エピローグ(その一)

 頬を撫でる風が、そのまま川縁の草むらを騒がせて流れていった。空には雲一つ無く、太陽が我が物顔で夏光線を照射している。暦の上では立秋を過ぎているというのに挫ける気配が微塵もない。実に仕事熱心である。ちょっとは手心を加えてくれてもいいのに。

 そんな八月の日差しが目に痛くて、眩しさに思わず遠くを眺める瞳を眇めるのだが、悪い気分じゃ無かった。足元には真っ黒な自分の影が、古びた煉瓦敷の路面に焼き付いていた。まるで黒い紙を切り抜いたかのようなコントラストだ。歩く遊歩道に人影は無かった。まぁこんな盛夏の昼日中、出歩く物好きは多くなかろう。

 肩越しに振り返ると、道端の猫じゃらしを摘んで口に咥えた二号ちゃんがノンビリと着いて来ていた。以前通りの姿格好で、以前通りの気怠げな歩きっぷりだ。

「なに?」

 視線に気付いた彼女がやっぱり気怠げに声を掛けてきた。だる~んとしたオーラも以前のままである。

「身体の方はもう何ともないのかな、と思って」

「もう平気。でも卯月がアタシのお願いを聞いてくれたら万全だと思う」

「その可能性は皆無だから諦めた方がイイと思うな。花子も一緒に来れば良かったのに」

「花子は暑いのあんまり得意じゃないから。冬の方が好きって言ってる。逆にアタシは夏の浜辺とかが好き。この太陽光線がジリジリ全身を焼くのがイイ感じ」

「焼かれているのは二号ちゃん本人じゃないでしょ。表面のアレでさ」

 擬態の為のフナムシモドキを全身くまなく纏っている訳だから、むしろ身体の真ん中で蒸し焼きみたいな状態なんじゃないかと思う。けれど本人が気にしている様子は無かった。

「でも卯月は変わっている。お盆だからって自分にお墓参りして何になるの。死んだ本人が自分に手を合わせているだけじゃない。死んだ人間は消えて無くなるダケ。魂なんて無い只の無、他の生き物と一緒。あの世があるだなんて、そんなファンタジーに酔っちゃって莫迦みたい」

「死んじゃって今まで積み上げたことが全部チャラになるだなんて、それはあまりに寂し過ぎるだろ。あって欲しいと願う気持ちを軽く扱うのは感心しないな」

「卯月だって本当は信じていないクセに」

「本当だったらイイなって思っているさ」

「ただの自己満足、ただの自己欺瞞」

「五月蠅いなぁ。着いて来たいって言ったから連れて来たけれど、それ以上イチャモン付けるならこの場で解散させちゃうよ。草むらの中に放置してボクは帰るからね」

「分った、黙ってる」

 途中に寄った花屋で仏花と共に併売されていた線香だのロウソクだのも手に入れると、ボクは「彼女」のお墓がある墓地に向った。

 自分で言うのも何だけれども妙な感じ。ボクは此処に居るのにボクが居なくなったと哀しむ人達が居る。そんな罪悪感と寂寥感とがない交ぜになった気持ちがあった。別れた相手の半分は残って居るのにその当人は消え去り、残してくれた恩恵だけをボクだけが受け取っている。ボクは此処に居て良いのだろうかという後ろめたさだ。

 山川家のお墓を見つけて仏花を差していると背後に人の気配があった。振り返って見ると花子が居た。

「あれ、どうしたの。暑いのは苦手だから家に残っていたんじゃ?」

「実は色々と迷っていたんです。山川静子さんをお救いすることが出来ませんでした。卯月さんが悲しむのを止めることが出来ませんでした。お二人に悪くてわたしがお墓にお参りするのは筋違いなんじゃないかと思ったのです。でもやっぱり、キチンと謝った方が良いのでは、そう思い直してこうしてやって来ました。ごめんなさい」

「花子は何も悪くないよ。謝る必要なんてない。むしろ感謝しているから。花子が居たからこそ、ボクは此処にこうして居られるんだから」

 線香の束に火を着け、思いの他に煙い臭いに少しむせたあと手を合わせた。

 墓前に手を合わせても其処に魂があるとは限らない。黄泉とかあの世とかもまた同様、あって欲しいと願い祈る者の心があるだけだ。だがその気持ちが大事なんじゃないかと思った。

 花子は「彼女」は霧散して消えると言った。ボクはそんな筈はないと叫ぶその一方、その言葉に間違いはあるまいという直感があった。今はもう「山川静子」の声は聞えない。少し前までは目覚める度に感じていたあの微かな感じ、夢の声すら消えて久しかった。花子が説明してくれたように、確かにボクの中には彼女の破片は残って居る。でも記憶の断片というか思いでの一部というか、うろ覚えの風景や曖昧な体験となってその折々に思い出すかのような、その程度だった。

 ちょうど古い日記帳を開いて「ああ、そう言えばこんなこともあったなぁ」と懐かしむ感じに似ていた。しかし話し掛けてみても返事はない。ある筈がない。記憶はただの記憶。日記帳は彼女の出来事を記したものでしかなくて、彼女自身ではないからだ。

 彼女はもう完全に逝ってしまったのである。

 仏花を墓前に供えて線香に火を着けた。普段嗅ぎなれない煙たさに少しむせた。そして両手を合わせて黙祷する。でも何を祈ればよいのだろう。安らかにというのも少し妙な気もするし、死者を悼むのが死んだ人間というのも小さくない違和感があった。その辺りはどうなのか。一部分とはいえ彼女の身体はボクと一緒だ。思いでも胸の奥に安置されていて、好きなときに思い出すことも出来るのだ。

 しかし相手を思う気持ちがあればそれで良いのでは、と思い直してただ祈った。

 お参りを済ませて立ち去ろうとしたら山川静子のお母さんと出会した。お互いに「あ」と小さく声をあげ、そしてお互いに深々と頭を垂れた。

「お花まで。わざわざありがとう」

 お母さんは静かに笑んでいた。柔らかで随分と落ち着いた物腰だった。

 隣には見知らぬ中年の男性が立って居る。「静子の父です」と挨拶をされて、夫婦共々もう一度丁寧に礼を言われ、また深々と頭を下げられた。

「娘もきっと喜んでいると思います」

 以前会った時よりも随分と血色は良かった。そんな母親の言葉にボクは苦笑することしか出来なかった。

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