかった。意を決して身体を起こそうとしたら全身が酷く痛かった。腹筋も背筋も身体を支える両の腕も、小刻みな痙攣と共に悲鳴を上げていた。力が入らない。筋という筋がぎしぎしと軋む。絶え間ない鈍痛に「ぐう」と呻き声が洩れた。
苦悶し呻きながら、それでも何とか上体だけを起こしてぜいぜいと息を荒げた。身一つ起こすだけでも一苦労だ。寝ていたベッドはとても固かった。お尻の下には毛布どころかマットすら敷いてなくて、冷たい鈍い銀色に光る金属製の天板の上に寝ていただけだった。
コレではベッドと呼ぶにも
そして薄暗がりの中で自分の身体を確かめてみた。ボクは裸だった。下着一枚身に着けていない文字通りの全裸だ。毛布どころかシーツすら掛けてなくて、しかも全身アチコチに縫い目があった。手といわず足といわず、それこそいたる箇所に手術の後のようなツギハギだらけなのである。
なんてこったと思った。
酷い姿である。いったいボクに何があったのだろう。ひょっとして事故か何かに巻き込まれ、怪我をしたのだろうか。だとすると此処は病院なのか。いったいどういった経緯で此処に居るのだろう。
そして何にもまして需要なコトがある。ボクはいったい誰なのかということだ。
文字通り訳が分らず途方に暮れた。必死になって思い出そうとするのだがどうしても思い出せなかった。何というか頭が回らない。脳ミソがまるで油粘土のようにガチガチに凝り固まっているような感じだ。ウンウン唸って頭を絞るのだけれど何も出て来なかった。
どういうコトだ。自分で自分が判らないだなんて、うっかりさんにも程がある。
焦る内にふと以前見た映画のワンシーンを思い出した。大怪我をした人物に「一時的な記憶の混乱」などと喋っている場面だ。自分が誰なのかも判らないこともある、とか言っていたような気もする。ひょっとして今の自分がそうなのか。
うーん。まぁ、なんだ。思い出せないものはしょうがない。判らないことで頭を悩ますよりも判ることから片付けていこうと決めた。試験問題を解くときと一緒だ。
そうやって無理やり気持ちを切り替えると、取敢えず此処が何処なのか知りたかった。薄暗くて不穏というか不自然というか、非道く落ち着かない部屋なのだ。
もう一度ぐるりと部屋を見回してみた。ちょっと身体を動かすだけであちこちの筋が突っ張って鈍痛が走った。全身に痺れる感じがあって自分の身体じゃないような違和感があった。
部屋は無機質で味気ない。人が使っている気配が微塵も感じられなかった。のっぺりとしたただの四角い箱である。その真ん中で、ボクは金属製のベッドの上に半身を起こして座っているのだ。
仮に此処が病院だったとしても、普通こんな調理台みたいな台の上に、裸の患者をゴロンと転がしておくものだろうか。無造作に過ぎやしないか。少なくとも毛布くらい掛けるのが普通だと思った。
まぁボクが思いも付かない何かの理由があって、裸で寝かせておく必要があったのかも知れないけれど。
それにしても暗いな、と思った。
天井の蛍光灯は消えたままで薄暗いし、只でも殺風景な部屋の中が更に辛気くさかった。明かり取りの窓から入り込む仄かな明かりと、同じく天井付近にあるエアコンの低く唸る音が聞こえて来るだけだ。
ボクが寝かされている隣にも空のベッド、というか同じような金属製の台が幾つかあった。四、五台はあるだろうか。ずらっと並んだそれを見ていると、まるで人間をただ並べて置くための部屋なのかというような気さえしてくる。
まるで貯蔵庫だ。
思わず浮かんできたつっけんどんな感想に思わず苦笑した。片頬だけで笑ったほっぺたが引きつってちょっと痛かった。
腰をずらし、何とかベッド代わりにしている台から両足を下ろして、そのまま床に立とうとした。だが立てなかった。膝にまるで力が入らずにストンと腰砕けになって、床の上にへたり込んでしまったからである。
「ああ、ダメですよ。まだ本調子じゃないのですから」
可愛らしい声が聞え、軋む首筋をじわりと回して振り返って見ると、一人の少女がソコに居た。
一四、五歳くらいだろうか?白衣を着た小柄で髪の長い子だった。いつの間に現われたのだろう。気付かぬ内にドアが開かれていて、向こう側から入り込む明かりがやけに眩しかった。薄暗さに馴染んでいた目には少々辛い。
「あ、ああ、あの、ボ、ボぉクぅわぁ・・・・」
目を眇めて話そうとするのだが、言葉が上手く出てこなかった。唇が小刻みに震えて非道くぎこちなかった。自分の口とも思えなかった。他人の口を借りて喋っているような不自然さがあった。
まるで木枯らしの吹く夜に凍えるさまにも似ている。
「無理に話そうとしない方が良いですよ」
彼女はそう言って肩を貸してくれて、もう一度ボクが寝かされていた台の上に座らせてくれた。
「施術は成功しましたけれども、まだじっとしていないと駄目です。縫い目が解けてしまいますよ」
子供に言い含めるような口調だった。この子は看護士なんだろうか?随分と若く見えるし、医者には尚更見えなかった。
「あと一晩は此処で辛抱してください。室温は摂氏八度ですが特に寒いというコトは無いですよね?」
えっ、そんなに低い温度なの。それでは冷蔵庫の中と大して変わらない。
かなり驚いたが確かに寒いとは感じなかった。相変わらず素っ裸で服どころか毛布やシーツも無い状態だというのに。
でも、でもね。そもそも手術だか何だか知らないけれど、怪我して治療した患者をこんな状態で転がしておくのはどうかと思うよ。せめてキチンとした普通のベッドを要求する。
「普通のベッドで眠りたいと思うかも知れませんが、今晩はこのままです。布地を纏うのも厳禁です。傷口に湿気が籠もったり常温で保管などをすると腐敗が始まってしまいます。そちらの方が後々厄介ですから、我慢、ガマンですよ」
幼子へ噛んで含めるような物言いをした後に、少女はニコリと笑んだ。目で訴えた要求が通じたのは嬉しいが、釈然としない気分は変わらなかった。
でもまぁ、仕方がないか。傷口が膿んだりするのはイヤだしな。でも寒くは無いとはいえ風邪とかは引かないんだろうな。裸で眠るなんて初めてだし。
「大丈夫ですよ。その身体はまだ完全ではありませんが、決してヤワでもありません」
またしても意を解してくれて、少女は液体の入ったコップを差し出してくれた。
「お薬を溶いたお水です。これを飲んでゆっくりと一晩お休みになって下さい。色々とお訊きになりたいコトがあるかと思います。でもそれは全て明日の話、ということでご容赦下さい。ここはわたしを信じて頂けませんか」
ボクは大きく吐息をついた。
そうか、明日になれば全部分るのか。
不安は在るけれど説明をされて少しだけ気分は落ち着いた。彼女の言うとおり明日まで眠るとしよう。今は自分が何者なのかも思い出せないし、正直ただ起きているだけでもかったるくてしょうがないのだ。
彼女が手渡してくれたコップを手に取った。
からん、と小さな音がして、見ればそこには小さな氷が浮かんでいた。
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