第六幕(その三)ボクは駆け出していた

 次の日は夜更かしの代償で昼前にようやく目が覚めた。

 なんだかキチンと眠れていない気がする。はっきりとは憶えていないけれど、眠っている間中ずっとうなされていたのではなかろうか。身体の節々が痛くて特に背筋と首筋が筋肉痛だ。ソファに座ったまま瓶を抱えて延々五時間弱、ずっと緊張しっぱなしだったせいに違いない。

 屍体が筋肉痛というのも妙な気がするけれど、痛いものは痛いのだ。筋が強ばれば身体の節々は痛むし、キョーフ映画のコンボが決まれば悪夢にうなされもする。屍体も生者も関係なかった。これは理屈なんかじゃあない。

 ブランチとも昼食ともつかぬ時間に食事をした後、日記を付けていなかったことを思い出して日記帳を開いた。

 あれ?

 何か書いてあった。書いた憶えはまるで無いというのに。立て続けのホラーで打ちのめされ朦朧となり、自動書記でもしたのだろうか。だとしたら大したものだ。読んでみると、うぎゃーとかうえーとか断末魔の擬音が綴られた挙げ句「もうホラーはイヤだ」とあった。

 うん、コレは魂の叫びだな。そして最後の一行に「一人だったら耐えられなかったよ」とある。ボクはいったいどういうつもりで書いたんだろう。やっぱり二号ちゃんを抱えていたコトを指してるんだろうか。

 何か憶えている?と俺はわたしに訊いてみた。でもしかし返事が無い。まだ眠っているんだろうか。俺が目覚めているのに彼女が起きていないというのも妙な感じだ。何度か繰り返して尋ねると辛うじて「なんかもうダメ」的なうやむやな声が聞えた。微かでおぼろげで頼りない返事だった。

 俺もわたしもまだ寝ぼけている、のか?

 ろれつの回らない「おやすみなさい」的な声の後に「じゃあね」と言われた。一瞬返す言葉が見つからず「うん」とだけ答えた。微笑むような気配があった。そしてそのまま静かに消えて行った。

「わたし」はまだ眠いらしい。

 今ひとつ釈然とせず小首を傾げたけれど、眠いのなら眠らせてやろうと思った。別に俺が起きているのなら日常生活に不都合はない。昨晩は結構な夜更かしだったから身体のリズムが戻っていないのかもだ。

 日記の件は不可解だけれども取り立てて悩む程のことでもないし、急ぐ必要なんて更になかった。深夜寝る直前に思いついたことをメモしても、次の朝になると内容を思い出せない。そんな経験は何度かあった。だからコレも似たようなものなんだろう。少し違和感があったけれども、そう納得することにして日記帳を閉じた。

 特にすることも思いつかず、かといって本を読む気にもなれず、食後の腹ごなしに散歩に出かけた。いつもの定例業務、町内巡回というヤツだ。でも少し足を伸ばそうと思ったのは何の気まぐれだったのだろう。気が付けば以前通っていた高校の前に来ていた。

 平日の昼少し前だというのに、生徒たちは三々五々に下校している最中だった。何かのイベントかなと思ったのだが直ぐに定期テストの時期かと思い至った。

 学校生活から離れて久しくて、もう高校生だった頃の気分もすっかり薄れてしまった。ほんのちょっと前までは、目の前の彼らと同じく制服に身を固めてテス勉だの赤点だのに辟易したり戦々恐々としていたというのに。

 目の前を通り過ぎる高校生達が別の世界の住人に思えた。あの中に以前の自分が居たのだというのが不思議だった。家族と友人と学校とが世界の中心だった。スマホとネットの情報とテレビや動画や様々なコンテンツ、そして本や色とりどりの娯楽やニュースが自分の身の回りを固めているのは変わらない。でも高校生だった頃とはまるで違う。いま居る場所は近くて遠い別の日常の中だ。

 体験や思いでというのは、ただ立っている場所が違うだけでこんなに簡単に、そしてこれほど遠い存在になってしまうのだなと思った。呆気ないというか素っ気ないというか。何ともいえない奇妙な気分だった。現実なんて実に儚いシロモノだなと思った。

 まぁボクは屍体だから仕方がないのだけれどもね。

 談笑しながら歩いて行く彼ら彼女らが非道く眩しく見えた。そして見知った横顔を見つけて、思わず「あっ」と声を上げてしまったのである。それは同じクラスだった同級生の女子だった。迂闊にも目が合ってしまった。怪訝な表情で二人の女生徒がボクを見つめて立ち止まっている。

 どうしよう、と少し焦った。素知らぬふりをして立ち去るか?それとも軽く会釈を交して誤魔化すか。

 確かこの二人は「彼女」の親しい友人だったはず。思わぬ鉢合わせだったけれども久しぶりの再会だ。このまま他人のふりをするのも気が引ける。軽い世間話くらいしてもバチは当たるまい。山川さんの知り合いです、とか適当に話を合わせて軽く会話する程度なら何も問題はないはずだ。ここは「わたし」に主導権をとってもらおう。

 それで良いよね?

 心の中で「彼女」に声を掛けた。その瞬間である。

「あ、あれ?」

 思わず途方に暮れた。ボクの中から「わたし」の声が聞えなかったからだ。

 卯月は俺村田貴文とわたし山川静子の親しい友人。以前そういう設定でお互いの家を訪ねた。だから今回も同じ段取りでやり取りするつもりだった。だがボクから問いかけたその返事が無い。

 まだ、眠っているのだろうか。

 だが何度も繰り返して呼びかけて、どうやらそんな単純なことじゃあないと気が付いた。彼女の気配が根こそぎ無いのである。

 ちょっと慌てた。どういうことかと思った。何処にいったと捜した。急いでボクの中をひっくり返して調べ直した。耳を澄ませて幾度も呼びかけた。だがまるで何も感じられないのである。

 コレはどういうコトなのか。

 ボクの中に俺は居る。だが彼女は、「わたし」はいったい何処にいった?

 今まで自分の中ではずっとずっと二人分がせめぎ合っていたというのに、今のボクには俺一人分の声しかない。

 繰り返し繰り返し「わたし」の名を呼んだ。

 眠っているのなら起きてくれと言った。だが何も感じ取れなかった。

 以前なら肌をすり合わせるように側で寄り添い合っていたというのに。それが当たり前だった筈なのに、いつの間にか俺しか此処に居ないのだ。ボクの中に俺一人しか居ないのである。

「あの、何か御用ですか?」

 目の前で立ち止り、固まってしまったボクを二人の女生徒が訝かしんでいる。ひそひそとお互いに耳打ちをして、チラチラとこちらを値踏みする視線を投げかけている。しかし構わずにボクの中へ声を掛け続けた。

 出てきてくれ、返事をしてくれと何度も呼びかけた。不安が渦をまいていった。どんよりとした灰色のものが見る間に色濃く暗いモノに為っていった。惑いが困惑へと変わり、そして焦燥になっていった。何処に行ったんだと臍を噛む思いだった。

「返事をしてっ!」

 いつの間にか声に出ていた。頭を抱えて叫んでいた。俯いて地面に向い、彼女の名前を連呼した。何度も何度もだ。声がだんだん大きくなった。必死だった。涙が滲んできた。歪んだ視界に二人の女子が顔を引きつらせて後退るさまが映った。

 だがそれどころじゃあない。

 頭の中から血の気が音を立てて引いていく。

 全身の産毛が総毛立つ。

 ゆらゆらと地面が揺れて足元が覚束なかった。まるで肩を並べ触れ合うほどの距離で座っていた隣人が、ほんの一瞬目を反らしただけで忽然とかき消えたかのような無機質な不気味さがあった。

 いったいコレは何時からだ?

 今朝起きたときから?眠そうにしていたのがその前兆だった?

 イヤ違う、もっとずっとずっと前からだ・・・・きっと。

 思い返してみれば、少し前から「彼女」の返事が少しずつ遠のいていくきざしはあったではないか。それに思い至らなかったことに慄然とした。

 いま「彼女」の友人が目の前に居ると意識して初めて、「わたし」の姿が掠れて希薄なことに気付いたのだ。ここ数日の漠然としたもやがすっと晴れて、目の前に見えていなかったモノを突き付けられた気分だった。

 俺はいったい何をしていたんだ?

 今の今まで、何故彼女のことを放っていた?

 一緒に居るのが当然と安心していた。これからもずっと一緒だと信じ切っていた。

 なのに・・・・

 足がカタカタと震えていた。風景がぐるぐると回り始めていた。このまま立っていられるかどうかも怪しかった。

 毎朝目覚める直前に脳裏に揺らいだ影を思い出す。直感だがもう確信に近い。今なら言える。アレは消えて行く途中の「わたし」だったのではなかろうか。

 気が付くとボクは駆け出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る