第六幕(その四)ただボロボロと泣くことしか

 路地を急ぐ。ただ急ぐ。頭の中がグルグルと回って何も考えられなかった。今まで感じた事の無い焦燥と、肌が凍るほどの怖気があった。家に駆け戻りスニーカーを脱ぎ散らかして大きな足音を立てて廊下を走り、ノックをするのももどかしく、書斎のドアを開けると「花子」と大声を張り上げていた。

 わたしを呼んでもわたしから返事が無い、そう叫んだ。支離滅裂な発言だ。自分でも何を言っているんだろうと思う。だがそれどころじゃなかった。

「声かけしてもわたしから返事が無い、何処だと聞いても何も答えが返ってこない、ボクの中の自分が影も形も見当たらない、何時からだったんだろうと思い返しても全然思い出せないんだよ!」

 ただただ、まくし立てた。

 居ても立っても居られなかった。どうしていいのかサッパリ分からなかった。がらんどうな自分の中で、以前なら諫めてくれたもう一人の自分が居ない。取り残される不安と喪失感に肌が震えた。指先が震えた。唇が震えた。もちろん声も。

「これは、これはどういうコトなんだろう。花子なら判る?何か知っているんじゃないの。ボクはいったいどうすればいい?」

 なさけない半泣きの声だ。だが取り繕う余裕なんてなかった。今のボクは言葉を絞り出すだけで精一杯。いきなり部屋に乱入された花子は振り返った椅子の上で唖然としている。でも言葉をじっと聞いていてくれた。

 どれ位の時間が必要だったのだろう。何度もどもりながら、要領が悪くて拙い説明を繰り返し、やがて咀嚼してボクの言葉の意味を理解した花子は、腑に落ちた様子で目を伏せた。そして「そうですか」と小さく呟いた。

「お茶を飲みながらお話しましょう。少しは落ち着くと思います」

 花子はそう言って椅子から立ち上がった。


 コップ一杯の水に角砂糖は幾つ溶けるだろう。

 溶けきる量は決まっているし、それ以上はどうやっても溶けきらない。無論、水を火にくべてお湯にすれば溶ける量は増えるけれど、冷えればやはりコップの底に目に見える形で出てくるものだ。花子が言うには人の意識もこの角砂糖みたいなもので、脳ミソの中で溶けきれないものが表面に浮かび上がって来たものなのだそうだ。

「逆に量が少なければ水に完全に溶け込んで目には見えなくなってしまいます。卯月さんの中にある『静子さんの分量』が少な過ぎるのです。でも無くなってしまう訳ではありません。ただ表には出て来なくなった、というダケの話で」

 ボクの中で「わたし」が見当たらない理由をそんな具合に説明した。

「その話しぶりだと花子は最初から分っていたんだね」

「はい。遠からず静子さんは深い所に沈み、貴文さんが主導権をとるだろうと思っていました」

「何で教えてくれなかったの。そして何でボクは今のいままで気付かなかったのかな」

「自分自身への問いかけなんて日常生活の中ではしませんから。大抵は他者から問われて初めて気付いたり考えたりするものです。卯月さんに責任はありませんよ」

「防ぐ手立ては無いの?」

「以前も申し上げましたが、お二人の分を合わせても、卯月さんとして修復するには足りなかったのです。それに静子さんの損壊度が余りにも大き過ぎました。欠損率と言った方が正しいのかも知れません。

 一番非道かったのは実は頭部で、原型どころかどの肉片がどの部位なのか特定すら出来ませんでした。最初の段階では静子さんの意識はもう残って居ないだろう、精々記憶の断片が在る程度と考えていました」

 逆に村田貴文の身体で一番損壊度が低かったのは頭部だったのだという。警察の現場検証によれば、突き飛ばされるか逃げようとした形跡が見られたのだそうだ。花子が覗き見した所見にはそんな具合に書いてあったらしい。

 俺はトラックにまるで気付かなかった。大声を出したのは彼女の方だ。じゃあひょっとして、彼女が俺を助けようとしてくれたからこそ、今のボクが居るということなのか?

「そうかもしれません」

 肯定の返事にボクはただ呆然とするしかなかった。

 花子の最初の予想では、ボクの中に残るのは「彼女」の記憶の欠片を持った「俺」だろうと考えていたのだそうだ。それが思いの他に強く山川静子が残って居た。だが時間が経つにつれゆっくりと一番深い部分に沈んで、溶け拡がってゆくであろうことは予想出来たという。

 そしてその意識が集まることは二度とない。溶けた角砂糖が元の形に戻ることが無いように。仮に集めることが出来たとしても、それはただの記憶で人格ではないのだという。

 パソコンの中のOSが破損して、消失したようなものだとも説明された。専用アプリを喪失し二度と実行されない、ただ保存されているだけのデータのような存在になったのだと。

 つまりそれは「彼女」の死であった。

「止める方法は無いの?」

 花子はゆっくりと首を振った。

「むしろ今までよく保ったものだと感心するほどです」

「じゃあ、じゃあ消えてゆくのを指を咥えて見ていろと」

「残念ですが」

「イヤだ!」

 ボクは叫んでいた。

「どうしたらイイ?どうすれば元に戻せる?どうやったら引き戻せる?ボクが出来ることならなんだったやる。難しくてもイイ。辛くて苦しかろうが構わない。お金が必要だというのなら例え一生かけてでも稼いで・・・・」

「お金とか方法の問題ではないのです。わたしの知識と技の全てを駆使して卯月さんを再生しました。いま以上にそのお身体を治す術を知りませんし、それが可能な方も思いつきません。例えこの世界で最高の病院に入ったとしても、人類医学では手に負えないでしょう。既に現状がいま対処しうる精一杯の状態なのです」

 花子の言っている事は分る。彼女が持てるもの全てを注いで治してくれたという言葉に何の疑いもないし、感謝だってしている。でも、それでも納得なんて出来なかった。

「わたしが、わたしが居なくなるなんてイヤだ。俺が消えて無くなるのならイイ。我慢出来る。でも、でもわたしが、彼女が居なくなるなんて絶対にイヤだ!」

 叫ぶ声がリビングの空気を震わせていた。泣き叫んでいた。体裁なんか知ったことか。失いたくないという気持ちだけが全てだった。

 事故に会ったその日から、決して全てが順風満帆とは云えなかった。よく分らない連中と出会ったりはた迷惑な事柄に巻き込まれたり、悲鳴を上げたり取り乱したりすることもあった。普通の人と会うよりも普通じゃない連中と出会すことの方が多かった。凡庸とはかけ離れた奇天烈な毎日だった。平凡を平凡と自覚するコトすら無かった以前の生活が、どれだけ貴重なものの上に積み重ねられていたのかと知った。

 でもその程度のドタバタなんて些細なコトだ。また新しくやり直せたのだから。

 非常識でも平穏な日々を送れたのは、ボクの中にわたしが居てくれたお陰だった。今までの生活を全て失って、家族に会えなくなっても耐えられる。俺一人ならヘコみもするが、彼女が一緒なら大丈夫。二人なら何でも乗り越えられるという確かな心強さがあった。今まで平静を保っていられたのもそうだ。彼女が俺と一緒だったからだ。

 素直に楽しかったと言えた。虚勢なんかじゃない。

「何とかして。何とかしてよぉっ!」

 椅子から腰を浮かし、テーブルから身を乗り出して花子の両肩を掴んで揺さぶっていた。だがすがりたい言葉は返ってこなかった。辛そうな表情で見つめ返していた顔が伏せられて、「どうしようもないのです」と呟く声があった。

「死んだ人は帰って来ないのです」

「嘘だ。ボクを死人だと言ったのは花子じゃないか。死んでいてもこうやって話したり食事をしたり出来るじゃないか。俺をボクとして復活させたじゃないか。もう一度、もう一度お願いだよ。彼女の身体はボクの身体として残って居る。何とか出来るんじゃないの?」

 叫び続けた。

 微かな希望が在るのだと信じたかった。

 しかし何も変わらなかった。どんなに必死になって訴えても、叫んで繰り返してみても返ってくる答えは同じだった。

 そして最後は「申し訳ありません」という花子の言葉に、ただボロボロと泣くことしか出来なかった。

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