ジュラシック・パーク〜映画との比較〜

 今回は『ジュラシック・パーク』を取り上げます。私は本作の映画を小さい頃から何回も見て、多大な影響を受けています。映画ではパニック映画の側面が強いですが、小説は違います。本書の感想を書きながら、映画との差についても触れたいと思います。


 まず、本作を簡潔にまとめると「恐竜を遺伝子操作で現代に蘇らせた話」です。恐竜を蘇らせるのはかなり魅力的ですね。ロマンがあります。一方で大きな危険も伴います。恐竜は既に絶滅した生物です。もちろん、生態系は化石から想像するしかありません。すなわち、恐竜を蘇らせたところでうまくコントロールは出来ないのです。


 本書は恐竜が生き生きと書かれている点に目がいきがちですが、本質は登場人物の一人マルカム博士の「カオス理論」及び「科学への批判」にあると思います。特に「科学への批判」が大きな要素です。マルカム博士は科学を徹底的に批判します。その中でこんな持論を展開します。以下、引用です。


「だれかが素手で人を殺せる能力をもとめたとして、それを獲得するころには、その力をみだりに使わないだけの分別がついていることだ。(中略)ところが科学という力は、相続財産に似ている。なんの努力もなしに手にはいるからだ。先人の研究を読むだけで先へ進むことができるんだからな。(中略)偉大な先人たちの業績をちゃっかり利用している以上、なにかをしようとすればあっという間にできるだろう。自分がなにをしたのかろくにわかりもしないくせに……」


 マルカム博士は著者の分身と言えるでしょう。著者は科学に対して警告をしているのです。マルカム博士の言葉は耳に痛いですね。本書が書かれたのは千九百九十三年です。今から三十年も前です。私たちはこの三十年間、マルカム博士の言葉を真剣に考えたことがあるでしょうか。私はないと思います。私たちは科学で便利な生活を送れる一方で、自分たちが何をしたのか理解してないように感じます。


 さて、映画と比較してみましょう。映画では先に述べたようにパニック映画の側面が強調されています。映画という性質上、マルカム博士の上記のような持論の描写はありません。そして、映画ではアラン・グラント博士が絶対的正義のようになっています。恐竜を知っているものすごく善人だと。私も子供のころはそう思って見ていました。しかし、本書を読むと印象がガラッと変わります。グラント博士も一科学者なのですから、マルカム博士の批判対象です。何もマルカム博士が絶対的正義とは言いません。しかし、本書を読んでからはマルカム博士の方が科学に対する危険性を把握している点で、私たちが得るものが多いと思います。


 かなり長文になってしまいました。『ジュラシック・パーク』は私の原点でもあるので許してください。


 今回はこの辺で。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る