第7話 宵の口、ふたりで過ごす初めての夜

 *


 帰りもふたり、手をつないで帰ってきた。


 あいも変わらず彼女は、目に映るすべてに興味を示し、信号を渡るときも停まっている車をしげしげと眺めていたりした。


 まるっきり子どもだ。


 突然継母ままははができて、まず最初に戸惑い、つぎに恥ずかしくなった。


 だってこんな……とてつもない美少女とひとつ屋根の下で暮らすだなんてこと、自分の人生で起こるなんて思ってもみなかった。


 だが、フタを開けてみればミアさんは地球の常識をなにも知らず、目を離すとどこに飛んでいくかわかならい風船みたいなヒトだった。


「地球ってすごいですねえ」


「え? そうですか?」


 再び住宅街に入り、薄暗い路地をふたりで歩く。


 ミアさんはブンブンと、オレの手を握ったまま、腕を振っていた。


「だって寒くもないし暑くもない、どこを見ても光が溢れてて、市場に行けば食べ物があんなに豊富に売ってる。突然脇道からモンスターが襲ってくることも、雪に埋もれてヒトが死んでることもない。なんて素敵な世界なんでしょう」


「…………」


 こ、このヒトは、一体どんなところに住んでいたんだ。


 テレビでたまに紹介される異世界の風景は、とんでもない大自然の眺望と、地球の文化圏にはない、それなにり発達した都市部が映し出される。


 でも実際には、ぜんぜん発達していない、それこそ、日本の僻地よりもさらになにもない、電気も上下水道も存在しない場所から来たのかもしれない。


「……日本だって、雪は降りますよ」


「え、そうなんですか、それ、聞いてないです!」


 聞いてないって誰にだ? 秋月さんからかな。


「まあでも、東京で降ることは滅多にないです。ただ、結構寒くなりますよ」


「そ、それってどれくらいですか? 川が凍って海まで歩いていけますか?」


「え? いやいや、さすがにそんな大寒波はこないです」


「そうですか、なら温かいですね!」


 温かいっていうのかなあ。いや、このヒトの基準だと温かいのか。


「あ、でも夏は覚悟してください。日本は湿気が多くて、メチャクチャ暑くなるので」


「そ、そうなんですか……! それは大変そうですね……」


 おや、熱いほうが苦手だったかな。


「まあでも、うちのアパートにも型は古いですけどエアコンがありますし。あれがなかったらとても夏は越せませんね」


「えあこん、さん、ですか? あのお部屋にはわたしとユウイチさん以外に誰もいなかったはず……」


「全部あとで説明します」


 そんなことを話しながら歩いていると、あっという間にうちに着いてしまった。

 つないでいた手を離し、部屋の鍵を開ける。


 ふと、なんだかもっと歩きながら話していたいな……などとオレは思ってしまった。



 *



「落ち着け、勉強に集中しろ……!」


 時刻はもう間もなく23時になろうとしていた。


 オレは六帖間のまんなかに置かれたテーブルに参考書を広げて、図書室での勉強の続きをしていた。


 だが、さきほどから一向にペンが動かない。原因はわかっている。それは――


 ――はああ、すごいなあ、こんなにたくさんのお湯が使えるなんて、地球ってば最高だよぉ!


「……ッ!」


 くぐもったミアさんの声が聞こえてくる。そう、彼女はいま風呂場にいた。


 さきほど、オレが調理した男チャーハンをうまいうまいと食べ終えたミアさん。


 ちなみにわたしが作ります、お義母さんですから! と最初は張り切っていたが、ガスコンロの使い方がまったくわからなかったので、今回は辞退してもらった。


 そうしてお腹が膨れれば、あとは寝るだけである。

 でも寝るまえにしなければいけないことがあって……それがお風呂というわけだ。


 ガンコンロと同じく、お湯の出しかたも、シャンプーやボディソープの使いかたもわからなかった彼女にそれらを急ぎレクチャーしていると――


「え、ユウイチさんは一緒に入らないんですか?」


「は!? なにを言ってるんですか、入るわけないでしょ!」


「でも、わたしたち親子ですよ?」


「たとえそうでも、さっき出会ったばかりでしょ!」


「えー、でもでも、わたし、ユウイチさんになら裸を見られても平気ですよ?」


「ダメっ! オレは平気じゃないからダメです!」


「そんな……!」


 何故かミアさんはショックを受けた様子で涙目になり、唇を尖らせてこちらを見てきた。


 おいおい、そんな拗ねた表情も可愛いかよ。勘弁してくれ……!


「わかりました。ひとりで入ります」


「そ、そうしてください」


「……と言いつつ、途中でこっそり入ってきてもいいですよ?」


「早く入れ!」


「ひーん!」


 なにが「ひーん」だ。まったくこのヒトは。


 オレはコップに水を汲んで一気に飲み干す。

 水分補給したとたん、ドッと汗が吹き出してきた。


 心臓もドクドクいっている。


 落ち着け。幼い子どもじゃあるまし、この歳でお義母さんと一緒にお風呂なんてありえないだろう。


 ミアさんもきっと本気じゃないさ。冗談の類だよまったく。


 ――シュル、スサぁ、ファサぁ


 そのような音をオレの聴覚がとらえた。

 ま、まさかこれは、扉一枚へだてて、ミアさんが服を脱ぐ音が聞こえてくる!?


 オレは手近にあったフェイスタオルを頭からかぶった。

 ボロアパートの壁が薄いことで、まさかこんな弊害が起きるなんて!


 ――ガチャ、という音が聞こえた。


 どうやらミアさんは脱衣所から浴室に入ったようだ。

 よかった。これで音が聞こえることもなくなるだろう。

 そう思っていると――


 ――しゃああああッ!


「ッ、おいおい、まさか……!」


 勢いよく水が噴きだす音がする。

 なんてこった、ミアさんあんた、浴室のドアをちゃんと閉めてないな!?


 つまり、いま浴室からの環境音を遮るのは、オレの視界に映る脱衣所のドア一枚のみということに。


 ど、どうする? どうしたらいい?

 ちょっと脱衣所のドアを開けて、「ミアさーん、浴室のドアも閉めてくださーい」と言おうか?


 いや、下手をしたらミアさんの裸をモロに見てしまうことになりかねない。

 そ、そんなことになったら犯罪者になってしまう。

 オレがまごまごしていると――


 ――ふふーん。うふふ……。


 は、鼻歌まで聞こえてきた!

 ミアさん、あんたなんてASMRを聞かせてくれるんだ!


「い、いかん、このままで頭がおかしくなる! そ、そうだ、勉強、勉強に集中すれば、こんな音なんて……!」


 オレは脱衣所のドアに背を向け、タオルを頬かむりしたまま、参考書とノートを広げた。


「3.141592――」


 とにかくペンを動かす。

 パッと思いついた円周率をえんえん書き起こしていく。


 いいぞ、集中できてる。

 円周率は偉大だ。

 円周の長さは2パイアールだ。


「にーぱいあーる? にーぱい……」


 パイがふたつ……ミアさんのおっぱい!?


「アホかオレはッッ!」


 テーブルに思いっきりヘッドバッドする。

 ゴチン、という音がして、消しゴムが吹き飛んでいった。


「数学はダメだ! 現国だ現国!」


 えーっとなになに、国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だったと。

 雪景色……一面の銀世界……銀色の髪……ミアさんの長い銀髪。


「うああああああッ!」


 オレは部屋の片隅にある冷蔵庫にタックルした。

 そしてそのままガインガイン、とおでこを何度も打ちつける。


「なんなんだよぉ、どうしちまったんだよオレはぁ……!」


 いままで、本当にいままで、女性になんて興味なかったのに。

 ミアさんだけ特別なのか?


 たしかにオレがいままで見てきた女性……テレビやネットのなかも含めてダントツで一番キレイなヒトなのは間違いないけど、だからってオレ自身がこんなふうになってしまうなんて。


「た、耐えられない……」


 こうなったらもう最終手段だ。走ってこよう。

 確か荒川を越えたあたりに神社があったはず。


 そこにお参りに行こう。そしてこの煩悩を消し去ってもらうのだ。


「よし」


 ジンジンする額を抑えながら、オレが玄関へ向かうと、その途中にある脱衣所のドアが唐突に開いた。


「はあ〜、たんのうしましたぁ。あんなにたくさんのお湯に全身浸かれるなんて……とんでもない贅沢ですねえ」


「…………」


 現れたのは湯あがりのミアさんだった。

 濡れた銀髪はキラキラと輝き、火照った褐色の肌が実になまめかしい。


 なによりオレをその場に釘付けにしたのは彼女の2パイアール。

 寝巻きのかわりに貸したオレのTシャツの胸もとを押し上げる圧倒的なボリュームだった。


 しかもよく見れば、ふたつの大山の頂きに、ぽ、ぽっちが……!


「あら、上着なんか羽織って、どこかにおでかけですか、ユウイチさん」


「いえ、べつに」


「そうですか、いいお湯でした。お風呂って最高ですね。ユウイチさんも入ってきてください」


「はい……そうします」


 ガチャ、バタン……。


 脱衣所に入ったオレは、さらに打ちのめされる。

 いままで嗅いだことのない、とてつもなくいい香りが漂っていたからだ。


 おんなじシャンプーとボディソープを使っているのに、どうしてこんな未知の芳香が漂っているんだ!?


 とにもかくにも、服を脱いで浴室に入ったオレは、真っ先に冷水シャワーを頭からかぶるのだった。

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